ピアノと天才

「何であんな奴がいるんだろう。ウォルフガング・アマデウスと同じだ。……神様に選ばれたんだよ」
スティーブは足元の土を蹴った。

「もう『至高の光』を目指すのは止めるか?」

「僕には一生かかっても、あんな風には弾けないかもしれない。弾いても、弾いても、神様は一生、僕には振り向いてくれないかもしれない。それでも『同じ』になりたい。僕には『無い』と解っていても、だ」

彼はハンカチを折りたたんで、傍らに置くと、「人間にとって『本当の勝利』とは何だと思う?」と聞いた。

「またヴァルター・フォーゲルの話? もう聞き飽きたよ」 スティーブは口をへの字に曲げたが、「『自らを肯定し、生を打ち建てていくこと』でしょ」

「皆が皆、ルーシンみたいに『神に選ばれた』天稟の持ち主じゃない。あんな人間は、百年に一度現れるかどうかの逸材だ。多くは、歯を食いしばりながら、光に至る道を歩いている。肝心なのは、いかに自分を肯定し、自分の芸術を完成させるかだよ」

「理屈は分かるけどね……」

「『天才』の技はこの世で得られるものじゃない。天賦のものだ。『選ばれなかった者』がどんなにその境地に辿り着こうとしても、辿り着けるものじゃない。だからといって、自分を『天才』と比べて投げたり、嘆いたりするなど下らん事だ。そんな弱虫は、最初から芸術など志さない方がいい。芸術とは何か、何ゆえに芸術に向かうのか……それを考えれば、解るだろう? 前にピアノはお前の“言葉”だと言った。自分を表現する唯一の手段だと。だったら、自分の持てる全てのものをそこに表わしてごらん。誰にどう評価されようと、自分の信じたままに、自分を表現し続けるんだ。そうすれば、いつか新しい『何か』が生まれ出る。お前にしかない、お前だけの『何か』……この世にただ一つの、お前の『芸術』が。それを創り出せた時、初めて、お前は頭一つ抜け出せる。至高の光に一歩近づくんだよ。もちろん、それを成すには気力だけでは駄目だ。自分の中にあらゆるものを吸収し、昇華させる『感性』と、自分の心を自在に表現し尽くす『技』があって初めて可能になる。……今のお前に本当に必要なのは、他人の評価や賛辞ではなく、柔軟な感性とそれに基づく技じゃないかな」

「だけど『天才』に生まれつくに越した事はないよ」

「『天才』の名を求めるなど愚かしい事さ」

「でも、お父さんは『天才』と呼ばれてる」

「それも自分を肯定し、自分の芸術を完成させる為に努力し続けた結果だ。お父さんは自分の感性と創造力を信じて、自分の目指すものを創り続けた。それがたまたま誰よりも際立ち、新しかったに過ぎない」

「お父さんは『天才』だよ。この前、お父さんの作品集を見て、そう思った。僕にもお父さんと同じ『天才』の血が流れてれば良かったのに」

「お前には、陶酔と熱狂の神様がついている。……これしきで落ち込むな」

三番街でピアノが鳴ったら

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