建築と音楽

「”形”はどうやってお父さんの頭の中に生まれるの?」

「ある日、突然、結晶するんだよ」

「”結晶”?」

「そう……ニーズ、コンセプト、立地条件、周囲の景観、予算、工法……様々な材料を、頭の中の鍋釜にぶちこんで、想像力というサジでかき回しながら、朝夕かけてじっくり煮込む。やがて材料がどろどろに融けあって、十二分に煮詰まったら、しばらく火を止めて様子を見る。そうして、真っ暗闇の中で、深く、静かに、息を潜めて待っていると、ある日、突然、浮かび上がるんだ。霧のように散らばっていた光の粒が互いに引き合い、一つの光に結晶するように、くっきりと頭の中に形が浮かび上がるんだよ」

「いつからそんなことが?」

「子供の時から、音楽を聴いては、そのイメージを絵に描いていた。その延長だな、多分」

「すごいね」

「お前も習いたければ、教えてやるよ」

「いらない」。スティーブは笑った。「僕、美術が万年”C”なの、知ってるだろ」

「建築も音楽も、同じだよ」

「……そうかな?」

「建築は、一つ一つ線を重ねて、形を成してゆく……。音楽は、一つ一つ音を連ねて、巨大な潮流を作りだす……。どちらも、光も影もない、真っ白な『無』の中から、『世界』を立ち上げ、構築する」

スティーブは再びデスクにうつ伏せると、第二楽章のメロディを口ずさんだ。

「ラフマニノフはこの曲を作る前、交響曲を批評家に酷評され、失意と絶望からひどい神経症に罹ってしまったんだよね」

「でも、ドクターの献身的な治療により、再び創作に向かった。そして不滅の名作、ピアノ協奏曲第二番が誕生したわけだ」

「人間って、そんなに強くなれるものなの?」

「そうだね……人間も強いだろうけど、芸術に対する気持ちはそれ以上に強いと思うよ」

「”芸術に対する気持ち”?」

「そう、お前の”ピアノが無くなったら、窒息する”と思う気持ちとはまた少し違うものだ。絶対的美への憧れと崇拝、創造をもたらす霊的存在、あるいは霊的経験に対する驚きと敬虔さ、創造への飽くなき欲望と情熱、絶え間無い魂の希求と創造的活動……本物の芸術家は、自分の全存在命をかけて創造の極限に挑む。そして、その至高の光をかいま見、栄光をつかむのは、ほんの一握だ」

スティーブは顔を上げ、まるで神託をうかがうように父の顔を見つめた。

「僕にも出来ると思う? ラフマニノフやベートーヴェンやリストが至高の光をかいま見、永遠不滅の美を残したように」

彼はペンを止め、息子の目を優しく見つめ返すと、「お父さんにはお前がどの程度のものか解らない。お前が本当に芸術として音楽を極めたいと望むなら、無理に止めはしないよ。ただ……それは何よりも厳しく、険しい道であることを覚悟しなければならない。できれば、お父さんはお前に、己の極限に挑むような生き方を選んで欲しくはないがね」

「だけど、僕は音楽無しには生きられない。……たとえ頂に辿り着けなくても、音楽に満たされて生きていたい」

「芸術とは非情だよ。才能の無い者には容赦なく大鎌を振るい、光の片鱗にも触れさせない。彼が破滅しようが、血を流そうが、お構いなしだ。そして希求が激しければ激しいほど、振り落とされた時の絶望は地獄の淵より深い。狂気の中に一生を終えた人間を、お父さんはたくさん知ってる」

「……それでも目指すと言ったら?」

三番街でピアノが鳴ったら

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