親の常識は、子供の非常識

このところ、ずっと、「とどのつまり、『親子問題』(育児ストレス、問題児などを含む)とは何なのか」ということを考えていた。

親が感じる、子育ての難しさ、イライラ、理解不能、etc。

親だって、かつては「子供」であり、子供の事なら、自分自身が一番よく知っているはずであろうに、どうして、いざ子育てに直面すると、こうもうろたえたり、焦ったり、苛立ったりするのだろう、と。

そんな折り、ふと思いついたのが、『親の常識は、子供の非常識』という事だった。

たとえば、子供が家の中でボール蹴りをする。

10畳ほどの子供部屋がある大豪邸ならいざしらず、総面積60平方メートルにも満たない、安アパートの一室でやられたら、誰だって止めさせる。

「危ないでしょ、家の中で蹴らないで」

しかし、子供にしてみたら、ただ遊びたいに過ぎない。

いつも公園でやっていることを、今、家の中でやって、何が悪いのだろう。

だけど、親には叱られる。

物を壊そうとか、妹を傷つけようとか、何の悪気がなくても、大声で怒鳴られ、ボールを取り上げられる。

――どうして?

そんな事をされたら、誰だって怒る。

反論できなければ、そっくり返って、暴れるだろう。

でも、「家の中ではおとなしく」を常識とする親の目から見れば、「聞き分けのない、乱暴な子」「扱いにくい子」になってしまうのだ。

親が常識と思っていることも、子供には非常識はなはだしい。

乱暴なのは、むしろ親の方で、こんな理不尽な要求ばかりする人に、素直に従える訳がない。

そこで、ますます、ややこしくなる。

単純に考えれば、価値観の違いに過ぎないのだけれど。

私は、幼稚園の頃からの記憶をとても鮮明に持っている方で、自分が何を想い、どんな遊びをし、親や周りの大人に対して、どんな感情を持っていたか、昨日のことのように思い出せる。

日記には、「大人はずるい」「何も解ってくれない」みたいなことをよく書いていたし、学校に提出する作文にも、似たようなことを書いて、「だったら、君が大人になったら、君自身の力で、この社会を良くしなさい」てな返事を頂いたこともあった。

当時の私が、今の私を見たら、さぞかしがっかりするだろうと思う。

「あんな風になりたくない」と思っていた大人そのものになっているからだ。

じゃあ、どこで価値観が変わったのだろう。

いつから、私は、子供であることを止めて、大人になることを選んだのか、振り返ってみると、思い当たることがたくさんある。

人は、それを「成長」というのだけれど、成長の何たるかが分からない子供時分から見れば、やはり裏切りであり、訣別なのだろうと思う。

演歌で、「男と女の間には、暗くて深い河がある」という言葉があるけれど、親と子の間にも、似たような隔たりは存在する。

ただ、男女のそれと違って、永久に渡りきれないような、もどかしいものではなく、気の持ちようで、どこからでも渡っていける、明るい河だ。

なぜなら、「男は昔、女だった」という事はないけれど、「親は昔、子供だった」からだ。

子供時代の常識を思い返せば、親として自分が要求している事の多くが、子供にとっては非常識だということが見えてくる。

要求している側の方が理不尽なのだ、と思えば、もう少し、見方や接し方が変わるのではないか。

人間が、好き放題に振る舞って、周りの人間にもウンウン聞いてもらえる時期なんて、人生の最初の、わずかな期間に過ぎない。

なのに、その数年の猶予を、自分にも子供にも許せないのは、何故だろう。

そう考えるところから、育児の悪循環から抜け出す道が見えないだろうか。

子供にあれこれ言い聞かせている親も、たいがい、理不尽なものだ。

むずがる子供は、ただ、「王様はハダカだ」と叫んでいるだけに過ぎない。……のかも。