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開館スケジュール、ワルシャワ、クラクフなど主要都市からのアクセス、ボランティア募集やガイド予約など、見学に必要な情報が網羅されています。
★ 『ホロコースト―絶滅収容所の記憶 (毎日ムック シリーズ20世紀の記憶)』より抜粋 ★
アウシュビッツ(ポーランド名はオシフィエンチム)は、ワルシャワの南西257㎞に位置する人口1万2000人の小さな町だった。
戦前には、ポーランド以外の国では全く知られていなかった。
収容所の建てられた土地は、澱んだ生けに囲まれた湿気の多い、悪臭に充ちた所で、霧の多い泥炭地だったため、周囲に人が住んでいなかった。
「あたかも、死が見守っているかのように、数千年間というもの、生に見離されていた場所」だった。
収容所が開かれたのは、1940年6月のことで、その頃には、オーストリア軍の兵舎だった建物の六つの古いバラックと一つの見捨てられた煙草工場の建物しかなかった。
最初の「囚人」は728人のポーランド人政治犯で、この収容所の目的は、政治犯の監禁であった。
41年夏、ナチス親衛隊の主席警戒隊長ルドルフ・ヘスはベルリンに召還され、ヒトラーがユダヤ人問題の最終的解決を命令したことを知らされる。
そのため、ポーランドの収容所が十分な効果を上げておらず、ヘスは、効果の上がっているトレブリンカを死さすするよう、ヒムラーに命じられた。
ヘスは42年にトレブリンカを訪れ、そこで用いられている方法がまだ原始的であることに気付く。
トレブリンカでは、小さい部屋に排ガスを流すやり方で、失敗も多かった。
このガス計画では、6ヶ月で8万人が殺されたが、それでも計画より劣っていた。ワルシャワのゲットーを一掃する計画のため、ヒムラーはより効果的なやり方を望んでいた。
アウシュビッツという周囲から隔離された収容所は、これに適している、とヒムラーは考え、ヘスや4週間の計画準備期間を与えられ、国家保安省で重要な地位に就いているアイヒマンと連携して、計画立案するよう、命令を受けた。
アウシュビッツのブロック11は収容所内監獄で、41年9月初めて毒ガス(チクロンB)実験が行われた。中庭を隔てたブロック10は、医学実験用のブロック、この二つのブロックの間には、黒い壁があり、この壁の前では、「囚人」が銃殺された。ブロック11はガス室としては不都合なので、古い死体焼却場が用いられた。
このアウシュビッツのガス室では処理しきれず、ビルケナウの収容所の近くの道から外れた所にある二つの古い農場の建物に重い木の扉を取り付けたものが、とりあえず、急造のガス室となった。
この農家の外で、人々は衣服を脱がされた。
扉には「浴場・消毒室」と掲げられ、「囚人」にはノミを取り除くためだ、という印象を与えた。
衣服を脱がされた囚人は、一回に250人ぐらいずつ部屋に入れられ、1,2缶の「チクロンーB」が壁に造られた隙間から注ぎ込まれた。
チクロン-Bは青酸の天然の化合物を含んでいるので、犠牲者を死にいたらしめるのには、天候によって時間は異なるものの、10分以上かかることは、稀だった。
最初に女と子供が入れられ、男達は、数を少なくして入れられた。
ガスが充満して、苦しみ始めてから、死ぬまでの数分間に男達が死に物狂いで、扉を押し開けようとするのを阻止する計算だった。
30分後、扉が開かれ、死体は、ユダヤ人の特務班の手で除去され、穴の中で焼かれた。焼却の前に死体から金歯と指輪が奪取された。薪を死体の間に積み、穴の底に溜まった脂肪は、集めておいて、雨で火が消えぬように、バケツで薪にかけるのに用いられた。
穴いっぱいの死体を焼くのには、だいたい6~7時間かかったが、人の焼けるにおいは収容所に充満した。穴で焼かれて、骨になった死体は重い木槌で粉砕され、近くの川まで運び、投げ捨てられた。
この記述は、ヘス自身が戦後の裁判で陳述したものである。
42年ビルケナウに四つの新しい大焼却場のうち二つが完成。
穴を掘って焼くという原始的処理から、工場の近代的施設に移行した。
その頃には、ガス室もきちんとした施設に改善されて、シャワー室の外見が整えられた。本物のシャワー室からはお湯が出たが、ガス室のシャワーからは毒ガスが出た。
時たまガスが出ず、抹殺が失敗したこともあったが、ガスが作動したときは、死体は、エレベーターで上の階の焼却場に運ばれ、オートメーション工程が始動した。第二焼却場には五つの焼却装置があり、それぞれに三つの炉がついていた。
一つの炉では、一度に3~5体が焼けたので、第二焼却場では、一度に45~75の死体を焼くことができた。
ガス室は焼却場と同じ4室で、1日に6000人を殺す「能力」があった。
45年1月27日、ソ連軍がビルケナウに入った時、35万8000着の男性用衣服と83万7000着の女性用衣服、紙袋に入った7000㎏以上の頭髪が発見された。頭髪は、ガス室に入る直前に刈られたり、死後剃られたりしたもので、髪の毛から毛布を編んだり、防寒用の間材とした。
アウシュビッツには約150万人が登録されたと推定されるが、「働けば自由になる」とっかれたその門を通った者の大半は登録される前に選別され、ガス室に送られた。奴隷労働に耐えられる者だけが左腕に入れ墨をされ、しばらく生きることを許された。
44年春から夏にかけて、ハンガリーから10万人の「ジプシー」がアウシュビッツに送られた。
そして、1日に1万人がビルケナウのガス室で殺された。
ブタペストとスロバキアのユダヤ人指導者たちは、連合国軍にアウシュビッツの爆撃か、収容所への鉄道線路の破壊を要請していた。要請は米国に様々な口実で拒絶された。アウシュビッツは連合国軍の爆撃機の首尾範囲外であるとか、ドイツ側の報復を招くとかが理由だった。

1942年夏以降、アウシュビッツの周辺に附属収容施設が建設される。
主眼は、収容者の奴隷労働を軍需産業に役立てることだった。
最も大きな労働キャンプはブーナに建てられたI・G・ファルペン社の合成ゴム工場だった。キャンプはポーランドの地名からモノヴィッツと名付けられ、アウシュビッツⅢと呼ばれた。
各社の現場職工長らは、互いに最大生産性を競い合い、それにこたえられない「囚人」に代わって、新参者をよこすよう要求した。
奴隷労働で摩滅した労働者は、回復して、再度奴隷労働に耐えられる可能性のある者だけが、病人棟に入院できた。
医療不足のため、普通なら数日で快癒するはずの患者がすぐ死亡してしまうこともあった。「囚人」にとって、体調を崩したものに襲いかかるまでなんでもない病気は、実際には、死刑宣告に等しかった。
入院あるいは、労働免除の患者数は、冬季でキャンプ全体の10%、夏季で6%を超えてはならない、とされ、「選別」は常に収容所の不断のシステムであった。
モノヴィッツでは、正午と夕方に1リットルのスープが配給された。
昼のスープはただのお湯というものだった。
たまに乾燥野菜、木の枝のような植物の茎、稀にキャベツの葉数枚やカブが浮いていた。
夕方のスープはもう少しトロミがあった。週に4回ジャガイモが一、二かけらスープに入っていたが、皮はむいていない、黒々とした腐りかけた代物だった。スープのトロミは、デンプンでつけたもので、週2回スェーデンカブ入りスープは食えた代物ではなかった。夕方のほうには、それでも最高1リットルあたり1グラムか2グラムの脂肪が含まれていた。
おがぐずのようなふすまを含んだ1日300グラムから350グラムのパンに週5回25グラムの固形マーガリンか、他の脂肪性物質5グラムが配られた。
週1回、大匙1~2杯のマーマレード=20グラムが割り当てられ、大匙2杯の白チーズ=30~40グラムが時々配給になることもある。
以上は最大に見積もられた配給食料の値である。カロリー数で、ほぼ1000~1100カロリーで、これは、休息状態の人一人の生命維持に欠かせない最低限度を下回るものだった。
食生活は厳密に菜食であり、栄養バランスの面からは欠如が甚だしい。
また所内の水は飲料水ではなく、1日最高半リットルの代用コーヒーが飲料として与えられた。
モノヴィッツには、合計39のキャンプがあった。「囚人」はビルケナウに到着すると、まず降車場で選別される。家族を男と女に分け、SS医師によって、労働不適格者と適格者とに分けられる。
不適格者は、直接、ガス室に送られる。
他方、医務室でなされる選別は、SS医師の前で裸になり、一人一人医師の前を通り過ぎる。医師は人差し指を軽く動かし、バラック内にとどめておく。彼らは死の宣告を受けたのだ。その不幸な者達には、別の収容所に移送になった等ウソを言い、ガス室行きとなる。
ここからは、ただ焼却炉の煙となって出ていけるのみだ、と「囚人」たちは、入所の最初に言い渡されたことが、真実であることを学ぶ。
※ 残酷な映像が含まれます。ご注意下さい。
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