書籍と絵画

『幸せ』が人生の目的ではなく ~寺山修司の『幸福論』より

2011年7月18日

私も30代前半から半ばにかけて、突然、「幸せ」について考えるようになり、その系統の本にもずいぶん目を通したものです。

女性向けの「愛されて幸せになる!」系のエッセーから、ビジネスマン必読の自己啓発ものまで(デール・カーネギーとか、ジョゼフ・マーフィーとか)、それこそ『幸せ』の二文字で首筋までどっぷり浸かるほど、たくさん。

そして、そこに書かれた事は、まったくもってその通りだし、それに気付かずに生きてきた私ってホントにバカバカバカ! な心境で、眠れぬ夜を過ごしたこともありましたな。

その延長で『恋と女性の生き方』のようなエッセーを書き、今、それはこのサイトでもダントツ人気なのだけど、最近、こう言いたいのね。(このコンテンツは2002年から2004年にかけて作っています)

幸せ探しも大事だけど、不幸も大事にしてあげてね。

私は、人生の一時期でも、自分にとっての幸せとは何かを真剣に考え、とりわけ『愛』というものについて、照れたり、皮肉ったりせず、全身で感じる(感じようとする)体験って、非常に重要だと思うし、それについての様々なアドバイスに素直に耳を傾けられるか否かで、その後の人生も大きく変わってくるでしょう。

でも、一方で、『幸せになれない自分』も大事にして欲しいと思うのね。

誰の人生も順風満帆ではないし、一見、明るく幸せそうに見える人でも、水面下で必死にもがいてたりする。

仕事は上手く行かないし、先輩はヤな奴だし、友達は少ないし、なんか本当に周りに好かれてるのかどうかも分からない、ついでに彼氏もかれこれ7年ぐらいない・・とか、若い時でもいろいろあるものよ。

とりわけ、若いうちは、5しかない自分を、10にも、100にも見せようとする。プライドというよりは、見栄っ張り。

バブルの時代、ビートたけしさんが「今の若い奴らは『死ね』と言われるより『ダサい』と言われる方がずっと辛い」と仰ってたけど、この方は本当によく分かってらっしゃる。

モテない、冴えない、稼げない自分を、他人に侮られたくない。

「ダサい」とか「孤独」とか思われたくない。

中を覗けばグラグラ、ガクガクの自我、そのくせプライドだけは顔の真ん中でテンパってるような若い人にとっては、仕事も順調、趣味も充実、いつも遊びのお声がかかって、彼氏とはラブラブ、みたいな「幸せイメージ」に、どこかこだわってる部分があるんじゃないかな。

だから余計で「上手くやれない自分」「周りに好かれているのかいないのか、浮いたような自分」が辛くなるのだと思う。

とりわけ今は、淋しさとか怒りとか、不満とか絶望とか、一般に『ネガティブ』と呼ばれる感情に対して否定的でしょう。

もちろん、愚痴ばっかりこぼして、周りにもイライラ当たり散らしているような人は幸せから縁遠くなってゆくのは確かだけども、だからといって、人間にとって自然な感情、たとえそれがネガティブなものであっても、否定して追い出す必要はない、と思うのね。

たとえば、「今日も職場の先輩の態度に落ち込んだ(>_<)。こんなネガティブな感情もってると、表情も暗くなるし、いろんなことがダメになりそう。毎日ジクジク考え込んでたら、ネガティブパワーに吸い寄せられて、もっと悪い方向に行っちゃいそう。もっと前向きな、強い人間になって、周りのも優しい気持ちを持てるようになりたい♥」みたいな意見がありますね。

それは本当にその通り。その言葉通りにできたら大したものです。

でも、一方で、『他人の態度に怒り、傷つき、いつまでもジクジク落ち込んでいるような自分』って、そんなに悪いですか?

そりゃ、ネガティブな感情をずっと抱えていたら、「私って醜い」と自己嫌悪に陥るし、明るくサッパリした気持ちで生きて行きたいのは誰しものことです。

だからといって、いつも前向きに、強く、優しく、幸せを感じられることが人生の全てではない。

幸福になる以外にも──実際に幸福でなくても──毎日涙と怒りと溜め息に明け暮れるような人生でも──人間は自分を楽しむ気持ちさえあれば、何処にでも生きる価値を見いだせる、と思うのです。

『自分を楽しむ気持ち』というのは、涙も怒りも溜め息も、自分の真実の感情として愛せる、ということです。

私もここまで来て改めて思うけども、結局、光だけの人生もないし、暗闇ばかりの世界もない。

確かに「幸せになること」は人生の一つの目標に違いないけども、「この世に生きる」ということは、ネガティブなものも含めて『知って味わうこと』であり、ニーチェの言葉を借りれば、『これが生だったのか、よしもう一度』と心の底から言えてはじめてその楽しさが分かるのだと思います。

だから、どうしても誰かが憎いなら、その憎しみととことん付き合ってみる。

「憎いことは悪い事」と責めるばかりでなく、人はいったいどこまで憎めるものか、自分の心と身体で味わってみたらいいの、理性を失わない程度に。

ああ、こんな憎しみにとらわれていたら、私はいつまでも幸せになれない、だから赦そう、忘れよう、と努力するのも大切だけど、激しい憎悪を知るからこそ見える深みもあって、幸せに輝くだけが人生の全てじゃないのね。

私の大好きな寺山修司さんが、『幸福論』という本を書いておられる。その文章は、よくある幸福論とはまったく違い、かなり抽象的で、ぱっと読んだだけでは分かりにくいのだけども、解説者の佐藤忠男さんが、非常に丁寧に分析して下さってますので、ここに紹介します。

※所々、省略しています。

寺山修司が多分、いま、いちばん力をそそいでいるのは、彼が主催する劇団「天井桟敷」の仕事であろう。

この劇団は、はじめ、小人とか、百貫デブとか、我こそは美少年美少女だと思っている若者たちとかをあつめて、昔の見せ物小屋の味のする芝居をつくろうではないか、というねらいで、われと思わん連中をあつめて出発したものだった。

一般に、障害者を舞台に上がらせて見せ物にするといったことは、人道にもとることとされている。しかし、では、障害者に対して見て見ぬフリをする者は人道的なのか、といえば、じつは、彼は、見ぬフリをしたまま差別しているだけであるかもしれないのである。

寺山修司は、これに対して、障害者と美男美女とが、平等にお芝居の中で交歓する、という発想を提出するのである。

障害者にとっての不幸は、ジロジロ見られることにあるのではなく、その視線が見て見ぬフリするようなヨソヨソしいものばかりで、真に愛情のこもったものでない、というところにあるのかもしれない。

そして、ほんとうは、一般の人々も、障害者に対してなんとか親愛の視線を投げかけたいと思っているにもかかわらず、障害者をジロジロ見るのは失礼である、というような約束ごとに縛られて、そうすることもできず、困っているのかもしれないのである。

障害者を舞台に立たせるというのは、そうした壁を予想外の仕方で打ち破る卓抜な着想であった、と私は思う。その壁を破ってみれば、障害者と健常者とは、じつは、なんのこだわりもなく、ニコニコ笑い合うことが可能だったのである。私は、こういうことを、見世物的な行為、芸術的な行為であると同時に、すぐれた思想的な行為だと思うのである。

障害者による見世物的演劇というのは極端な例であり、繰り返しやってうまくゆくということは難しい。じじつ、そうはつづかなかったようである。しかし、世の中には、さまざまな形で差別され、疎外されている人間がいる。オカマ、ホモ、娼婦、ソープ嬢、彼ら、あるいは彼女らの多くは、自分を不幸だと思っているだろう。

これに対して、政治的にものを考える人間は、世の中をすっかり変えてしまわなければダメだ、と言うし、宗教的にものを考える人間は、気の持ちようひとつで仕合わせになれる、と言う。

ところが寺山修司は、これを芸術的に考える。ということは、自分を不幸だと思う人間は、その不幸を表現すべきだ、ということである。

むかしのように、食えない、という純粋に物質的な不幸と違って、今日の不幸は、たぶんに、自分は周囲から見捨てられている人間である、という精神的な飢餓感のかたちをとって現れる。だとすれば、自分はこんなに不幸だ!という大声をあげて、周囲の視線を再び自分にあつめることも、幸福を回復するひとつの有力な手段であり得るだろう。

寺山修司は、芸術家として、つまり表現の専門家として、「自分は不幸だ! この不幸な自分を愛してくれ!」という叫び声のあげかたを工夫し、そのさまざまな方法を開発しては、惜しげもなく、それを演出し、公開し、普及させるのである。ただ単に、自分の不幸をピストルに托していたのでは、みすみす、自分を不幸にしている敵の罠にはまるようなものである。

不幸の表現も、ただ真情があふれているだけではダメであって、ときとばあいに応じたテクニックがなければならない。たとえば、少年の家出は不幸の表現のひとつであるが、ただやみくもに家出をしても警察に補導されて説教されて連れ戻されるのがオチである。家出にも計画性がなければならないし、すぐれた表現になっていなければならないであろう。

寺山修司は、世間的には、少年たちに家出を呼びかける扇動者として有名になった。そして、その劇団「天井桟敷」は、彼の呼びかけで家出してきた若者たちのたまり場になり、彼らがその不幸をさまざまなテクニックで表現することによって逆に幸福に変える、一種の道場であると見られている。そこでは、不幸がユーモアに変えられ、幻想に変えられてゆくのである。

三島由紀夫は、太宰治の苦悩など冷水摩擦で治るものだと批判したが、寺山修司は、治るか治らないか、やってみよう、というのである。

彼の劇団そのものが、そうした「身上相談」的方法の実践であるとも考えられる。自分を不幸だと思う人間は、その不幸を舞台で音吐朗々と表現したらいい、というのである。

もっとも、それだけなら、ある種の新興宗教とそう変わりばえしないかもしれない。ただ、宗教においては、すべて、告白は自分がいかに罪深い人間であるかということを自覚させること、即ち自己否定につながるわけであるが、寺山修司の方法では、不幸の告白はあくまでも自己をいかに肯定すべきかという命題へと告白者をいざなってゆくものなのである。そこで決定的に違うのである。

オレは冷水摩擦をやってみた、しかしオレの不幸は治らない、じゃあ、つぎにはなにをやるか、と想像力の渦巻きを起こさせる。それが彼の芸術であり、社会運動であり、幸福論なのである。

「芸術」と言うと堅苦しいイメージがあるけども、ちょっとした「遊び」とイメージしてみましょう。

死ぬほどの苦しみも、ほんの少しの知性とユーモアで、他人が共感するような話に昇華することができる。

ブログに「死にたい」「ウザイ」と書き殴るだけでは人も遠のくけれど、「今日も悪魔が来たりて笛を吹く。アイツの口から一度でも、地獄の鬼よりましなウソを聞いたことがあるだろうか。オレは酷い耳だれのために明日も生きていたくない。誰でもいいから、オレが寝てる間に、こっそりオレの首を絞め殺してくれ」とか言えば、ちょっと取っ掛かりができるでしょう。時にはそれが誰かの励ましや慰めになるかもしれない。そこに絶望や憎しみの価値があるわけです。

人間にはは、ネガティブな感情を否定するだけでなく、それを自分の一部と受け入れ、自分らしいやり方で昇華させる知恵がある。誰にでも好かれるいい人になって、明るく、満ち足りた人生を送るだけが全てではない、ということです。

不幸というなら、「おれは不幸だ!」を大声で叫べない、またそれを聞き入れない社会の精神的な土壌こそ、本当の不幸の根源であり、怒りや孤独、そのものが害悪ではないのです。

もっと、「落ち込む自分」や「ムカつく自分」としっかり向き合ってみようよ。「ああ、こんな風に思っちゃダメダメ」と前向きになるばかりではなく、自分のイヤな部分に首までドップリ浸かってみれば、案外、鍛えられるものだよ。見かけだけの頑張りより、もっと確かな強さとなって。

Enjoy yourself.

それが本当の幸せの言葉です。

寺山修司の『幸福論』 ~「出会い」の章より

「人に好かれる方法」には「好かれようと思わず、好かれるに価する人間として生きることが必要である」という格言がのっているが、ジェリーの場合はまさに「好かれるに価する人間として生きる」ことをのぞんで、そのためには邪魔者として殺されてしまうしかないという結論を得たのだった。だが一体、「好かれるに価する人間」とは何か?

1 いつもほがらか
2 裏表がない
3 さっぱりした気性
4 活発に行動する
5 はっきりした態度をとる
6 心がひろくこせこせしない
7 ものごとに沈着、冷静(熱狂的で騒ぎ立てる、あまりににぎやかすぎるのはうるさがられ、敬遠される)
8 不平や愚痴をこぼさない
9 人のこともせんさくしないが、自分のこともくどくどした話をしない

これが「人に好かれる法」における、好かれる人間のタイプである。だが、こんな人間が「好かれる人間」なのか? この書物を枕元に置き、いつも寝る前に少しずつ読んでは暗誦している酒場「フラミンゴ」のバーテンの友井さん。こんな「人間のタイプ」を目標にしたら、あなたはたぶん誰にも嫌われない無害な人間になることは出来ても、決して「好かれるに価する人間」になどにはならないだろう。いてもいなくてもいい人間は、たしかに人に嫌われることはない。だが、風景としての人間などが、どうして矛盾に立ち向かえるか? 「熱狂的に、騒ぎ立てることのない人間」が、「活発に行動できるか?」 大体、「いつもほがらか」とは何であろうか?

「好かれる人間のタイプ」をすべて備えた人間には、力がなさすぎる。表裏のない人間、人のことをせんさくしない人間、さっぱりした気性の人間といって箇条書きにされて行く人間には、ものごとにさしはさむ「疑問符」のしまいどころがない。大体、こんなタイプの人間は、軽蔑されることはあっても、決して嫌われることがないのではないか。

私は嫌われる人間は好かれない、という単純な数式をここでも問題にしたい。誰かを好くことは、とりもなおさず他の誰かを嫌うことである。その「誰か」と「誰か」とを不断に区別してゆくことが「出会い」における数学の問題なのであり(ときには、それは同一人の中で誰かと誰かが重複したりすることによっていっそう増大し)、ボードレールの「人が群衆の中にいると喜びを感じるのは、人間が数の増大を好むことの神秘的なあらわれだ」というということになるわけだ。

友井さん、少しは「人に嫌われる法」も研究してみたらいかがですか?

§ 関連アイテム

「あなたにとって幸福とは何ですか?」という問いかけに、大勢の人々が「昼寝」や「テレビをみること」、「美味しいものを食べること」と答えているのを見たならば、あなたはそれをどう感じるだろう。“私たちの時代に失なわれてしまっているのは「幸福」ではなくて、「幸福論」である”と記す著者が、古今東西の「幸福論」に鋭いメスを入れ、イマジネーションを駆使して考察した新たなる「幸福論」。

あまたの幸福論とはまったく趣が違うので、人によっては難しく感じるかもしれませんが、普段自分が当たり前と思っている幸福をちょっと斜めから見直してみたい場合には強くおすすめ。

果たして、世間の人間が言っていること全部が正しいのか、常識って何よ? ということを、時にはガッツリ考えてみるのも楽しいと思います。

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