己の極限に挑む

「本当に好きなのねえ、ピアノが」

「『好き』なだけなら、まだいい。あの子は本気で己の極限に挑もうとしているから、質が悪い」

「もし、それを突破したら?」

「また次の壁が現れる」

「……」

「芸術は非情だよ。生涯、己の極限に挑み続けなければならない。絶えず新しいものを生み出す為に、我を離れ、精神を飛ばし……時には自分の一切を破壊し、一から立て直す。破壊と創造、そいつを自分の中で絶え間無く繰り返すんだ。僕でさえ、このまま正気を失うんじゃないかと恐くなる事がある。それを思うとね……」

「あの子はそんなに脆い人間じゃないわ。どんな時も鋼のように堪え、自ら輝ける力をもっている。そういう命の強さを、あの子はステラ・マリスの父親から受け継ぎ――あなたからは、芸術に向かう心を受け継いだ。芸術への絶え間無い希求と、この世ならぬ光を垣間見る感性を。そんな二人の父親に支えられている子が、どうして正気を失い、破滅したりするかしら?」

「――だと良いんだがね」彼は溜め息をついた。

「正直、僕にはあの子がどれ程のものなのか解らない。音楽的にも……人間的にも、だ。あの子はあまりにも心の変化が早くて、僕にはあの子を見極める隙も無い。昨日と今日とでは、もう別の人間になっていて、思いも寄らぬ一面をのぞかせる。日ごとに違うあの子を見せられて、僕はただ戸惑うばかりだ」

三番街でピアノが鳴ったら

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