書籍と絵画

文学か、自己啓発か ~寺山修司 編著『人生処方詩集』

2011年7月4日

20代の頃、サラリーマンが読む週刊誌に書かれたコラムに大笑いしたことがある。

書評で有名な方の話だが、

「よく『人の悪口を言ってはいけない』というじゃない。でも、オレ、腹が立ったら、悪口言いまくるよ。ただでさえ、そいつのせいでイヤな思いをさせられてるのに、なんで悪口まで我慢しなきゃならねんだ。悪口言って、スッキリすりゃいいんだよ。」

確かに、悪口は、聞く方もうんざりするし、言う側も罪悪感。悪口で心底楽しい思いができる人の方が少数だろう。

でも、一方で、「悪口を言うのはいけないことだから」と、愚痴も言わず、怒りもせず、つねに心を明るく前向きに持つ、というのも、どこかウソっぽい。

世の中にはそういう高潔な人物もあるのだろうけど、果たして、怒りもせず、憎みもしないのが一番上等か、と問われたら、これまた首をかしげてしまう。

なぜなら、怒りも憎しみも、人間の一つの感情にちがいなく、心が感じることに「悪い」も「汚い」もないような気がするからだ。

落ち込んだり羨んだりすることを「ネガティブな感情」といい、幸せを阻害する悪玉菌として私たちは否定するけれど、だとしたら、怒りや妬みはどこに棲み家を見つければいいのか。私たちが、私たち自身の感情にジャッジをくだし、ネガティブと判断したものは臭い物に蓋でもするように排除しだしたら、かえって心が壊れてしまわないだろうか。

「自己啓発」と呼ばれる本がある。

いつも優しく、前向きに、というあの教え。

私も、人が幸せを掴むにはそうした心の力が不可欠だと考えるし、このブログにもそういうこといっぱい書いているけども、一方で思うの。

怒りや妬みや悲しみや憎しみは、そんなにも否定されなければならない感情なのだろうか、と。

もし、人間の構成成分が100%善から出来ているなら、私たちはもはやこの世に生きる必要もないし、誰かを愛する喜びもなくなる。

どこかダメなところがあるから一生懸命に生きようとするし、誰かを愛し理解しようとするのではないか。

ネガティブパワーを排除して、幸せになることだけが人生の目的ではあるまいし、「前向きに考えられない人」にもその人にしか生きられない人生の価値があると思うんだな。

それを味方してくれるのが文学だ。

文学に描かれる、人間のどうしようもない弱さや愚かさこそが、本当の意味で心のクスリになる。

病める人にも悩める人にも、文学は決して「前向きに!」などと鞭打ったりしない。

悪人も、弱虫も、頭から否定されることなく、立ち位置を与えられる。

文学は自己啓発より慈悲深い。

魂の幸福を司る本当に神の書は『文学』なのだ──と思う。

そんなことを考えていたら、30代の時にノートに写した寺山修司の言葉が見つかった。

エーリッヒ・ケストナーに『抒情的人生処方詩集』というのがある。本のカヴァーには、「あなたの心の痛みをいやす最新療法をごぞんじですか」という魅力的な惹句が書いてある。…(中略)…

『往ってしまいたい さりとて隠れる場所もない
自分を葬る以外に途はない
どっちを見ても 黒い斑点が浮かんでくる
ひとは死にたくなる さもなくば休暇がほしくなる

もうじきこの憂鬱が消えることはわかっている
来るたびにいつも消えた
下りたと思うと こんどは上るのだ
霊魂がまた扱いやすくなる

一人はうなずいて言う「それが人生だ」と
もう一人は頭を揺すぶって泣く
世界は円い それにくらべるとおれたちはスラリとしている

そんなことが慰めになるのか?
そんな意味ではないのだ』

こんな詩を読んで慰むことができるような悩みなど、本当は病気というほどのものではあるまい。大体、生きることに自信を失いかけている者に「世界は円い。それにくらべるとおれたちはスラリとしている」という薬剤の処方をするドクトル・ケストナーはひどい食わせ物なのではないだろうか? …(中略)…

なぜなら家具つき貸間住まいのやるせない寂しさに苦しむ者や、つめたい、湿っぽい、灰白色の秋の夜に悩む者は何を飲んだらいいのか?居ても立ってもいられない嫉妬におそわれた者は、どんな処方に拠ったらいいのか?世の中が厭になった者は何でうがいをすればいいのか?結婚生活に破綻を生じた者にとって、なまぬるい罨法が何の役に立つのか?電気布団でどうしろというのか?

淋しさとか、失望とか、そういう心の悩みをやわらげるには、ほかの薬剤が必要である。そのうちのニ、三を挙げるなら、ユーモア、憤怒、無関心、皮肉、瞑想、それから誇張だ。これらは解熱剤である。それにしても、どんな医者がそれを処方してくれるのだろう?どんな薬剤師がそれを瓶に入れてくれるのか? …(中略)…

「詩を作るより、田を作れ」という思想は、根本的には政治主義に根ざしたものである。それは「役に立つ」ということを第一義に考えた処世訓であって、「詩なんかなくても生きることはできるが、田がなければ生きることはできない。だから、どうせやるなら自他ともに役立つところの、田を作る方に打ち込むべきだ」といったほどの意味である。

勿論、ここでいわれる「田を作る」ということは比ゆであって、「目に見えた効果、社会的に有効な仕事」といったことを指しているのであろう。

詩はアリストテレスの時代から、なければなくて済む、役に立たないものとしての道を歩んできた。それはあくまでも個人的な世界であって、夢の軌跡なのであった。「人々を動かすことは(と、ゲルツェンが『過去と思索』の中で書いている)その人たちの夢を、その人たちが自分で見得る以上に、はっきりと夢見させることによってのみできるのであって、幾何の定理を証明するように、彼らの考えを証明してみせることによって出来るのではない」

だが何時の時代でも必要とされてきたのは「証明してみせる」歴史化の実行力にすぎなかった。まがりなりにも「役立つ詩」「食える詩」を書いて社会に奉仕しようとしてきた詩人たちは軽蔑され、「役立たない詩」「食えない詩」を守りつづけてきた詩人たちは、無用の人としての扱いを受けた。

ケストナーの「世の中が厭になった者は何でうがいをしたらいいのか?」という問いかけは、どんな歴史家の実行力も、心の問題にまで力をおよぼすことができないとき、詩人の「その人たちの夢を、より深く見る心」が「役に立つ」のではないか、という反問を含んでいるように思えるのである。

今、「家なし、職なし、家族なし」の憂いを抱えている人も多いだろう。

圧倒的な不幸にもかかわらず、「がんばれ、がんばれ、だって、他の人も歯を食いしばって頑張っているんだし」と自ら鞭打っている人も少なくないかもしれない。

でも、今、本当に必要なのは、思い存分、怒りや悲しみや歯がゆさを表現できる場所だ。

人はみんな怒っていいし、もっと泣いていい。

心の中に苦い思いをぐっと押し殺して頑張るのも尊いけれど、それと同じくらい、自分で自分の感情を大事にする(自覚して、受け入れる)のも大事なこと。

高く生きることが、人間らしく生きることではないから。

今、寺山修司が生きてたら、「がんばれ」などとは言わず、百文字ぐらいの詩を一編、書いて寄せてくれるだろう。

そして、彼の言葉は、「立派な人を作る」のではなく、この世に自分の立ち位置を……自分が一人の心弱き人間であることについて、安心させてくれるにちがいない。

そういう詩が、もっと世の中に出て欲しい。

同情でも励ましでもない、心の隣に並ぶような言葉──。

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ぼくの人生処方詩集―ケストナーおじさんのかわりに あなたのための人生処方詩集。一人でいるのが耐えられなかったら。理想を見失ってしまったら。故郷を思い出したかったら。詩がきらいでスポーツが好きだったら。ことごとく腹が立ったら。死について考えたら。人生がさびしすぎたら。小説に飽きてしまったら。私自身の詩的自叙伝

あの頃、図書館から借りてきた本。すっかり忘れてたけど、ノートにはメモってた。

今度、本を買う時に取り寄せよう。

孤独にたえられなくなったら、なまけたくなったら、ふところがさびしかったら、結婚が破綻したら、など、人生上かかりやすい病いの処方箋を『エミールと探偵たち』『飛ぶ教室』で知られるエーリッヒ・ケストナーが詩の形式にして綴る。

こちらがケストナーの処方詩集。

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