バブル女 ーそして、みんな美魔女になったー

最初に「美魔女」という言葉を聞いた時、また○○夫人がヌード写真集でもお出しになったのかと思いましたが、素人さんの話でした。

盛りを過ぎても「ええっ! ホントに40代なんですかぁ~!」と同性が驚嘆するような(褒めてくれる対象は『若い娘』もしくは『同年代の女性』でなければならない)美貌とキャリア、リッチな生活(裕福、豊かと「リッチ」のニュアンスはまた異なります)を享受し、なおかつ女として愛される現役人生を送っている、イケてる中年女性をお洒落に言い換えると『美魔女』になるみたいです。(次から次に言い換え方を考えつく)

言葉としては『熟女』の方が「いっそう熟れて、いやらしい感じ=色気」があって好きなのですが(私が学生時代、「熟女ブーム」が到来して、40代50代の女優さんが一斉に脱いだ時がありました)。

私たちの世代で「熟女」というと、どうしてもあのヌード写真が脳裏に浮かぶので(宮沢りえの「サンタフェ」や女子大生ブームに対抗したような雰囲気に嫌悪感がある)、他の言い回しを考えたのかもしれませんね。

美魔女と聞いて、私の脳裏に浮かぶのは、愛らしく年を重ねたスーちゃんですが(最近お亡くなりになった田中好子さん・・)。

ユーミンを聞きながら、「みんな、今頃、どうしてるのかな~。あの子も、この子も、いいお母さんになって、高校時代のお洒落自慢の思い出や、恋の武勇伝を聞かせたりしてるのかしら」と思っていたら、みんな『美魔女』になっていた。

一瞬、あんたら、まだ、やっとったんという言葉が脳裏をよぎりましたが、元気といえば元気ですよね。

まだ終わらない。「終わった」なんて言わせない。

私たち、まだまだ現役よ。

あの頃、ファミレスで息巻いていた彼女らの声が今も耳に響いてくるようです。

*

私たちは永遠にパラダイムシフトできないのかもしれません。

老いたもの、劣ったもの、負けたものを、徹底的にバカにしてきた「軽薄短小」の世代ですから。

「あなたたちも、いつかは年を取るのよ。もっと敬意や思いやりを持ちなさい!」と叱責する年増の独身女教師を「後家」と笑い飛ばし、ダサい格好をした同級生を陰で嘲っていた人ほど、今、焦りの色も濃いのではないでしょうか。

青春時代、「ババア」と嗤って天に唾したものが真っ逆さまに自分の顔にかかろうとしている今、唯一の対抗策は「ババア」と言われないこと。

年を取るのは仕方ない。でも、周りにそれを認めさせてはいけない。

それがバブル女の原動力であり、本質でもあるような気がします。

§ ライバルは自分と同レベルの女

おそらく日本中のどこを探しても、美智子妃殿下やキャサリン妃と正面から張り合おうという輩は存在しないでしょう。

あまりにレベルが違いすぎるから。

また、松田聖子のようなモンスターが相手でも、その差があまりに歴然として、戦いを挑む気にはなれないと思います。

最初から負けが見えている競争はしません。

が。

もうちょっと下に目を向けて、有名スポーツ選手や有名ブランドの御曹司と要領よく結婚して名を上げたような女。

本人にそれほど実力があるとは思えないのに(私と同じレベルの容姿、私と同じレベルの学歴、私と同じレベルの出自)、ひょんなことからチャンスをものにして、周りにチヤホヤともてはやされているような女。

いわば「私でもちょっと手を伸ばせば掴めそうな幸運を、まんまと手に入れた同レベルの女」というのが一番妬ましいわけです。

言い換えれば、自分と同レベルの女が名を上げれば上げるほど、周りの女は負けじと奮い立ち、私も、私も、と、流行のものに飛びつく。(図抜けた才女や大女優は起爆剤にはならない)

それをネタに商売しているのが今のアパレルであり、コスメであり、広告会社でしょう。

「私もちょっと頑張れば、ああなれそうな女性」を担ぐのは、本当に上手いやり方です。

§ 「世の中全体がダメだから」は通用しない

そんなバブル女と今の若い娘たちの間で決定的に違うのは、「世の中全体がダメだから、私もダメで構わない」という言い訳が通用しない、という点です。

就職できなくても、「世の中全体、氷河期だから」。

彼氏がいなくても、「世の中全体、晩婚化だから(草食化だから、セックスに興味がないから)」

お小遣いが足りなくてブランドの服が買えなくても、「世の中全体、不況だから」

今はそれで周りを納得させられるし、自分自身にも言い聞かせることができます。

でも、バブル女にこんな言い訳は通用しません。

この右肩上がりの世の中で(80年代)

仕事がない→ 落ちこぼれ

彼氏がいない→ 女として終わってる

ブランドの服が買えない → バイトしろよ。自分で稼げよ。

「一万円以下で可愛くコーデ」なんてあり得ない話。

3000円のトレーナーなんて、オバチャンの買い物。

社会人になったら安物の大衆アパレルなんて恥ずかしくて着られない。

ダサい。

その一言で、グループ内の社会的生命を絶たれてしまう。

だから自分の立ち位置を確保する為に、周りから見下されない為に、必死ですよ。

「世の中全体ダメだから、あなたが頑張っても報われないのは仕方ない。ゆっくり、自分らしく生きればいいよ」なんて誰も同情してくれない。

あの右肩上がりの世の中で、金ない、男ない、仕事ない、なんて、口に出来なかったんですから。

「その服、どこで買ったの? えー、そんなブランド、聞いたことがない、寺町の商店街? ようそんなとこで買い物するワー」

「彼氏いてへんの。何年ぐらい? あんた、もう終わってるんとちゃうん」

「彼氏、何してる人? 車もってんの? 誕生日に何をもろたん? 私、ティファニーのオープンハート」

……etc

バブル女には、大なり小なり、昔の仲間に対するルサンチマンがあると思います。

今もそれを心のバネに研鑽している人も少なくないでしょう。

「やらない」「できない」「もってない」は通用しない時代を知ってるから、いつまでも飽くことなく努力もできるんです。

こと、自分自身については。

§ 好きで消費しているわけではない

バブル女といえば何かと桁外れの購買力がクローズアップされますが、私たち、決して好きで消費しいてたわけではないのですよ。

むしろ逆。

使いたくないのに、使わざるをえない状況にあった。

社会の勢いと仲間内の階級闘争に押されて、マルビ(私たちの頃は金持ち=マルキン、小遣いなし=マルビと言った)の辛酸をなめた人も少なくないと思います。(今でいうマウンティングが物質面でより色濃かった)

「持ってないとバカにされるから、仕方なく買う」

今もそういう傾向はあるかもしれませんが、あの頃はもっと露骨だった。

コムサ・デ・モード、ピンクハウス、BIGI、コム・デ・ギャルソン、、、どれか一つは持ってないと、ハネコにされた。

新しい服を買えば、必ずブランドを聞かれ、「藤井大丸で買った」と言えば陰でバカにされる。

マルビの子供なんて生きた心地がしなかったですよ。(今もそうかもしれませんが)

また、バブル女と今ドキの娘さんとの大きな違い──それは「人と繋がる」には「実際に外に出て、会わざるをえなかった」という点です。

メールもない、携帯電話もない、パソコンもなければ、ポケベルもない。

顔を合わせばピーチクパーチク、男の話から受験勉強のことまで、飽くことなく喋りまくった高校時代、友達と繋がるためには実際に外で会い、集まりがあれば必ず声かけしてもらえるような関係を維持しなければなりません。

LINEもなければ、FACEBOOKもTWITTERもない時代、友達とお喋りを楽しむには、喫茶店やロッテリア、体育館、クラブボックスにたむろして、「リアルな会合」を持たなければならなかったのです。

もちろん、電話はありました。

でも、多くの場合、一家に一台。それも居間や玄関先の「サイドボード」「靴箱」「電話台」なる家具の上に鎮座している。カントリー調のキルティングカバーがかかっていることもあります。

家族が聞き耳を立てる中(特に父親)る、D組の田中君がどうしたとか、バレンタインにチョコレート渡すとか、メグミと森田がついに「やった」とか、そんな話ができるわけないでしょう。

まして「親、ムカつく」とか「死んでやりたい」とか、話せるわけがない。

仕方がないから、ロッテリアに行き、一杯120円のSサイズのコーラで何時間も粘る。

そろそろ店員の目が気になりだしたから、次はハーゲンダッツでも行くか、と梯子をする。

ずいぶん遠くまで来たから、帰りはタクシーで割り勘でもするか、という話になる。

実際に外で友達に会うとなれば、お洒落もしないといけません。

それも友達に見劣りしないような服。

このスカートも何度も履いた、そろそろ新しいのを買わないとみんなに笑われる、

町を歩けば、わあ、OLのお姉さんが綺麗だな、私もああなりたいな、ショーウィンドウに飾られた素敵なスーツに目を引きつけられるし、同じ年頃の女の子がブランドのバッグを下げて得意げに歩いている姿も目に入る。

じゃあ、私も頑張ろう。

飲み食いにも、移動にも、お洒落にも、お金を使いますよ。

だって、家にこもれば友達との交流は完全に絶たれてしまう。

とにもかくにもお洒落して、外に出て、実際に会わなければ、お喋りひとつ出来なかったんですから。

そうして、若者がぞろぞろ街に出てくると分かれば、バーやレストランも活気づくし、夜のタクシーも大忙しです。

場を盛り上げるために若者向けの音楽をガンガン流せば、「今度の中森明菜の新曲、ええなあ」という話になる。

「私、レコードもってるで」「え、ほんま? ほな、ダビングさせて」「ええよ。今度、テープもっといで」

そんでまたTDKのテープを買うために金を使い、次は上等なウォークマンが欲しくなってまた金を使う。

今はMP3データのやり取りが大半でしょう。通信会社ばっかり儲かって、他の産業にお金が回らん。衰退するのは当たり前です。

友達に会う為に費やしたエネルギーは、今の若い娘さんたちとは桁が違うと思います。

それは世の中全体が好景気で、先天的にイケイケの血が流れているからじゃない。

実際に外で友達に会わなければ付き合いが成立しない、

その為には、飲食店に行き、お洒落をし、バスやタクシーを使って移動しなければならない、

この「お友達インフラ」が決定的に違うからです。

自宅で、パジャマ姿で、ゴロゴロしながら、スマホでテキストメッセージのやり取り、

と、

お洒落して、バスに乗って、ロッテリアとハーゲンダッツを梯子して、帰りに可愛いアクセサリを衝動買いしちゃう、

のでは、

行動範囲も違うし、付き合いを維持する経済力も必要になってくる。

ゆえに身体を張ってバイトし、行動範囲を拡げて『現実の友達』を増やし、いつでも誰かに声をかけてもらえるよう自分を磨こうとする(ネットでどこかの誰かが声をかけてくることもないので)。

その感覚を今でも持ち続けているのがバブル女だと思います。

下の世代から見れば、そういうのが「ガツガツしてる」と見えるのかもしれませんが、実際に外に出て、誰かに話しかけなくても、「スマホさえあれば、Twitterさえやれば、とりあえず誰かと繋がっていられる」のと、身内社会でのサバイバル濃度が大きく異なります。

厳しいサバンナで生き残りをかければ、大をも喰らう肉食獣になって当たり前なんですね。

§ 美魔女(バブル女)が最後に求める『墓』という私らしさ

そんなバブル女も、いずれ70歳になり、80歳になり、お立ち台でブイブイいわせたギャルも肝臓だか大腸だかを煩って、いずれ死の床につきます。

その時、バブル女の頭にもたげるのは、「私という女が生きた証を永遠に残したい」という執念にも似た願いかもしれません。

私らしい墓。

「あの人らしい、素敵な葬儀だったね」と言われたいから、通夜も私らしくプロデュース。

読経のかわりにモーツァルトの弦楽四重奏曲を流し、弔問客へは一流の素材を使った食事でおもてなし。

最後のお別れに棺桶を覗かれた時、シミ、シワ、苦悶の表情は恥ずかしいから、死に化粧はプロのメイクアップ・アーティストにお任せ。

遺影は、気に入らない写真を勝手に使われたくないから、生前にプロのカメラマンに撮っておいてもらう。

墓石は、ゲゲゲの鬼太郎みたいなのはダサいから、現代美術のオブジェみたいなのを自分でデザイン、名前はSegoe Pringのようなお洒落な英文字筆記体で綴り、一般人にはちょっと読めないようなラテン語の格言やフランスの有名な詩句を刻む。

こだわりのあなたには、死後のメッセージサービス。

あの時言えなかった「ごめんなさい」や「いつも感謝しています」の気持ちをメッセージカードに託し、四十九日が経ってから、親しかったあの人にお届けします。。。

みんな、いつまでも、私のことを忘れないで。

死んだ後も、私らしく、美しく、この世に精一杯生きた証を残したい。

・「あの人は死んだ後も輝いてるね」って言われたいから、ホワイトエンジェルに葬儀プロデュースをお願いしました:足立区A子さん(85歳)

・「ばあばは神様のところに行ったんだね、って、孫も大喜び。親族全員、満足しています : 世田谷区B子さん(79歳)

という時代が本当にやって来そう。

そんなバブルの同志に捧げる言葉は、ただ一言。

国破れて、山河あり。

人生の残り時間も限られているのに、いまだに「私が、私が」と言うとる。

周りに誇示できるものが「世代一の購買力」とか「いつまでも衰えない美しい容姿」だけというのも、ちと情けなくないか。

今の若いお嬢さん達は、(多分)、バブル女に、女性の賢い生き方や幸福を学ぼうとはしない。

いや、むしろ、内心「ああはなりたくない」と冷ややかに見られているような気さえする。

だとしたら、私たちが追い求めた「成功」とか「美貌」とか「幸福」は何だったのでしょう。

それでもやっぱり「死ぬまで可愛い女」と認めてもらえれば、私の人生は正しかったと満足して逝けるものなのでしょうか。

§ 朝の紅顔、夕べの美白

朝の紅顔、夕べの白骨という言葉があります。

さて、人間の内容の無い生活の様子をよく考えて見ますと、およそ儚いものは、人間の生まれてから死ぬまでの間のことで、それは幻のような生涯です。
それゆえに、いまだ一万年の寿命を授かった人がいたなんてことを聞いた事がありません。人の生涯は過ぎ去りやすいものです。今までに誰が百年の肉体を保ったでしょうか。〔人の死とは、〕私が先なのか、人が先なのか、今日かもしれないし、明日かもしれない、人より後であろうが先であろうが、草木の根元に雫が滴るよりも、葉先の露が散るよりも多いといえます。
それゆえに、朝には血色の良い顔をしていても、夕には白骨となる身であります。もはや無常の風が吹いてしまえば、即座に眼を閉じ、一つの息が永く絶えてしまえば、血色の良い顔がむなしく変わってしまい、桃やすもものような美しい姿を失ってしまえば、一切の親族・親戚が集まって嘆き悲しんでも、どうする事もできない。
そのままにはしておけないので、野辺に送り荼毘に付し、夜更けの煙と成り果ててしまえば、ただ白骨だけが残るだけです。哀れと言っただけでは言い切れない。人生の終わりは、年齢に関わりなくやってくる。だからどのような人も「後生の一大事」を深刻に受け止め、阿弥陀仏から他力の信心を頂いて、念仏申すべきであります。

でも、バブル女には「朝の紅顔、夕べの美白」「死に化粧に、シャネル」で、死んだ後もプロのカメラマンによる誇らしげな遺影が燦然と輝き続けます。

死んだ後も、孫、またその子に、「おばあちゃまは綺麗な人だったんだね」と語り継がれたいから。

私たちの階級闘争に「終わり」はないのです。

↑ こんな世代が母親やってるんだもの。子供の世界もドロドロになります。。

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