9-5 相手に頭を下げたところで、あなたの価値まで下がるわけじゃない

海洋情報部で全職員と海洋行政の関係者を対象に二度目のプレゼンテーションを行う。
リズから注釈入りのパンフレットを渡されたヴァルターは、改めて、アステリアの社会がそれなりの歴史と複雑な利害関係を有することを知り、『相手も人間』、たとえ政治的信条は違っても、どこかに訴える部分があることを理解する。

そんなヴァルターにメイファン女史が助言する。

「私に謝らないで。フェレンツ部長に謝るのよ。『口が過ぎた』と素直に頭を下げれば、いつまでも根に持つ人ではないわ」
「しかし、そうまで謙る必要があるんですか」
「当然よ。あの方、いわばノボロスキ社は私たちの大事なパートナーだもの。公の任務も民業もノボロスキ社を抜きにしては回らない。それは支配や独占ではなく、リーディングカンパニーとしての存在感なの。フェレンツ部長は重要なデータを預かる最高責任者であり、社の代表でもある。その方のプライドを傷つけるということは、これまでノボロスキ社が積み上げてきた何十年の功績を軽んじるということよ、たとえあなたにそのつもりはなくても、周りはそう見なすわ。癖のある人だけど、仕事は確実だし、あなたがよちよち歩きしていた頃から、ここで身体を張って海洋調査の仕事をしてこられたんだもの。そこだけは敬意を払わないと、今度はノボロスキ社長の不興を買うわよ」

「前回、なあなあで済んだのは、フェレンツ部長の方が大人ということもあるけれど、ノボロスキ社長とマクダエル理事長の信頼関係に依るところも大きいわ。理事長が特別に目をかけておられる若い人だからと、一言言いたい気持ちを抑えておられるのよ。でも、一度は許しても、二度目はないわよ。あなたにも言い分はあるでしょうけど、それは結果を出してから堂々と口にすればいいこと。今は若輩に徹して信頼を固めた方がいい。たとえ小さな成果でも、何か一つ形にすれば人は認めてくれるわ」

「結局、理事長の威光ですか」

「そんなひねくれた言い方をするものじゃないわ。今度の事で一番恥ずかしい思いをされてるのはマクダエル理事長よ。あなたを推した時点で、自らの信用も懸けておられるのだから。少しでも反省の気持ちがあるなら、今度は穏便にやりなさい。フェレンツ部長に頭を下げたところで、あなたの構想の価値まで下がるわけではないのよ」

 彼は深く息を吸い込むと、「まず最初に一言、言わせて下さい」と断った。
「俺は確かに海洋行政や情報管理について論じるだけの資格もキャリアもありません。でも、海に必要なこと、可能性や危険性も含めて、本質は理解しているつもりです。アステリアにも蓄積されたノウハウがあり、今すぐ新しい情報共有サービスは不要かもしれませんが、一度でもその必要性について考えて頂きたいのです。堤防が先年に一度の水害に備えるなら、知識と情報の共有は先年先の未来を導く手引きです。海を知り、理解を深めるのに早過ぎることはありません。今からでもその基礎となるものを築いてはどうかというのが構想の主旨です。誰がイニシアチブを取るかの問題ではありません。一人でも多くの方が情報共有の必要性について考えて下されば、それだけでも意義があるのではないでしょうか」

プレゼンテーションの後、ヴァルターはリズと公園で落ち合い、互いの不安と迷いを語り合う。

「私は見世物じゃないわ」
「褒めてるんだよ。誰もが同じように人の目を釘付けにできるわけじゃない。下品な人は何を着ても下品だし、相手に深い感銘を与えようと思ったら、微笑んでいるだけでは意味がない。君だから感動するんだ。それが才能だよ」
「そんなのが才能のうちに入るの?」
「司厨部のパトリックを覚えてる? 前に君が忘れて帰ったカーディガンを洗濯してくれた。彼が言ってたよ。君が来るとプラットフォームに花が咲いたようになると。誰もが着飾れば花に見えるわけじゃない。俺の母がいつも言ってたよ。この世には微笑み一つで万人を幸せにする人もいる、と。絵が上手いとか、計算が得意とか、目に見える能力が全てじゃない。単純作業を間違いなく続けられることも、他人の話を聞くのが得意とか、個性で片付けられるような事にも人間の能力は秘められているとね。君も周りに何と思われようと胸を張ればいい。誰にも真似できない務めを果たしていると俺は思うよ」
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Product Notes

「相手に頭を下げたところで、あなたの価値まで下がるわけじゃない」という言葉は、若かりし頃、お世話になった方に言われたことを総合ミックスして、一言に要約したものです。

若者の「謝れない」「認めない」は万国共通。それができれば一流なのでしょうけど、20代、30代は、なかなかそうはいかない。

それを陰でフォローして下さったのが、当時の直属の上司であり、お世話になった目上の方々です。

それも長い時を経てから理解できる話。

このあたり、「旧・自分」と「新・自分」の対話でもあります。

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