オランダ人船長

3-2 洪水と心的外傷 ~繰り返される悪夢

2016年9月5日
オランダ人船長

ジャン・ラクロワの計らいで、アンヌ=マリーはヴァルターをクリニックに連れて行く。
だが、診察によると、ヴァルターの心的外傷は予想以上に深刻だった。

「よくなるのでしょうか?」というアンヌ=マリーの問いかけに、女医は声を潜めて「時間がかかります」と答えた。
「あの子の場合、未だにTVの映像が生々しく脳裏に浮かぶと言っています。決壊した堤防や水没した干拓地の光景です。それに加えて、父親が黒い波に呑まれる悪夢を繰り返し見るそうです。父親が溺れ、苦しみ藻掻くように自分も苦しくなると。そうかと思えば、夢の中で父親が川向こうから手を振りながら帰ってきて、『心配かけたね、ヴァルター。もう大丈夫だよ』と抱きしめてくれる。あの子も『やっぱり父さんが死んだなんて嘘だ、俺のところに帰ってきてくれた』と幸せな気持ちで抱き合うけれど、それは本当に夢で、目が覚めたら何もかも掻き消えてしまう。その度に自分も死にたくなるそうです。それ以外にも、サッカーや自転車、音楽など、父親を連想するものを目にしただけで、所構わず涙があふれ、それを級友にからかわれたことも一度や二度ではないそうです。その上、お母さんに心配かけまいと、家でも学校でも張り詰めたように暮らしています。だから余計で苦しく感じるのです。天災や交通事故、目の前で人が殺されるなど、ショッキングな体験が引き金となり、鬱、自責、健忘、悪夢など、何年、時には何十年と苦しむ人も少なくありません。これといった治療法はなく、記憶を消し去る事も出来ませんが、根気よくケアすれば苦痛を和らげることはできます。ただ、一朝一夕に改善することは期待なさらないでください」

このままでは学業ばかりか、満足な治療も受けられず、人間として終わってしまう……。
不安に駆られたアンヌ=マリーは、心ならずも再婚の申し出を受け入れる。

「あなたが本当に援助者として私とあの子の人生に関わるつもりなら、その証を立てていただきたいの。一つは、私とあの子のために住まいを用意すること。二つ目は、教育と治療の支援をすること」
 ジャンの顔がさっと気色ばんだ。
「わたしを舐めるんじゃない。金と好意だけ引き出して、あとは自分たちの好きにさせろと? 最初に言ったはずだ。これはビジネスだと。私は金で君の姻戚を買い、君もそれなりのものを差し出す。形だけの妻にしても、世間の流儀には則ってもらわねば困る」
「……ここで一緒に暮らせと?」
「ここには大事な客人が訪ねてくることもある。もてなすのは君の重要な仕事だ。第一、家の務めを果たさぬ者が『奥さま(マダム)』と仰ぎ見られると思うのか? それなら囲いの女のように金だけくれてやった方がましだ」
 アンヌ=マリーは思わず立ち上がり、
「お話はなかった事にして下さい。こんな侮辱を受けるぐらいなら、あの子と二人、乞食にでもなった方がまし」
「なれるものなら、なってみろ。最愛の者が飢えと絶望でぼろぼろになっていく姿を目の当たりにできるならな」

アンヌ=マリーの再婚は豊かで平和な暮らしをもたらすが、息子の心に深い傷を残すことになる――。

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Product Notes

災害といえば、すぐに「復興」「再建」という話になりますが、陥没した道路は重機ですぐに直せても、人間の心はそう簡単には癒やせません。愛する人をなくした悲しみは十年経っても、二十年経っても変わらないし、ましてその死が自然でなければ、いつまでも苦悶するのが当たり前です。

家や道路の修復はともかく、心の中まで自分にむち打つように再建する必要はないし、悲しいものは悲しいまま、いつまでも心が晴れないなら晴れないなりに、それが当たり前と受け止めて、無理なく生きていけばいいと思うんですよ。

何も経験してない人間は、「もう五年経ったのに」とか「いつまで引きずるのか」みたいな事を平気で言いますけど、家を建て直したぐらいで元に戻るなら、この世に医者も神父も要らないのです。

悲しむ自分を否定しないで下さい。

いつまでも悲しく、苦しくて、当たり前なのです。

Photo : http://goo.gl/TwZhYw

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