9-2 鮭の産卵と親の思い ~父の死から立ち直れなくても

海岸にサイクリングに出掛けたヴァルターとリズは、一緒に科学ビデオの『鮭の産卵』を鑑賞する。
その際、彼が人と話さない子供だったことや、「鼻づまり」「キャベツ頭」と苛められたこと、父親に似た容姿から鏡恐怖症になっていることを知り、いっそう理解を深める。

「家でも鏡は見ない。だから、自分がどんな顔をしているか、よく分からない」
と信じられないような答えが返ってきた。
「それは、とても恥ずかしいから? それとも何か辛い体験でもしたの? だって、とても大事なことよ。海洋情報ネットワークに取り組むなら、あなたはいろんな人に会わなければならない。政府の高官や大企業の重役と面談する機会もあるでしょう。人は建前では『見かけじゃない』と言うけれど、それは服装も髪型も整っておれば、の話。人はやはり見かけで判断するし、よれよれのズボンをはいているとか、髪の毛が鳥の巣みたいに巻いてるとか、そんなことで見下され、正しい評価がなされないとしたら、せっかくの素晴らしいアイデアも持ち腐れに終わると思うの。あなたには報われて欲しい。せめて仕事で人に会う時は、恥ずかしがらずに、鏡で姿を整えた方がいいと思うわ」
「君の言いたいことは分かる。だが、嫌なんだ。鏡を見るのが」
「どうしてなの?」
「そんなこと、君に話してどうなるんだ」
「話しても、どうにもならないかもしれない。でも、理由を知っているのと、何も知らないのでは、理解の仕方が違うわ。私もあなたの力になりたい。あなたに替わって企業訪問したり、有力者に話を付けるような事はできないけれど、あなたを素敵に変身させることは出来るわ。目上に受ける服の選び方や髪の手入れとか。馬鹿馬鹿しいと感じるかもしれないけど、少しは世間の慣習に合わせないと、上層の協力を得るのは難しいと思うわ」
 大洋を周遊する鮭の群れは故郷の川を上り、パートナーを見つけて川床に大量の卵を生み付け、そのまま死んで行く。
 番組の最後、大量死した鮭の死骸が川面をいっぱいに埋め尽くすと、さすがにリズは顔色を変え、「なんだか残酷ね」と漏らした。
「でも、こうして卵の側で死んで行くから、その死骸はやがて稚魚の餌になり、厳しい自然を生き抜くことができるんだよ」
「子供の餌に……?」
「そう。親の死骸は自然に腐敗して、卵が孵る頃には栄養豊かな食べ物になる。救われるのは稚魚だけじゃない、熊やキツネなど、冬を越した森の動物たちの食糧にもなる。食い散らかされた鮭の死骸は一つ残らず稚魚や動物の糧になり、川と緑を育むエネルギーに生まれ変わるんだよ」
「そうだったの」
「自然と生命の関わりは本当に不思議だ。どれ一つ欠けても自然は成り立たず、自然が機能しなければ生物も生存できない。まるで緻密に織り上げられた宇宙のプログラミングを見るようだ」
「他にどんな海の生き物が好きなの?」
「海の生き物は何でも好きだよ。特に深海にいるのがね。どれもグロテスクで、何の為に存在するのか分からないような変なのばっかりだけど、あんな真っ暗な海の底でも一所懸命に生きている。その一つ一つが俺には誰かの生まれ変わりに見えるんだ。でも、一番好きなのはイルカかな。子供の頃、一緒に泳いだ時のことが今も忘れられない」

今も父の死から立ち直れないヴァルターは、「たとえ心の重荷になっても、父の思い出と一緒に居たい」と苦しい胸の内を語る。

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Product Notes

有名な『鮭の産卵』のビデオ。何百万という鮭が故郷の川に戻り、次々に産卵して、その生涯を終えます。
後には、おびただしい数の死体が川辺に打ち上げられるけども、いずれ生まれくる稚魚の養分となり、新たな生命のサイクルが始まります。

一方で、北上する鮭は、森の動物のご馳走でもあります。鮭とクマの戦いは有名ですね。

Photo : https://www.flickr.com/photos/alaskarainbowlodge/6686477995

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