ローエングリン

2-8 これが生だったのか わたしは死に向かって言おう よし、もう一度!

2016年9月4日

生意気盛りのヴァルターは母親に口答えばかりする。
夕暮れの海岸に連れ出し、訳を聞いてみると、今も「無力感」や「劣等感」に囚われていることが分かる。

「俺、知ってるんだ。春から夏にかけて、父さん、ずっと憤っていただろう。堤防の改修工事が延期になった話だ。自分では抑えているつもりでも、俺には痛いほど悔しさが分かる。それなのに俺は何の力にもなれない。そんな自分に腹が立つからさ」
 グンターは春先に締切堤防の補強工事を反故にされた件で、治水局の上役や自治体の議員と激しくやり合った経緯を思い返した。
 家の中では冷静にしていたつもりだが、やはり声や態度に強く表れていたのだろうか。
「俺も三つ四つの子供じゃない。父さんが怒り、打ちのめされていることぐらい、手に取るように分かる。でも、父さんは不安にさせちゃいけないと自分の中で押し殺して、母さんにも本当のことは半分も話さない。嫌なことも辛いことも、全部背中にしょいこんで、一人で盾になろうとする。でも、俺だって、もう中学生だぜ? いつまでも『揺り籠のシュシュ(きやべつちやん)』じゃない。掃除も、庭仕事も、簡単な料理もできる。この前の強化合宿も一人でベルギーまで行ったじゃないか。なのに何も相談してくれないなんて、俺のこと、ちっとも信頼してない証だよ」
 そんな風に考えていたのかと、グンターは少々ショックだ。
「早く大人になりたい。大人になって、父さんを助けたい。やり甲斐のある仕事を見つけて、俺にも何かを成す力があると実感したい」
「それなら、人間として必要な心性をしっかり身に付けてからだ。勉強もそうだが、思いやりや優しさ、礼節、責任感、それらを欠いて、どうして信頼に足る大人になれる? いくら勉強ができても、サッカーが上手でも、女の子を粗末に扱い、お母さんに『くそ』と言うような男に、とても仕事のパートナーは務まらない。むしろ僕の負担を増やすだけだ」
「俺、怖いんだ。いつかまた大きな壁にぶち当たって、鼻くそみたいな自分に戻るんじゃないか、って。答えては笑われ、意見しては笑われ、まるで自分に何の価値もないように思えて、無性に死にたくなる。そうなったら、今、俺を認めてくれる人も『こいつは駄目だ』とそっぽを向くかもしれない。仲間と慕ってくれる友だちも次々に離れて、また独りぼっちに戻るかもしれない。父さんは『生きることを悦ぶ』と言うけれど、俺にはまったく意味が分からない。今日は勝っても、明日は負けるかもしれない現実の中で、何をどう楽しめばいいのか、俺には毎日がプレッシャーだ。もし、レギュラー落ちして、お前は使い物にならないと見放されたら、どうやって、そこから抜け出せばいいの? 勉強も、高校や大学に進んで、もっと難しいテキストを読まねばならなくなったら、また言葉の問題で躓くかもしれない。その頃には、幼子みたいに父さんに頼ることもできず、落ち込み、傷つきするだろう。再び鼻くそみたいに丸まって、二度と立ち上がれないかもしれない。俺、自分でもよく分かってるんだ。父さんも母さんもいなくなったら、本当はとても弱い人間だってこと……」

「そんなことはない。君は強いから、オステルハウト先生の教室に二年も通って、言葉の問題を克服したんだ。クラスメートにからかわれても、罵ったり、殴り返したりせず、自分の良心を貫いてきた。君が本当に弱い人間なら、勉強もサッカーもとっくに投げ出して、苛めた人間に仕返しするような、心の曲がった子供に育っていただろう。この先、辛い出来事があっても、君ならきっと乗り越えていける。躓き、自信をなくしても、Luctor et Emergo(私は闘い、水の中から姿を現す)のように何度でも立ち上がるだろう。今はまだ世の中のこともよく知らないから、不安に感じるだけだよ。よく学び、経験し、本物の知恵を身につければ、些細な事に心を揺さぶられなくなる。試験やサッカーの順位に一喜一憂するのではない、どんと心に根が張った、本物の強さだ。僕はね、照れ隠しにお母さんに悪態をついたり、フィールドでも虚勢を張って、何が何でもゴール前に持って行こうとする君より、こんな風に、素直に不安や葛藤を語ってくれる君がとても好きだ。いつかは大きく育って、世のため、人のため、我が身をなげうって尽力しそうな予感もある。いくつもの試練を通り抜け、心の目が開けば、今の悩みなどちっぽけに感じるよ。僕が初めて締め切り大堤防(アフシユライトダイク)を目にした時のように」

グンターの胸の中に『ツァラトゥストラ』の言葉が去来する。

Es lohnt sich auf der Erde zu leben: 
地上に生きることは、かいのあることだ。
Ein Tag, Ein Fest mit Zarathustra lehrte mich die Erde lieben.
ツァラトゥストラと共にした一日、一つの祭りが、わたしに地を愛することを教えたのだ。
`War _Das_ - das Leben?` will ich zum Tode sprechen.
これが――生だったのか わたしは死に向かって言おう。
`Wohlan! Noch Ein Mal!`
「よし! それならもう一度」と!

その頃、はるか北の洋上では徐々に大気が乱れ、巨大な黒雲が天地を覆いつつあった――。

PDFで読む

「フルスクリーン」をクリックすると、ブラウザの全画面にPDFが表示されます。
レスポンシブル・デザインなので、スマホやタブレットでも手軽に閲覧できます。(ズームイン、ズームアウトなど)
Google Drive で公開しているPDF一覧はコチラです。

フルスクリーンで見る


Product Notes

引用はこちらから。

ドイツ語の原文は海外版・青空文庫『Free ebooks by Project Gutenberg – Gutenberg』で無料でダウンロードする事ができます。興味のある方はぜひ。

https://www.gutenberg.org/ebooks/search/?query=also+sprach&go=Go

You're here


Navigation