サイキック少女と毒親の破滅を描く 映画『キャリー』(原作スティーブン・キング)

映画「キャリー」


TVの洋画劇場で初めて映画「キャリー」を観たのは中学生の時。

「超能力少女のホラー映画」というので、『エクソシスト』みたいな、おどろおどろしい内容を期待していたら、物語自体は「ハイスクール・ミュージカル」のエコエコアザラク版という感じ。キャリーの学園生活がメインになっている。女生徒のいじめがあまりに凄まじく、サイキック・ホラーの場面より、いじめによる精神的ダメージの方がはるかに大きかった。

原作はスティーブン・キング。この「キャリー」が処女作にして出世作だ。


高校生のキャリーは学校のシャワー室で初潮を迎える。しかし、無知なキャリーはパニックを起こしてシャワー室から飛び出し、女生徒たちに生理用品を投げつけられ、心身ともに深く傷つく。

シングルマザーである彼女の母親はカトリックの狂信者であり、特に『性』に関しては異常なほど厳しい。
「(生理について)どうして教えてくれなかったの?」と泣いて訴えるキャリーにも「お前は汚れている」と罵り、娘の身体を引きずってキッチンに隣接する懺悔室に閉じ込める。

そうしたストレスもあって、キャリーは徐々にサイコキネシス(念動力)に目覚め、手を使わずにドアを閉めたり、相手を睨むだけで自転車ごと転倒させたりできるようになる。

そんなキャリーの唯一の友達スーは、キャリーをいじめから救えなかった罪滅ぼしの気持ちから、高校生活を彩るプロム(ダンスパーティー)のパートナーとして自分のボーイフレンド、トミーを紹介する。トミーの思いがけないプロムの誘いに最初は戸惑っていたキャリーだが、スーの気遣いとトミーの優しさに心を開き、母親の反対を押し切ってプロムに参加することを決意する。

しかし、キャリーへのいじめで担任教諭から放課後の体操とプロム参加を禁じられたリーダー格のクリスは、男友達のビリーをそそのかし、キャリーに仕返しすることを計画。家畜場で豚の生き血を抜き、プロムのステージ天井に血入りのバケツを仕掛ける。

そうとは知らず、「プロムの女王」に選ばれ、幸せいっぱいでステージに上がるキャリー。その瞬間、クリスの仕掛けたバケツがひっくり返り、キャリーの頭上に真っ赤な豚の血が降り注ぐ。会場は爆笑の渦に包まれ、ついにキャリーのサイコキネシスが炸裂する……。


この物語の核になっているのは、狂信的な母親に支配される娘キャリーと、娘を自分の世界に閉じ込めようとする毒親マーガレットの、壮絶な親子関係だ。

娘が年頃になっても初潮のことすら教えず、「お前は汚らわしい」と罵る毒親マーガレット。彼女は夫に捨てられたこともあり、自らの女性性を憎むとともに、キャリーに対しても「女になること」を禁じている。

しかしキャリーは健やかな心の持ち主で、母親に何を吹き込まれようと完全に毒されることはない。むしろ、母から独立し、一人の女性として幸せな人生を歩むことを願っている。

だが、キャリーは常に抑圧されている上、学校では壮絶ないじめにあっていることから、心の吐き出し口がない。そんな彼女がサイコキネシスを身につけるのも無理はない。本来の自分を歪められ、毒親に支配されたら、抑圧された感情は超常能力にもなるだろう。

そのうえ学校の陰湿ないじめ集団。あの情け知らずの級友達に呪いの力で復讐することができたら……と誰だって願わずにいない。

キャリーは決して黒い魔力の持ち主ではなく、心のエネルギーを解き放つ術を身につけた、ごくごく普通の女の子なのだ。

そんなキャリーが自分の意志で一歩踏み出すきっかけになったのが、トミーからのプロムの誘いだ。

母マーガレットは、「誰が本気でお前なんか誘うものか。お前は騙されているんだ。きっと恥をかいて、泣いて帰ってくるのがオチだよ!」と激しく詰るが、キャリーはトミーの優しさを信じ、女の子らしい夢に胸を膨らませる。娘にきつく言い聞かせ、行動をコントロールしようとする母親と、「私はもう大人よ!」と口答えするキャリーの会話は、まさに思春期の親子のそれだ。

そしてプロムの当日。それまでろくに髪もセットせず、ださい服を着て、いつも嘲笑の的だったキャリーが、お手製のドレスに身を包み、髪を軽くカールして、トミーの迎えを待つ。その姿のなんて可憐なこと。おまけにトミーは少女漫画の王子様みたいに素敵だし、それまで女の子らしい幸せなど何一つ体験させてもらえなかったキャリーにとって、すべてが夢のように幸せだったにちがいない。

そうしてキャリーが美しく輝けば輝くほど、あとの惨劇がいっそう心に迫る。

キャリーはステージの上で豚の血を浴び、大勢に笑い物にされた。その中には信頼していた担任教諭も含まれていた。

唯一、彼女を庇おうとしたトミーは、天井から落ちてきたバケツに頭を強打してその場に倒れ、クリスの企みを教諭に伝えようとした友人のスーは、逆にプロムを邪魔しに来たと勘違いされ、体育館の外につまみ出されていた。これが結果的にスーの身を救うことになる。

キャリーの激しい怒りと悲しみはサイコキネシスとなって爆発、華やかなプロムの会場は阿鼻叫喚の火炎地獄と化す。

身も心もボロボロに傷つき、血だらけのまま家に帰り着いたキャリーを意外に優しく出迎えたのが母マーガレットだ。すすり泣く娘を優しく抱きしめ、「もう大丈夫」と癒し、励ます。だがそれは歪な愛の序奏に過ぎなかった。マーガレットは娘の命を絶つことによって親子の絆を完全にし、娘を永久に支配しようとする。そんな母の狂気に対して、キャリーは反射的にサイコキネシスを使い、逆に母を殺害してしまう。そして最後は自らのパワーで家もろとも崩壊させ、母親の亡骸と共に息絶えるのである。

サイコキネシスの場面だけ見れば「ホラー」だけども、本質的には、毒親に振り回される哀れな女の子の物語だ。

キャリーはただ普通の女の子として幸せになりたいだけなのに、毒親のマーガレットにことごとく妨害される。

思うに、夫に捨てられたマーガレットは、孤独で、みじめで、どうしようもないのだ。娘が自分より幸せになるなんて、絶対に許せない。自分が呪いに囚われるように、娘の同じ呪いで縛っておきたい。だから「お前のため、お前のため」という愛の毒で娘の心をギリギリに締め付け、葛藤の奈落に叩き込む。「お前のため」と言われて真っ向から逆らう子供が何処にいるだろう? 毒親は、自分が「保護
」という観点において絶対的な主君であるのをいいことに、「お前のため」という悪魔の切り札で子供から抵抗や疑いの芽を摘み取っているに過ぎない。

娘の方は、母が好きだから、母の言葉を信じたい。母を裏切って、悲しい思いをさせたくない。でも、何かおかしい。このままだと母の奴隷になってしまう……。そう気付きながらも、「母に逆らう」というだけで自然な感情の発露さえ抑えてしまう。疑いが頭をもたげても、「母は私を愛してくれているのだから」と自らに言い聞かせ、母の呪いに取り込まれてゆく。そうなれば、自分の心も人生も、あって無いようなものである。

キャリーは母親と一緒に滅びた。制御不能となったサイコキネシスに家ごと押しつぶされて、息絶えた。

見方によっては、ラスト、母の亡骸を引きずって懺悔室に籠もるキャリーの行動に納得ゆかない人もあるかもしれない。あれだけひどい仕打ちをした母親になぜ最後まで情をかけるのか、そんな親は崩壊を始めた家の中に置き去りにして、自分だけは逃げればいいのに、と。

でもそれが「母と娘」なのだ。たとえ他人には理解しがたい絆であっても、根底には愛がある。

キャリーは最後まで母の呪縛に縛られて……というよりは、娘としての愛を貫いた、天使のような女の子だ。エピローグではスーの夢の中で怨念となって復活するけど、私は、キャリーは美しく天国に召されたと信じておりますよ。愛に浄化された母マーガレットと一緒に。

キャリーに幸せな笑顔を贈りたい♪
映画「キャリー」 シシー・スペイセク

§ 「キャリー」の予告編

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§ 映画のみどころ

「サタデーナイト・フィーバー」でブレイクする前の若きジョン・トラボルタが、頭も下半身もゆるそうなプレイボーイくずれを演じているのがポイント。
また映画「ロボコップ」で颯爽とした女性警察官を演じたナンシー・アレンが、ここでは陰湿ないじめ集団のリーダー格を演じており、善でも悪でも肉感的な魅力がたまらん。
ナンシー・アレン

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健気におしゃれしたキャリーを紳士らしくエスコートするトミー。
ウィリアム・カットがハンサム・スウィートで、とても素敵。
女の子なら誰でも夢見る瞬間ね♪ キャリーもお姫様みたいに可愛い。

ちなみにウィリアム・カットは「スターウォーズ」のルーク・スカイウォーカー役を希望し、オーディションも受けたそう。

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§ 関連アイテム

これは是非とも読んでみたい。
スティーブン・キングは「ミザリー」でうんざりして(良い意味で)、以来、ご無沙汰。時を経て、違った目で見れば楽しめるかも。

「毒親」といえば定番の本です。うちは幸い毒親気質とは無縁で、のびのび育った方ですが、こういう呪縛をかけられたら子供は本当に辛いだろうと想像します。
続編は「不幸にする親―人生を奪われる子ども

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絶望名人カフカの人生論 ネガティブすぎて笑っちゃう

フランツ・カフカ


今、非常に読んでみたい一冊。

カフカは中学生の時「変身 (新潮文庫)」にトライしたけど、正直、ぜんぜん面白くなくて! まあ、中学生の読みこなせる小説じゃなかったんだろうけど、以来、ノータッチ。

でも、最近、西岡兄妹の「神の子供」というホラー・エログロ漫画を衝動的にダウンロード購入してしまい(ebookjapanで連載しているコラムニストのレビューがあまりに素晴らしくて釣られてしまった)・・なんでこんなもの買ってしまったんだろう……西岡兄妹のバカ~(T^T) みたいな気持ちでAmazonの関連商品を辿っていったら、こちらの本に行き当たった次第。

あ、西岡兄妹に決して文句があるわけじゃないですよ。センスのある魅力的な作家さんだと思います。フランツ・カフカに傾倒しておられるとか。ただもう「神の子供」がすんげーエログロで、こんなもの衝動買いしてしまった自分が信じられな~い、って気持ちです。萩尾望都の短編集でもダウンロードすりゃよかった(泣)

そんなわけで、運命的に巡り会った(?)『絶望名人カフカの人生論』。


しかもAmazonのレビューが面白すぎて、こっちの方がウケてしまった。

ブックレビューで書評家が「笑っちゃうほどネガティブ」と称したカフカの名言集。冒頭1ページ目から凄い。「将来にむかって歩くことは、ぼくにはできません。将来にむかってつまずくこと、これはできます。いちばんうまくできるのは、倒れたままでいることです」と名言でもなんでもない、ただのネガティブな愚痴みたいなのがたくさん詰まっていて楽しい。・・・これは結婚を申し出たフィアンセに贈る手紙のなかの一文らしいが、結婚する気あんのかこいつは。これで「わーカフカ君素敵」ってなると思ってんのか

仕事への愚痴と、父親への愚痴と、人間関係の愚痴が主な内容。「目標があるのに、そこに至る道はない。道を進んでいると思っているが、実際には尻込みしているのだ」というドキッとするような名言もあり、フリータやニートも味わい深い。

いつだったか足を骨折したことがある、生涯で最も美しい体験であった」とか、まったく意味不明な言葉も多々あり、かと思えば「誰でも、ありのままの相手を愛することができる。しかし、ありのままの相手といっしょに生活することはできない」 という素晴らしい名言もあり、「うわーたまにはいいコト言うがなーカフカー」と感心していると、欄外説明に「恋人に言われた言葉」って書いてあって、「お前の名言じゃねぇのかよ」と思わず叫んでしまった

こういう人こそ、今の日本の論壇に出てくれば面白いのよ。このお先真っ暗、絶望不況の真っ只中で、元気だ! 前向きだ! 幸福だ! を連呼する声よりも、笑っちゃうほどネガティブな意見がとうとうと語られるのも一興ではないか。

私、最近、「心にトゲ刺す200の花束 究極のペシミズム箴言集 (祥伝社黄金文庫)」とか「ラ・ロシュフコー箴言集 (岩波文庫)」みたいな、ちょっとひねくれた文章ばかり好んで読んでるせいか、あまりにもっともで、文句のつけようのない意見を目にすると、「それだけが真実じゃなかろうね」と思うことが多い。

「正しい意見」は人を安心させるけど、魂までは救わない、そんな気がして。

ともあれ、近々、お取り寄せして読んでみようと思う。『変身』にももう一度トライしよ。

興味のある方はぜひ。

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映画『SHAME -シェイム- (恥)』愛してはならないものを愛した時

本来、『』や『愛』というのは、この世の規範や常識を超えたものだ。男が男を、女が女を、妻子や婚約者のある人を、親子ほどに年の離れた人を、血の近い人を、立場的に禁じられている人を、思いがけなく好きになってしまう気持ちはどうしようもない。「止めよう」と決めて止められるものならそれは恋ではないし、本気で恋してしまったら、それは神様でさえ引き裂くことができない。人が人を求める気持ちに理屈などないのだ。

しかし、皆に祝福される恋と異なり、この世でタブーとされる恋は背徳に通じる。

不倫だ、セフレだと開き直っている人は別として、ごくごく普通の、ありふれた魂の持ち主が愛してはならないものを愛したとしたら、たいていの場合、良心や常識の狭間で苦しみ、自分の存在そのものが『恥』に感じられるものだ。

人は、タブーを犯したものに対して、世間がどれほど酷い仕打ちをするか経験で知っている。

そしてまた、徳や常識を重んじ、「普通に生きたい」と願っている人にとって、それに相反する気持ちは不全以外の何ものでもない。

恋の悦びと背中合わせの激しい罪悪感に、それこそ心が焼けただれるような苦悶を味わうだろう。

もっとも、今は、同性愛にも社会の門戸が開かれ、エルトン・ジョンやジョディ・フォスターのような有名人がカミングアウトしても、世間もいちいち驚かなくなっているし、年の差の大きいカップルや王族と平民の身分差婚も全体には「個人の自由」として受け入れられている。相手が「他人」である限り、まだ救われる部分がある。

しかし、これが「兄妹」となれば、様相は大きく異なる。

大昔なら兄妹婚も珍しくないが、現代社会においては絶対的な禁忌の一つである。

そんな兄妹の複雑な結びつきを描いたのが映画『SHAME(恥)』。ハリウッドの新鋭スティーブ・マックイーン監督(かの名優と同姓同名!)と注目の若手俳優マイケル・ファスベンダーが描く抑圧された愛の物語だ。

その激しい性描写から、アメリカでは最も厳しい上映規制NC-17が付けられ、日本での公開も危ぶまれた本作。

主人公が「セックス依存症」ということもあり、どんな激しいヌレバが出てくるのかと期待して(?)見たら、イマドキのハリウッド水準。エロさで言うなら「ナインハーフ」や「危険な情事」の方がよっぽど刺激が強かった。NC-17が付いたのは映画の宣伝か? と勘繰ってしまうほど。愛の場面というよりはスポーツ・ライクなので、ちっともいやらしくない。(正直、犬の交尾を見るような感じ)

それより、洗練されたビジネスマンであるブライアン(=マイケル・ファスベンダー)がやり場のない欲望に苦しみ悶え、トイレで一発、娼婦と一発、高級ホテルで一発、と、果てしない性の無間地獄に堕ちてゆく様が痛々しかった。

セックス依存症」という言葉から、「風俗やAVが好きなお兄さん」を連想するかもしれないが、これはれっきとした依存性の病気で、アルコールや薬物がもたらす解放感や万能感をセックスに求め、そこから抜け出せなくなる。アダルトサイトの「もっと見る」リンクをクリックしたら変な請求書が来ちゃって・・と溜め息ついてるAVウォッチャーや風俗大好きな旺盛クンとは訳が違うのだ。
 参照URL→【眼光紙背】どうしてもセックスがやめられない人たち

私もそんな人に出会ったことがないし、勉強したこともないので、どこからがセックス依存症で、ただの好きモノとどこがどう違うのか説明することは出来ないのだけれど、あえて言うなら、「罪悪感が伴うか、否か」この一点ではないか、と思う。

たとえばAVウォッチャーや風俗ファンは、「エッチなことばかり考えて恥ずかしい」という気持ちは多少あるかもしれないが、彼らは根本的に自分の欲望に罪悪感は持たないし、「今月風俗に10万円使ったから、来月まで我慢しよう」のように自己をコントロールすることができる。

でもセックス依存症は、求めずにいない自分を嫌悪し、そこから抜け出したいと願っている。「旺盛な性欲」ではなく、ストレスの結果としての興奮なのだ。

そして『SHAME』のブランドンは、有能でスタイリッシュなビジネスマンにもかかわらず、孤独で、こうした苦悩を誰にも打ち明けることができない。ただひたすら、やって、やって、やりまくる。永遠に飢え渇いた砂漠の花がそうであるように、どれほどエクスタシーを得ても満ち足りることがない。

そんな彼の元に転がり込んできた妹のシシィ。恋愛依存症の彼女は、別れた男にすがるように電話をかけて「あなただけなの」と泣きじゃくる。そうかと思えば、酒の勢いでブランドンの上司とセックスしたり。

そんなシシィの存在に苛立ち、ブランドンは冷たく突き放そうとするが、事態は意外な方向へ展開して行く。

最後には、観客もブランドンの秘められた苦悩を知るのだが、正直、批評家が絶賛するほど心に迫らなかった……というのが私の感想。

ただ単に作品と相性が悪いだけかもしれないが、もう少し説明を加えてもよかったのではないか、と。

映画の中では、ブランドンとシシィの過去について一切語られないし、シシィの兄に対する気持ちも左腕に残る無数のリストカットの跡だけで、躊躇いも希求もほとんど感じられない。それはブランドンも同じで、「人生の恥」であるシシィに対して、もう少し葛藤が描かれたら説得力があったのではないだろうか。

たとえば、物語のターニングポイントとなるこの場面。ブランドンが居間のソファに腰掛けて白黒の子供向けアニメ(もしかしたら幼い時に観ていた?)を観ていると、シシィが隣に座って「抱いてくれる?」と甘える。彼はすぐに彼女の肩を抱き、しばらく一緒にアニメを観ているが、突然、ブランドンが上司と寝たことについて怒り出し、「ここから出て行け。被害者ぶるな」と迫る。するとシシィも売り言葉に買い言葉で言い返し、ついにはブランドンが部屋を出て行ってしまう。

ところがこの会話の解釈が難しい。二人の過去が一切語られないだけに、屈折した思いは現在進行形なのか、あるいは忌まわしい思い出として今も彼らを苦しめているのか、釈然としないからだ。それなら妹に何の意識もなく、ブランドン一人が妄執に振り回されている方が分かりやすいのだが、この妹もいまいち何を考えているのか分からない、それだけにクライマックスが意外と呆気なくやって来るのが気になる。主演のマイケル・ファスベンダーは熱演だし、妹役のキャリー・マリガンも決して悪くはないのだけれど、ちょっと解釈を観客に委ねすぎかな、と。たとえば、シシィと上司が隣の部屋でセックスを始めて、ブランドンが夜の町に飛び出す場面。「男の嫉妬」というよりは「ふしだらな妹に対する純粋な兄の怒り」という印象が強く、ブランドンはただ単に素行の悪い妹に頭を悩ませているだけ、とも取れなくもない。誰だって、隣の部屋で自分のきょうだいがおっぱじめたら出て行きたくなるし、それならもっと、妹に対する性的妄想を掻き立てるようなエピソードがあった方が分かりやすいからだ。せっかく「兄妹愛」という禁断のテーマに挑んだのだから、もうちょっと狂おしい、胸の苦しくなるような心理描写があってもよかったのではなかろうか。ついで言うなら、キャリー・マリガンは「スレた姉ちゃん」という感じで、兄の保護本能や男の性欲をそそるタイプに見えないのも惜しい。なんか、妹のだらしなさに怒っているみたいで、本当にこんな妹相手に欲情するものかな、と、不思議に思うもの。

……というのは、あくまで私の印象であって、きちんと監督の意図通りに解釈できた人には「ゴメンナサイ」なのだが。(もしかして萌えアニメの影響?)

観る者にカタルシスや魂の救済を与えない映画↓
映画「SHAME」


ともあれ、マイケル・ファスベンダーの役者としての魅力が全開した本作品。彼の元には世界中の監督からオファーが舞い込み、今後の活躍に期待したいところ。

「兄妹愛」をテーマにした作品なら、竹宮恵子や山岸凉子の方が上手いかもしれないよ☆

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人生の『光と影』 渡辺淳一「愛の流刑地」から戻って来てね

渡辺淳一 「光と影」


うちの本棚でけっこう占拠率が高いのが「」の本。先日、本を整理していて、この事実に気がつきました。いつの間にこんなに買ってたんでしょう?? 曾野綾子と宮尾登美子の間に挟まれているところがポイントです。

普通、「好きな作家は誰ですか?」と聞かれて、「新田次郎です」とか「サリンジャーです」とか答えると格好がつくけれど、「渡辺淳一です」とは非常に答えにくい。それもこれも、「失楽園」以降、雑な小説を連発してるせいですよ。特に「愛の流刑地」。。。

渡辺淳一も、昭和40年から50年代、初期から中間期にかけての作品が秀逸でした。とりわけ医学をテーマにした短編やエッセーがよかった。私も医療畑出身なので、死生観や医療観については共感する部分が多く、一緒に現場で仕事をしたらさぞかし面白かっただろうなと思うことしきりです。ただ、こういう考え方は学会や研究会で発表するわけにはいきません。カンファレンスで発現しても物議を醸すでしょう。でも小説ならテーマとして立派に成り立つ。そう思うと、メスからペンに切り替えたセンセのお気持ちも分かるんですね。「ブラックジャック」を描いた手塚治虫と一緒です。

そんな淳一センセが昭和45年に直木賞を受賞された『光と影 (文春文庫)』。初めて読みましたが、いい作品でした。

以後、作品に関するレビューと、最近のセンセに対する「やるかたない気持ち」です(^◇^)

§ 『光と影』物語と感想

西南戦争で戦い、共に右腕に重症を負った寺内大尉と小武敬介。どちらも東京教導団(陸軍の下級幹部養成所)の優秀な同期生だ。

症状は一刻を争うことから、同日、同時間帯に、右腕の切除術を受けることになった二人。最初に小武が手術台に上がり、次に寺内が運び込まれまた。

しかし、執刀医の佐藤は、続けて若者の腕を切り落とすのは不憫だ、ここは一つ、実験台になってもらって、温存療法に切り替えようと言い出し、寺内の右腕を残すことにする。

右腕を切断した小武は順調に回復し、寺内よりも先に退院するが、片腕をなくしたことから廃兵を余儀なくされ、「偕行社(かいこうしゃ)」という将校専用のクラブで働くことになる。

一方、右腕を残した寺内は、回復に時間を要しながらも、無事に退院して兵役に復帰。士官学校の指令副官に任命される。それから日清戦争で武勲をあげ、とんとん拍子に出世し、ついには陸軍大臣に任命。士官養成時代、能力的には寺内よりも優れていた小武は激しく心を乱される。

そして、いつの間にやら大臣の風格を身につけ、小武に対しても何やら同情的な寺内の態度に、小武はついに心がきれ、寺内につかみかかり、大臣室からつまみ出される。その後、寺内は栄光の中で天命を全うし、葬儀には皇族も参列、明治天皇よりお沙汰を賜るという名誉のきわみで、一方、プライドをおおいに傷つけられた小武はしまいに心を病み、誰に見取られることなく暗い精神病棟の一室で息を引き取る──。


「人生そんなもの」と言ってしまえばそれまでだが、実際に敗者の側に立てば、そんなあっさりと割り切れるものではない。

「人生に勝ち負けなどない」「気の持ちようで幸せになれる」と言ってみても、人間の無念、やり場のない怒り、忸怩たる思いは、終生、続くのではないだろうか。

私が多分、(一時期イイと思った)自己啓発的な考え方──今ならライフハックとか癒しとかポジティブ・シンキングとか言われるものに抵抗を感じるのは、まさにこの部分なのだ。

確かに「幸福になる手段」として、人と比べないとか、自分を大事にするとか、明るく前向きに考えることは非常に大切ではあるけれども、一方、怒りや悲しみ、絶望や嫉妬といった心の闇もまた人間の真実に違いなく、悪いとされる方を切り捨て、自分で自分を「幸せ」と無理に納得させるような方法は、ある意味、自分に対する裏切りであるし、人間の本当の価値を歪めるだけではないか、と思うからである。

現代はあまりに「怒ること」「悲しむこと」「悔しいと感じること」「羨ましいと思うこと」などが「ネガティブ」の一言で片付けられ、周囲りに軽んじられるばかりか、自分自身でさえも否定し、見ぬ振りをする傾向が強い。

もちろん、愚痴や弱音ばかりの人は不愉快だし、自分でも暗いことばかり考えていると気が滅入ってくるものだが、それはネガティブな感情の活かし方や上手な表現の仕方を知らないだけであって、ネガティブな感情そのものが悪いわけではない。

問われるのは行動や表現の是非であって、感情はどこまでも内的な世界に過ぎないのだ。

そして、それを描き出すのが「文学」であり、本当の意味で文学的な役割をもった作品が書かれない、読まれない、というのは、知性、情操教育うんぬんの話ではなく、人間への理解が失われることである。理解がなければ愛情も育たず、結果、心地よい面だけがクローズアップされる。単純に「元気のいい人」「明るい人」「良いことを言う人」がもてはやされるのも、元を辿れば、人間理解の欠如によるし、本当に理解されるべきものはますます居場所を失って闇に追いやられる、悪循環である。

『光と影』は、影である小武の心にスポットを当てた作品であり、彼を「影の人」にしたのは、手術室に置かれたカルテの順番がたまたま「小武」→「寺内」であったこと、また寺内の右腕が切断されなかったのは執刀医・佐藤のその場の思いつきにすぎない。まさに運命のいたずらである。だが、兵役に復帰できなかった小武と、復帰が叶った寺内の明暗はくっきりと分かれ、能力や努力を超えた人生の不条理をいやというほど思い知らされることになる。

冷めた目で見れば、「たとえ右腕を切り落とさずに済んで、兵役に復帰できたとしても、果たして寺内より出世できたかどうかは疑問だよ」と言いたくなるが、そうは考えられないのが人の性だ。なまじ自分に過失や欠点がなかっただけに、余計でその気持ちが強い。

寺内の昇進を耳にする度、小武は思う。

小武は退役したからもはや階級は上がらないが、現役の寺内達が上がるのは当然であった。止まったままのものと進むものと比べるのが土台、間違っていた。そんな位階など忘れて、国のために尽くした勇士として対すればいいのであった。小武の現在がどうであろうと、寺内達が軽蔑したり見下したりするわけはなかった。まして寺内は悪気のない男である。だが小武はそう簡単に素直な気持ちにはなれなかった。
(かつてあいつは俺より劣っていた)
小武には下士官から尉官時代に寺内よりはるかに秀れていた、という自負心があった。兵術でも学問でも負けたものは一つもなかった。こんな男に絶対に負けるわけはないと思っていた。表面では親しい友人であったが、心の底では侮っていた。誇りが高かっただけに偕行社の一事務員としておめおめ出て行くわけにはいかなかった。

(二人を手術した佐藤医師との会話で)
「彼(寺内)はフランスに行くのですか」
「ご存じないのですか、閑院宮載仁親王殿下巴里御留学の補佐官に抜擢されて来月行かれるはずです」
小武は声を失った。何としたことか、寺内にだけ幸運がつきすぎてはいないか、小武は今も本を離さず偕行社の書籍という書籍はほとんど読み尽くしていた。学問も識見もともに誰にも負けない自信がある。独学だが洋書も読める。寺内が自分以上に洋書を読めるとは思えなかった。まして仏語なぞ上手に話せるわけがない。その男が宮様のお伴をして洋行するという。
(何かが狂っている)
小武は大声で叫びたかった。光と影の二つの方向に向かって歯車が少しずつ、しかしたしかに動き始めたようである。

・・<中略>・・

自分にとって天命はあまりに不合理ではないのか、天命は不合理でいいのか、それでもなお従えというのか、寺内、お前のようにうまくいく天命ばかりではないのだ。お前は光に向かい俺は影になっていく。小武は再びやり場のない憤りにとらわれた。

今風のポジティブシンキングで言えば、「嫉妬があなたを苦しめるのです」「人と比べてはいけません」「自分を褒めて、今生きていることに感謝しましょう」となるのだろう。

だが、こうした気持ちに嫌気が差しているのは他ならぬ小武自身である。

そもそも、生き甲斐とか信念とかいうものは、揺るがないからこそ人生の基軸となる。その基軸を失って、そう簡単に気持ちを切り替えられるものだろうか。いや、それ以前に、人はそうまでして前向きであらねばならないものなのか。

世の中には最初の躓きから一生立ち直れない人もいる。

それを裁くのも人間なら、闇に光を当ててすくい取るのも人間だ。

そして、文学は、人が記憶の彼方に葬り去ろうとする闇を言葉に表し、光の中にすくい取ってくれる唯一の媒体である。

もし実在したならば、甚だ扱いにくい人物かもしれない小武も、小説の中では憎めない。現実社会では誰も言葉にしない胸の内を、小武はストレートに語って聞かせてくれる。そんな小武にほんの少しでも気持ちを添わせることができたら、世の中で無駄とか悪とかみなされることにも一分の理があることに気付くだろう。人によっては息苦しさを感じるかもしれないが、この息苦しさこそ、私たちが真に理解すべき痛みなのだ。

『光と影』は、誰にも責めることのできない人の世の不幸を教えてくれる。そして、それは文学ならではの体験なのである。

§ 関連アイテム

それにつけても、こういう丁寧な作品を書いていた方が、晩年になってから、なんであんな雑な性愛小説を連発するんでしょうねえ。

愛の流刑地に流されたのは菊治ではなく、センセの方やないですか??

もう十分、お稼ぎになったでしょうから、流刑地から戻って、もう一度、生命の奥深くまで切り込むような医療エッセーや短編を書いて欲しいです。

ヨロシク。

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美しい生命のSF叙情詩『ブレードランナー』あるレプリカントの死

映画「ブレードランナー」


私が初めて『ブレードランナー』を見たのは中学生の時。TVのロードショーがきっかけでした。

あのハリソン・フォードが主役で、レプリカント(人造人間)軍団と死闘! というから、てっきりスターウォーズみたいなSF活劇かと思っていたら、ちっとも大軍団は出てこないし、話もチンプンカンプン。あれあれ、と思ってるうちに、レプリカントが全滅して、ハリソン君は笑顔の暗いオネーチャンと車でどっか行って終わり。

なんじゃ、こりゃ? つまらね~~

それがSF映画の金字塔と言われ、今なお世界中に熱狂的なファンをもつ名画『ブレードランナー』のファースト・インプレッションだったのです。

実際、1982年の劇場公開時は、私と同じようにスターウォーズ的な要素を期待して肩すかしに合い、不満げに席を立つ観客は数知れず。興行的にも全く振るわず、ダメダメ映画列伝の一つに名を連ね、歴史の彼方に葬り去られるはずでした。

ところが、80年代にもこの斬新な世界観を理解するファンは少なからず存在し、VHS(家庭用ビデオテープ)の普及がそれに拍車をかけました。VHSを繰り返し観ることで、劇場公開時には分からなかった謎のシーンや作品のメッセージを読み解こうとするコアなファン層が、この作品の魅力を広めていったからです。

そうしたファンの熱い要望に応え、1992年にはリドリー・スコット監督の意図をより濃厚に表したディレクターズ・カット版が、2007年にはさらに編集を加えてグレードアップしたファイナル・カット版がリリースされ、若い、新しいファン層も取り込んで、SF映画の金字塔と言われるまでになりました。

「時代がようやく作品に追いついた」と言われるように、『ブレードランナー』の世界を理解するにはそれなりに時間が必要なのかもしれません。

私も中学生の時には間延びしたような演出がひたすら退屈で、なぜこれがSF史に残る傑作と言われるのか、まったくもって理解できませんでした。

それでも、傷だらけのハドソン君が、レプリカントのリーダー、ロイ・バッティとの死闘の後、雨に打たれる彼のボディを見ながら、

彼らは知りたがっていた。自分がどこから来て、いつまで生きられるのか。だが、それは人間も同じだ

と、つぶやく場面が強く印象に残り、いつか機会があれば、もう一度見たい……とは思っていました。結局、20年以上経ってからの再鑑賞となったのですが、本当に見てよかったと思います。これほどまでに深く美しい作品であったのか──と知ることができましたから。

未見の方は、一日も早く鑑賞されることをおすすめします。

映画に対する想いが根本から変わりますよ!


ネタバレでもOKなら、こちらの動画をどうぞ。このビデオ、すごくよく出来てます。完成度が高く、映画の全容が掴めます。
あまりにも、あまりにも有名なヴァンゲリスのエンディング・テーマ。チャカチャカチャカチャカ・・・というアップテンポのメロディに、ドンデンドンデン・ドンデンドンデンとティンパニの合いの手が入るのがポイント。
このエンディング、2007年のファイナル・カット版で見たら、ぞぞーっとしますよ♪

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1982年劇場公開版の予告編。ネタバレ嫌いな人に。
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そうそう、私が見たのも荻さんの解説のTVロードショーでした。
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§ 物語

原作は、フィリップ・K・ディックのSF小説『アンドロイドは電気羊の夢を見るか? (ハヤカワ文庫 SF (229))』。

が、原作はあくまでモティーフであり、『ブレードランナー』はリドリー・スコット監督やシド・ミード(美術)らの世界観が色濃く反映されています。

****

科学技術が発達した2020年、人類の大半は宇宙に進出し、地球に残った人々は人口過密の進む都市部で暮らしていた。

一方、遺伝子工学の進化により、人間にきわめて酷似したレプリカント(人造人間)が次々に製造され、人間の代替として宇宙開拓の最前線に投入され、過酷な労働を強いられていた。

それに反発した6匹のレプリカントが脱走し、スペースシャトルを奪って地球に逃亡してきた。そのうち2匹が事故で死に、残る4人が人間に紛れてどこかに棲息しているという。レプリカントの処刑を命じられた専任捜査官(ブレードランナー)のデッカードは、ヘビのウロコを手掛かりにまず女レプリカントを射殺。それを見ていた男レプリカントのレオンがデッカードを絞殺しようとするが、すんでのところでレイチェルに助けられる。

レイチェルは、レプリカントの製造主タイレル博士の秘書をしていた女で、デッカードによる心理テストによって自分がレプリカントであることを覚る。自分が何ものかを知るためにデッカードに再び近づくが、逆に、デッカードの正体に気付き、二人は恋に落ちる。

生き延びたレプリカントのリーダー、ロイ・バッティと女レプリカントのプリスは、タイレル博士のもとで働くJF・セバスチャンを脅迫し、タイレル博士の居所に侵入するが、レプリカントの父とも言うべき博士に「与えられた生命エンコーディングは変えられない。寿命を延ばすことは不可能だ。お前はもう十分、輝かしい命を生きたじゃないか」と突き放され、ロイ・バッティは博士を惨殺。

その後、二人を追ってきたデッカードと最後の死闘を繰り広げ、プリスは射殺。だが、デッカードもロイに指を折られ、高層ビルの鉄筋から墜落しそうになるが、最後の最後にロイに命を助けられ、ロイはそのままエネルギーの寿命が尽きて息絶える。

生き延びたデッカードは、今や追われる身となったレプリカントのレイチェルを伴って、町を後にする──。

映画「ブレードランナー」


『ブレードランナー』の雑学に関しては、日本でもコアなファンが撮影秘話や独自の解釈など思い入れたっぷりに書いておられるので、これらのサイトを参照してください。

あの映画のココがわからない「ブレードランナー」
ブレードランナー・撮影秘話集 
ブレードランナー FAQ
 非常に濃厚な解説集

§ 映画の見所

『ブレードランナー』は「近未来SF」にカテゴライズされる作品だが、根底にあるのは人間や生命に対する問いかけであり、答えは見る人に委ねられる。

すべては一編の詩のように流れ、明確な回答は一つとしてない。

にもかかわらず、人が立ち止まって考えずにいられないのは、人間に酷似したレプリカントと、本物の人間の違いがどこにあるか、当の人間自身にも分からないからだ。

遺伝子工学によって生み出されたレプリカントは人工的に記憶を植え付けられ、次第に感情を持つようになる。しかし、人間への反逆などを防ぐため、彼らの寿命は数年に限定され、それを延長することは製造主にも出来ない。また、いつ寿命が切れるのか、誰にも分からない。

だがそれは、感情を持つレプリカント──自分がレプリカントであることに気付かないほど精巧に作られた者にとっては、残酷な運命に他ならない。

人間が死を恐れるように、レプリカントも死を恐れ、自分が何もので、どこから来たのかを知りたいと願う。

にもかかわらず、「レプリカントである」というだけで、逆らえば抹殺される。

もし、心をもつもの=人間=生命体と定義するならば、レプリカントも人間として生きる権利を有するはずなのに、人間社会とは区別される。

では、「心」とは何なのか? レプリカントの愛情や崇高さと人間の間に、一体どんな違いがあるというのか?

それを考え始めると、私たちは終いには自分の存在を疑わずにいられなくなる。人間を『人間たらしめる』もの、それは何かと問われたら、私たちだって自信を持ってそれを提示することは出来ないからだ。

『ブレードランナー』には、レプリカントの反逆者、ロイ・バッティが登場し、捜査官デッカードをぎりぎりまで追い詰めるが、最後にロイがとった行動、それは殺戮ではなく救済だった。

まさに God in the machine.

ならば、人間の慈悲はどこにある?

機械が崇高な感情を宿しても人間とは認めないとするなら、人間性を区別するものは何なのか?

そして、私たち人間は、それ以外のものを裁くまでに完成された存在なのであろうか?

ロイ・バッティの死は「一個の機械の停止」に過ぎないが、そこから広がる哲学の迷宮は私たちの生命に直結している。

たとえ永遠に正解のない問いかけであっても、そこに近づくことが、自分自身を知ることだからだ。

自らを知ることは命を愛することであり、死に対する恐れがいっそうそれを深くする。

ロイの死に立ち会ったデッカードも、いつ機能停止するか分からないレイチェルを連れて──それを言うなら、デッカードもいつ果てるか
分からぬ命なのだが──共に生きることを選択した。

人間を『人間たらしめるもの』──もしかしたら、それは、限りない生への希求なのかもしれない。

§ 1982年 劇場公開版とデッカードの独白

『ブレードランナー』には、設定の異なる5つのバージョンがあります。

決定的に違うのは、1982年の劇場公開版と、1992年のディレクターズ・カット版&2007年のファイナル・カット版。

82年の劇場公開版は、あまりにダークで抽象的な内容から、スコット監督の意図に反してラブラブ・エンディングが挿入され(ハリソン君がレイチェルを連れて愛の逃避行に旅立つ)、デッカードの説明くさいナレーションが随所に織り込まれていますが、92年以降は、スコット監督の意図が尊重され、ラブラブ逃避行とナレーションが完全に削除されているからです。

映画の余韻としては、スコット監督の意図が反映されたディレクターズ・カット版の方がいいのですが、82年版のナレーションが好きというファンも多いみたいで、私もその一人。

ロイの死後、デッカードが胸の内を語る場面です。ちなみに、ロイの独白は、ルトガー・ハウアーの即興演技だそうですよ。すごい。

なぜレプリカントが自分を助けてくれたかは解らない。
おそらく、最後の瞬間、今まで以上に生命の愛しさを感じたからだろう。
自分の命だけでなく、あらゆる命に対して。
オレの命。
彼は知りたがっていた。我々(人間)が欲しているのと同じ答えを。
我々はどこから来たのか。
どこへ行こうとしているのか。
どれぐらい生きられるのか。
オレに出来たことは、ここに座り、彼の死を見届けることだけだった──。

http://sanmarie.me/video2/brunner.flv

§ 「個性」とは記憶の連なり

レプリカントは写真にこだわる。「記憶」としての家族が映っている写真や幼い頃のポートレートなど。もちろん、それは、製造主が意図的に作り出し、彼らに植え付けた人生のストーリーで、当然のことながら、機械である彼らに家族も子供時代の思い出もない。

それでも彼らは自分を知る唯一の手掛かりとして写真を大事にする。

なぜなら、彼らは「過去」を有さないからである。

過去。それは、人間のルーツである。生まれた日、生まれた場所、育ててくれた家族、友と遊び、世界を学んだ、一日一日の積み重ね──それがあってはじめて、人は「わたし」を認識し、一個の人格として完成される。

だが、もし「過去」がなかったら──自分に関する一切の記憶が失われたとしたら──もはや何ものでもなくなる。

それはこの結びつき社会から疎外され、自己の基盤を失うのと同じだ。

どんな能力を持とうと、どれほど高い精神性を誇ろうと、「何ものでもない」ことは、この社会において存在しないことを意味する。

「わたし」は、社会との関わりの中で区別され、記憶の集積から自己を構築する。

機械として製造され、人工の記憶を注入されるレプリカントにとって、「写真」は彼らの存在を客観的に裏付ける唯一の証だ。たとえそれが偽りであったとしても、自分にも家族があり、子供時代があったと思うことで、「わたし」の足場を得る。言い換えれば、「わたし」というものは、元々、実体のない、自己の認識によってはじめてその形を得る、雲のようなものだと表すことが出来るだろう。この点は仏教に通じている。根本的に「いっさいは無」であり、苦しみも悲しみも、自分が「それ」と自覚することによって初めて形を得る──という考え方だ。

レプリカントの心も、人間が「わたし」と認識するものも、元をたどれば実体などなく、その日その日の風向きで形を変える流動的なものに過ぎない。にもかかわらず、人が「わたし」にこだわり、レプリカントが人間としてのルーツを大事にするのは、私たちが他から区別された「個」としての自分を認識してはじめて、人間としての人生が始まるからかもしれない。

「自分探し」というと、多くの人は「自分にはもっと素晴らしい可能性があるのではないか」とか「平凡な日常を劇的に変えたい」といった動機から自分自身に目を向けるが、本当の自分探しとは、ありのままの自分を見つめ、自己の何たるかを認識し、すべて受け入れるまでの旅である。

元々、「わたし」などというものは何処にも存在しない。

だからこそ、私たちが「わたし」と認識するものを真正面から見つめ、自己を形作ることから「自分らしい人生」の第一歩が始まるのである。

§ 攻殻機動隊

押井守の傑作SFアニメ「EMOTION the Best GHOST IN THE SHELL/攻殻機動隊 [DVD]」も似たようなテーマを語っています。

主人公は、機械のボディに人間の脳をもつ攻殻機動隊の草薙素子少佐。彼女も人間そっくりに考え、行動することができますが、彼女もまた自己の存在に対して懐疑的であり、「自分」は一体何ものなのかを常に問いかけています。

捜査に展開をもたらすキーパーソンとして、脳みそをハッキングされ、自分に関するいっさいの記憶を奪われた上に、他人の記憶を注入されて人生をメチャクチャにされる男性が登場しますが、その取り調べを見ながら、「自分が『自分』であるために多くの記憶を必要とする」と少佐がつぶやく場面、これは人工の記憶を注入され、写真以外に自分のルーツをもたないレプリカントに通じますね。それはまた、我々、人間にも言えること。だとしたら「自己」とは何なのか、人間を人間たらしめるのは「記憶」なのか、では、記憶が人間の本質とするなら生命とは一体何なのか、生物の創世記にまで翻って、深い問いかけが始まります。

これも日本アニメを代表する作品なので、機会があればぜひ見てください。

参照記事→映画『マトリックス』が本当に伝えたいこと ~君は心の囚人 / 攻殻機動隊 / イノセンス

§ ヴァンゲリスのサウンドトラック

『ブレードランナー』は音楽も素晴らしいです。作曲を手がけたのは「炎のランナー」でお馴染みのヴァンゲリス。ギリシャのシンセサイザー奏者で、アカデミー賞オリジナル作曲賞も受賞しています。

『ブレードランナー』もヴァンゲリスらしい宇宙的な広がりのある一大叙情詩で、単独の音楽として聞いても非常に美しい。

わけても素晴らしいのが愛のテーマ。ジャジーでアンニュイな雰囲気が漂う、大人の恋を描いた美しい音楽です。
クリップにもあるように、デッカードに愛が芽生え始めたレプリカントのレイチェルが、秘書だった時のカチカチヘアを柔らかくほぐし、女性的な姿に戻る場面が素敵。女は気分が変わると、まず髪型を変えるのです。
ハリソン君のちょっとゴーイング・マイウェイな「『キスして』と言え」もたまらん♥♥
この作品も脱いだり絡んだりしないけど、とても官能的です。

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§ 関連アイテム

画質、内容ともに、もっとも望ましい形でリリースされたファイナル・カット版のブルーレイ。クオリティの高い画像でシド・ミードの美しい美術を楽しみたい。ただ、こちらのファイナル・カット版は、ハリソン君のナレーションやエンディングの愛の逃避行などが入っておらず、より詩的な演出になっています。
私はそこまで画質にこだわらないのですが、『ブレードランナー』に関しては絶対的にブルーレイ派です。

一枚のDVDになんと3つのバージョンが収録されている、まさにマニア向けの一枚。違いを堪能したい方に。

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スタンリー・キューブリックの『シャイニング』~父(夫)の暴力としての恐怖~

映画『シャイニング』 ジャック・ニコルソン


スタンリー・キューブリックの代表作『シャイニング』について語りたい人はたくさんいると思う。
見方によってどのようにも解釈できる、万華鏡のような作品だからだ。

原作はスティーブン・キングの『シャイニング (文春文庫)』。

映像重視のキューブリックが原作の世界観を大きく歪めたとして、後々までキングが批判したいわくつきの作品でもある。

物語はいたって簡単。

冬のオフシーズン、山のリゾート・ホテルの管理人を任されたジャック・トランスは、従順な妻ウェンディと、自閉症気味の息子ダニーを伴ってホテル生活を始める。

実は、このホテルでは、前の管理人が妻子を惨殺するなど、血なまぐさい事件がしばしば発生していた。しかし、失業中のジャックは、それを承知で管理人の仕事を引き受けたのである。

最初は快適な暮らしを楽しんでいたが、他人に見えないものが見えたり感じたりする特殊な能力「シャイニング」をもつ息子ダニーは、ホテルの中で惨殺された双子の幻を見るなど、異様な体験を繰り返すようになり、一日中タイプライターで書き物をしているジャックも精神的に荒廃し始める。

ある日、空き部屋に迷い込んだダニーが何ものかに首を絞められ、ウェンディはジャックを疑うが、逆にジャックが凶暴化し、斧を片手に妻子を打ち殺そうとする。

果たしてウェンディとダニーはジャックの狂気とホテルの怨念から逃げることができるのか・・


『シャイニング』の一般的な解釈は、「ホテルを彷徨う亡霊たちがジャックをそそのかし、妻子の殺害に手を貸した」というものだが、亡霊に憑かれなくても、ジャックは遅かれ早かれ凶暴な性質を爆発させていたにちがいない。

参照→Wiki「シャイニング」

映画の中ではっきり言及はされないが、冒頭にこんなエピソードがある。

「シャイニング」をもつ息子ダニーは、ウェンディからホテルの話を聞かされた後、「口の中に棲む」という想像上の友達トミーから、「ホテルに行ってはいけない」という警告を受け、ホテルのエレベーターから真っ赤な血が噴き出す幻影を見てショックを受ける。

心配したウェンディは女医に往診を頼み、「トニーとに会話はいつから始まったのか」という質問に対し、

「養護学校に入れた頃からです……ええ、最初はあまり気が進まないようでした。でも、怪我がきっかけで、学校をしばらく休ませました」
「……怪我って?」
「肩をいためたんです。夫が腕を強く引っ張ったから……でも、本当に、アクシデントなんです。お酒を飲んでいて・・」

と、ウェンディは夫をかばい、一連の出来事をぼかすように、たどたどしく答える。

その様子から、この家庭には日常的にドメスティック・バイオレンスが存在し(精神的な脅しも含む)、アルコール依存症的なジャックも、妻子にとっては恐怖の対象なのだということが感じられる。

ウェンディも夫に不信を感じながら、恐ろしくて逆らえない──むしろ、夫にそうした暴力的な性質があると認めたくないという心理から、心にフィルターをかけて事実を正面から見ようとしない、そんな弱さを感じる。

ダニーも、唯一の味方である母親に頼れないことから心を閉ざし、「トニー」という分身を生み出したのだろう。

そして、ジャックは、妻の恐れや気遣い、子供の閉鎖的な態度を感じていっそう神経を苛立たせ、一度、感情を爆発させると、自分でも制御不能に陥ってしまう──。

ホラーというなら、いつキレるかわからない父親(夫)との暮らしこそ、『恐怖』だ。

そして、「シャイニング」とは、そうした人間の潜在的な恐怖──「もし、お父さん(夫)がこんな風にキレたら・・」「もし、自分が、妻子に対してこんな風にキレてしまったら・・」という、忌まわしい悪夢をあぶり出す作品であり、いつしか観客は亡霊の存在を忘れ、人間の秘める暴力性に恐れを感じるようになる。

ある意味、「シャイニング」は、「アル中で精神不安の父親にいつ殺されるか分からない」というダニーの恐怖をシンボリックに描き出した心理劇であり、そこに最初から亡霊はなく、ジャックの凶暴性もあれが本性だと言えるのではないだろうか。

父親が斧を片手に妻子を追い回す、この忌々しい物語は、植え込みの迷路に逃げ込んだダニーの機転によって、一応解決を見る。

しかし、斧を振るうジャックの姿は、生涯ダニーの脳裏から消えることはないし、その恐怖は命果てるまで続くだろう。

永遠に彷徨うホテルの『亡霊』として──。


§ スクリーンショット

『The Kubrick Stare(キューブリックの睨み)』と呼ばれる、キューブリック作品にお馴染みの表情。登場人物が三白眼で一点を凝視する表情は、「時計じかけのオレンジ」や「フルメタル・ジャケット」にも登場する。
映画『シャイニング』


ホテル内で惨殺された双子のイメージ。ダニーの前にしばしば現れ、「遊びましょう」と誘いをかける。
この映画を見てから、町で双子を見ると、このショットが浮かぶようになった。なんて罪作りなキューブリック(涙)
映画「シャイニング」


前よりもいっそう父親を恐れるようになったダニー。
ジャックはダニーを抱き寄せ「お前を傷つけるようなことはしない。約束する」と言うが、どこか空々しい。
すでにジャックの中では、父親の情と狂気がせめぎあっている状態。
ジャックの表情が鏡に映る構図もすばらしい。
映画「シャイニング」


狂気へとひた走るジャックは、「無人のはず」のホテルのトイレで、ついに「前管理人」と出会う。斧で妻と双子の姉妹を惨殺し、自らも銃で頭をぶち抜いた殺人鬼だ。
ホテル内はロッジ風のインテリアにもかかわらず、このトイレだけが異空間のようにモダンだ。まるでこの世とあの世の境のように。
血と生命を思わせる赤と白のコントラストが不気味。
映画「シャイニング」


「オレもあんたたちの仲間(亡霊のパーティー)に加わりたいのだが、妻と子供が邪魔をする」というジャックに対し、「ええ、うちもそうでした。だから妻と娘を『矯正』してやったんです」と前管理人。
斧で惨殺することを「correct=矯正」と表現する。あるいはこれが父(夫)の本音?
映画「シャイニング」


父の凶暴化とともにダニーの「シャイニング」もますます昂ぶる。
口の中で「RED RUM(レッド・ラム)」と繰り返しながら、口紅を片手に逆さ文字を書くシーンは圧巻。
この「レッド・ラム」、当時のサブカル世界を大いにインスパイアし、実際にその名を冠したロックバンドも出現。
逆さまから読めば、MURDER(人殺し)です。
映画「シャイニング」


殺人鬼と化した夫から逃げ回るうち、ついにウェンディの目にもホテルに巣くう魑魅魍魎の姿が見えるようになる。
最初に「ホテルは無人」という点が強調されているだけに不気味のキワミ。
映画「シャイニング」

映画「シャイニング」


こちらのサイトにもいろんな解釈が掲載されています。興味のある方はどうぞ。
「あの映画のココがわからない」(ネタバレ・サイトです)


§ 2010年4月27日の記事

TVの深夜ロードショーを見た後に書いたレビューです。育児中で、飛び飛びに見たこともあって、あまり深く考えずに書いてます。

夕べ、「TVN」というチャンネルで、スタンリー・キューブリックの傑作ホラー『シャイニング 』を観た。

二回目だけど、やっぱコワかった。

ジャック・ニコルソンは出てきた時からイッてるし、嫁は事が起こる前からすでに神経症っぽいし。

しかし、もう少し狂気に至るまでの過程を密に描いて欲しかった。

ジャック・ニコルソンの怪演だけで押し切ったような展開で、こりゃあ、原作者のスティーブン・キングが怒るのも無理ないですよね。

まあ、そうした不具合があるにせよ、この映画は傑出していると思う。

インテリアや色使い、カメラ・アングルなど、計算され尽くした映像。
Wikiによると、「数学的計算による世界最高のホラー映画」だとか)
ちらちらと織り込まれる恐怖のショットや金属系のサウンドなど、コアなキューブリック・ファンでなくても、その才能に圧倒される。

この映画は確実に後世に残る作品だし、「リメイク」というものも恐らくあり得ないだろう。
(スティーブン・キングが撮り直した以外は)

また、本作は、ベルリオーズの「幻想交響曲」(映画で使われたのは、第四楽章『断頭台への行進』)を一躍世に知らしめた作品でもある。

冒頭、一家を乗せた車が、山奥のホテルに向かって、山間のハイウェイを走って行くシーンで流れるこの曲は、「キューブリックのオリジナルだ」と多くの人が誤解するほどはまっていた。

名曲が名作と見事にマッチした、お手本みたいな一場面である。

自分でDVDを買ってもいいなぁ、と思ってしまった。

こんなものが家にあったらコワイけど。でも置いておく価値はあるよね。

こちらは、大変話題になったトレーラー。
今でこそ「血液ザバーッツ」なんて珍しくもなんともないけど、当時は非常にインパクトがありました。

ちなみにタイトルの「シャイニング」というのは、「超常的なものを感じる力」を意味するそうです。

The Shining Trailer
/video/shining.flv

ジャック・ニコルソンはこれ一作で名優でしょう(笑)
『バットマン』のジョーカーも怪演だったけど、シャイニングはそれに輪をかけてスゴイ。
こんなのに追いかけられたら、その場でショック死ですよ、ふつう。

The Sining best parts
/video/shining_best.flv

キューブリックのセンスと「シャイニング」の怖さがぎゅっと凝縮された一場面。
子供の目線で流れるようにホテル内を移動するカメラや、サブリミナル効果のように差し込まれる双子の映像、背筋がゾクっとするような金属音のBGMなど、監督の力量がうかがえます。
「Room237」は、前のホテル支配人による一家惨殺の現場。
ここに反応する息子ダニーこそ、この世にないものを感じることのできる「シャイニング」の持ち主なのです。

sanmarie.com

時々、Youtubeに全編アップされています。(オリジナル英語音声)。
運が良ければ閲覧できると思いますので「shining movie」で探してみてください。

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この作品は、怪優ジャック・ニコルソンの演技を見るだけで十分価値がある。
ストーリーを追うよりも、感覚的に怖がる映画。
内容も知り尽くしているのだけれど、なぜか二度、三度と見たくなる。
とにかく、ジャック・ニコルソンが凄すぎる。。

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原作は未読だけども、評価はいずれも高い。
映画が気に入ったら、原作も読んでおきたい。

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こんなもん、ベスト盤にすなっ! と言いたくなるような、悪趣味、ぞぞげ満開のCD。
「オーメン」「エクソシスト」「サスペリア」など、かの名作ホラーのおどろおどろしいテーマソングを網羅。
「シャイニング」に関しては、ベルリオーズの「幻想交響曲」の『断頭台への行進』が元になっているのだが、映画用にアレンジされた、金属系のサウンドを楽しみたいならこちらがおすすめ。
それにしても凄いラインナップ。悪夢にうなされそう。

§ その他の傑作ホラー

ホラー映画も、鎌をもったジェイソンみたなのが暴れ回る筋肉系(被害に遭うのは、たいがいはじけたアメリカの大学生。しかも男女カップルがいちゃついている所に出没する)と、宗教的に怖いものと二通りあって、どうせ見るなら、後者の方が面白いのだけど、まあ、「テキサス・チェインソー(死霊のいけにえ)」みたいに、電気のこぎりを振り回すしか芸のないホラーを暇つぶしに見るのもたまにはいいかもね。あ、もちろん、深夜のTVロードショーでね。

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 「悪魔のバイブル」とも称されたウィリアム・ヒューツバックの小説を、鬼才アラン・パーカー監督が映画化したオカルト・スリラー巨編。1955年のブルックリン、私立探偵ハリー(ミッキー・ローク)は、ある日謎の紳士サイファー(ロバート・デ・ニーロ)から、失踪した歌手ジョニーを探してくれとの依頼を受ける。しかし、その調査の過程で次々と殺人事件が起きていき…。
   前半はロークの柄をいかしながらのハードボイルド・タッチで進んでいき、後半へ進むに従い、恐怖のモチーフが徐々に首をもたげてくる構成がおもしろい。エレベーターを象徴的に用いた演出など、映像的にも見るべきところは多いが、一番の見どころはやはり出番こそ多くはないがデ・ニーロの悪魔的怪演だろう。(的田也寸志)

「悪魔のバイブル」とも称されたウィリアム・ヒューツバックの小説を、鬼才アラン・パーカー監督が映画化したオカルト・スリラー巨編。1955年のブルックリン、私立探偵ハリー(ミッキー・ローク)は、ある日謎の紳士サイファー(ロバート・デ・ニーロ)から、失踪した歌手ジョニーを探してくれとの依頼を受ける。
しかし、その調査の過程で次々と殺人事件が起きていき…。
前半はロークの柄をいかしながらのハードボイルド・タッチで進んでいき、後半へ進むに従い、恐怖のモチーフが徐々に首をもたげてくる構成がおもしろい。
エレベーターを象徴的に用いた演出など、映像的にも見るべきところは多いが、一番の見どころはやはり出番こそ多くはないがデ・ニーロの悪魔的怪演だろう。【Amazon.comより】

「80年代最高の色男」と呼ばれ、ノリにのっていた頃のミッキー・ロークが、ちょっとスケベながらも渋い演技を見せている。(もともとセクシーだけどもね、あのお方は・・)
映画のラスト、「お前が、それを私に売ったんだ」という、悪魔役のデニーロとの掛け合いは息を呑むばかりだし、ラスト、地獄行きを暗示するように鉄のエレベーターが下っていくシーンは、数あるホラーの中でも珠玉のエンディングと思う。
まだ正体を現さないデニーロが、カフェで美味しそうにゆで卵を食べるシーンも秀逸。
(キリスト教では、ゆで卵は、「キリストの復活」と「生命」の象徴)

‘Angel Heart’ (1987) – the egg scene
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価格: ¥ 1,140円 2点の在庫あり 中古価格 1,140円より

1970年代初頭、全世界を恐怖のどん底にたたき込んだ、ウィリアム・フリードキン監督のオカルト映画である。
2000年に作られた「ディレクターズ・カット版」を見ると、ショッキングな映像の数々もさることながら、実はこの映画の恐怖演出の根底にあるのが“信仰と人間”のあり方だということが、強く伝わってくる。
80年代に流行した、演出思想がグロテスクさに屈服してしまったスプラッタ・ホラーや、前世紀末の日本で雨後の竹の子のように増殖した、瞬発的な条件反射で相手を驚かす(「怖がらせる」のではなく)Jホラー作品とは一線を画す、まさしく恐怖映画の金字塔である。【Amazon.comより】

映画は神と悪魔の闘いを描いているが、根底にあるものは「人間の弱さと不安」である。
少女の悪魔祓いを担当する若いカラス神父は、年老いた母を施設に入れ、孤独のうちに死なせたことが心の呵責となっており、それゆえに、儀式においても迷いが心をよぎって、強くなりきれない一面がある。
悪魔祓いの最中には、亡くなった母の面影が悪魔憑きの少女リーガンと重なり、『私をこんなに苦しめないでおくれ』という母の囁きが聞こえたりもする。
それに動揺したカラスに追い打ちをかけるように、悪魔が『お前の母親はオレと一緒にいるのだ』と言い放つ。
カラス神父が闘っている悪魔とは、実は、自分自身の心の弱さなのではないか・・と考えさせられる。
悪霊パズスとの闘いを経験した老練なメリン神父が、若いカラス神父に向かって、「悪魔の言うことに耳を傾けてはいけない。悪魔は、嘘に、巧妙に真実を織り交ぜる」と言い聞かせるセリフが印象的。

The Exorcist Trailer
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オーメン [Blu-ray]

オーメン [Blu-ray]

オーメン [Blu-ray] (Blu-ray)
by グレゴリー・ペック, リー・レミック, デイビッド・ワーナー, ビリー・ホワイトロー, ハーベイ・ステファンス

価格: 1,974円 9点の在庫あり 中古価格 1,100円より

この作品を通じて「ヨハネの黙示録」を知った人も多いのではないだろうか。
悪魔の印として登場する「666」は、ローマの暴君ネロの名前を数字で表したものともいわれている。

それにしても驚かされるのは、「ローマの休日」でダンディな新聞記者を演じていたグレゴリー・ペックが、悪魔の子と対決する父親を演じている点。
愛と宗教の狭間で揺れ動く心理を見事に表現し、ともすれば悪趣味な恐怖モノになりそうな作品に深みをもたせている。


初稿:2010年4月27日

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