ローエングリン

2-9 大洪水と最後の祈り 決壊前夜

2016年9月4日
ローエングリン

数千年に一度のストームを前に、グンターや地元の治水関係者は全力で締め切り堤防を守る。
だが、嵐は日に日に勢いを増し、町を丸ごと呑み込むが如くだ。
グンターは怯える息子に対して気丈に振る舞いながらも、死の恐怖を拭えない。

 この一週間、治水関係者のみならず、町中の男たちが力を合わせ、盛り土堤防や塩湖の護岸に土嚢を積み上げたり、三角形の水嚢チューブを設置して決壊に備えているが、大型低気圧の威力は一向に衰えず、明日の夜には高潮が盛り土堤防のキャパシティを超えて干拓地に流れ込む恐れがある。そうなれば塩湖の水位も一気に上昇し、幅一七〇メートルの締め切り堤防もどうなるか分からない。
 グンターも五日前から不眠不休で排水ポンプを取り付けたり、土嚢や水嚢を設置して、必死に堤防を守っているが、干拓地の北側はすでに冠水し、住宅街では避難が始まっている。 

 毎日ずぶ濡れになって帰ってくる夫の為に、アンヌ=マリーは温かなスープやボリュームのある料理をこしらえ、必死に心身を支えているが、その食材も徐々に店頭から姿を消し、今は小売店もスーパーも固くシャッターを閉ざしたままだ。

 そして今日も午後九時過ぎまで締め切り堤防の防護に力を尽くしたが、海も塩湖も人間の業など嘲笑うように水嵩を増し、激しい波が砲弾のごとく堤防に打ち付ける。
 全国の消防や警察から応援が駆けつけ、どうにか持っている状態だが、全員待避か、否か、意見の分かれるところだ。
 いずれにせよ、明日が運命の分かれ目だろう。

苦しい心情を吐露する夫に対し、アンヌ=マリーは「ゲッセマネの園」に喩え、「『父よ、この苦しみの杯をわたしから取り除いて下さい。けれど、私の願いからではなく、御心のままに*2』――その時が来れば、あなたの魂が行くべき道を示してくれるはず。そして、どんな時も私はあなたの良心を信じるわ」と夫を力づける――。

「アンヌ。明日、あの子と一緒に荷造りをしてくれないか」
「それほど状況が悪いのですか?」
「いや、念のためだ。今夜の状況を見て対策委員会が最終決定を下す。だが、全員待避が決まったら、堤防は無理だろう。そうなると、この家もどうなるか分からない。全倒壊することはないと思うが、貴重品を持って、あの子とカールスルーエに避難して欲しい」
「あなたはいらっしゃらないの?」
「それも明朝の状況を見て決める。なんにせよ、僕は最後まで現場を離れるわけにいかない」

「できるものなら、僕もこの場から逃げ出したい。君とあの子と三人で安全な場所に避難したい。堤防の向こうはまるで地獄絵図だ。ゴウゴウと渦巻く水を見ていると、恐ろしさに身がすくむ。本当に明日という日が来るのか、絶望的な気持ちになるほどだ。――アンヌ、僕も心底恐ろしい。今にも水の底に引きずり込まれそうだ。恐怖に打ち克つ勇気が欲しい。いつまでも君やあの子と一緒に暮らしたい……」

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Product Notes

ここで描いているのは、いわゆる『ゲッセマネの祈り』です。
新約聖書の中で、一番好きな場面です。

ジョヴァンニ・ベリーニの作品。天使が宙にぽわ~っと浮いた感じがポイント。
左の隅っこで弟子たちがグウグウ寝ています。(人間の意思は脆い)

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マンテーニャの作品は、天使が複数存在します。こんこんと諭しているような雰囲気で、ちょっと怖いです(^^;
弟子はイエスの後ろでぐぅぐぅ寝入っています。
この人間としての温度差みたいなのが味わい深いんですよね。
すぐ側にローマ兵が迫っている構図もドラマティックです。

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エル・グレコはより宗教的なタッチです。天使の髪型がジャスティン・ビーバーのようだ。
中央に赤を持ってくる色使いが上手いですよね。目がその一点に引きつけられる感じで。

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ゆえに、その後の十字架を運ぶキリストの顔が際立って見えます。決意した人間の美しさとでもいうのでしょうか。

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日本の死刑制度でも、「お前は明日、処刑だよ」とは宣告しないのです。(死刑執行の朝、突然、連れて行かれる)
自分が明日、確実に死ぬと知ったら、どんな人間もパニックになるからです。
特に、この時代は凄まじいリンチに晒されるわけですから、聖人といえど、それはそれは恐ろしい。
だからこそ、前夜の苦悶と、翌日の覚悟が、素晴らしい対比となって心に迫るのです。

聖書も山のように種類があるのですが、私のオススメはこれ。
翻訳が堅苦しくなく、文学のようなタッチです。

今はこういう本がたくさん出ていますので、一度、手にとってみて下さい。

リスト → 西洋絵画 聖書

*

この世に100パーセント、天災を予測できるものはありません。
誰も自分が明日、災害で死ぬとは思わないし、まさか自分の身にそのような事が起こるとは夢にも思わないでしょう。
でも、地学を知れば、「何もない」ことの方が不思議なほどで、宇宙の長いスパンから見れば、絶えず隕石が落ちたり、火山が爆発したり、気温が異常に低下したり、ダイナミックな現象の連続です。「今」という時が、たまたま人間にとってタイミングがいいだけの話であって、惑星レベルでは、束の間の静寂を保っているようなものです。
地球上の文明も、太陽の膨張と超高温で、二十億年後には確実に消滅するわけですし。

だから、防災において「大丈夫」などという言葉はインチキだし、「いつか訪れるだろう、最悪の自然現象」に備えるのが、社会の知性というもの。それが百年後であれ、二百年後であれ、自分には関係ない、ことはないのです。

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