我に触れるな Noli Me Tangere マグダラのマリア

キリスト教徒にとっても、そうでない人にとっても、非常に魅力的な存在が「マグダラのマリア」。

彼女は、長い間、身をもちくずした「娼婦」として知られてきましたが、最近の調査では、「身分の高い女性」との認識に変わりつつあり、その存在がますますクローズアップされています。

『聖母マリア』はあまりに徳が高く、仰ぎ見るような感じだけども、マグダラのマリアはより近く、親しみのもてる女性として、キリスト教徒はもちろん、世界中の読者やアーティストに愛されてきました。

今後、いっそう、彼女に対する理解が深まり、「娼婦」の汚名がすっかりぬぐい去られることを願うばかりでうs。

ちなみに、マグダラのマリアは、改悛した女性の守護聖人として今もたくさんの女性の祈りに耳を傾けています。

ルカの福音書 第七章 より

あるパリサイ人が、イエスと一緒に食事をしたいと願い、イエスを家に招きます。
その町には、一人の罪深い女がありました。(おそらく娼婦であろうといわれています)

イエスがその人の家に入り、食卓に着いているのを知ると、彼女は香油の入った石壷を持ってきて、後ろからイエスの足元に近寄り、泣きながらその足を涙でぬらしました。そして、自分の髪でイエスの足を拭い、接吻して、香油を塗りました。
イエスを招待したパリサイ人は、この様を見ながら、「この人が本当に預言者なら、自分に触れている女が誰で、どんな人間だか解るはずだ。あれは罪深い女なのに」と、心ひそかに思います。

するとイエスはその人に向かって言いました。
「この人を見なさい。私がお前の家に入ってきても、お前は足を洗う水もくれなかったが、この人は涙で私の足をぬらし、髪の毛で拭ってくれた。
お前は私に接吻の挨拶もなかったが、この人は私が入ってきてから、ずっと私の足に接吻し続けた――
この人が多くの罪を許されたことは、私に示した愛の大きさで解る。許されることの少ない者は、愛することも少ない」
イエスは、彼女に言いました。
「私はあなたの罪を許した。あなたの信仰があなたを救ったのだ。安心して行きなさい」

【マグダラのマリア】- Mary Magdalene -  ティツィアーノ  Tiziano Vecelio
【マグダラのマリア】- Mary Magdalene – ティツィアーノ Tiziano Vecelio

カトリック教会では、一時期、このルカの福音書に登場する「罪深い女」が「マグダラのマリア」であるされてきました。
しかし、現代では、この「罪深い女」は、マグダラのマリアとは別人であり、マリア自身は高貴な生まれの女性であるという見方が有力になっています。
「マグダラ」はガラリヤ湖西岸の地方名で、そこの出身であることから、この名で呼ばれています。
彼女は、熱心なキリストの信者となり、キリストの死後、フランス南部のマルセイユで伝道に努めたそうです。
「マグダラのマリア」は、マルセイユと、罪を悔いる女性の守護聖人です。

西洋美術においては、「マグダラのマリア」は、しばしば髑髏(どくろ)と描かれます。
「髑髏」が意味するところは「改悛」であり、定番となっているモチーフです。

ヨハネの福音書 第二十章 より

イエスは十字架から降ろされた後、墓に葬られます。
しかし、三日後の朝、マグダラのマリアや、十二使徒のシモン・ペトロスらが墓に行くと、墓の石はどけられ、その中にイエスの亡骸はありませんでした。
マグダラのマリアは墓の外に立って泣いていました。
すると後ろから彼女に呼びかける声がします。
「あなたは、なぜ泣いているのだ?」
「私の主がどこかに取り去られたからです。どこに置かれているのか、私にはわかりません」
その声の主がイエスだとわかると、マリアはとっさにすがりつこうとしました。
するとイエスは言いました。
「私にすがりつくのはよしなさい。《Noli Me Tangere》 私はまだ父(神を指す)のもとに上っていないからだ。私の弟子たちの所に行って、こう伝えなさい。“私の父であり、お前たちの父である方、また私の神であり、お前たちの神である方の所に私は上る”と」
マグダラのマリアは、弟子たちの所に行くと、「私は主を見ました」と告げ、イエスから言われた事を伝えたのでした。

*

こちらもイタリアの巨匠ティツィアーノの名作です。

まるで恋人達の別れを思わせるドラマティックな場面です。

マリアの気持ちを汲みながらも静かに距離を置こうとするイエスの眼差しが優しくあたたかいですね。

二人が恋人同士だったかどうかは神様に聞いてみないと解りませんが、私はそうだったら良いなあと思っています。

Noli Me Tangere 【我に触れるな】
Noli Me Tangere 【我に触れるな】

私は現代美術は苦手なんですが、この絵は何とも味わいがあるので好きです。

Noli Me Tangere 【我に触れるな】
Noli Me Tangere 【我に触れるな】

現代の『神』

「神」というのは超越者でも畏敬の的でもない、人が生きる為に必要な「心の指針」だと私は思っています。
人間は惑いやすく、間違いを犯しやすい生き物だから、道に迷わないよう導いてくれる確かな存在が必要なのです。

人間というのは、キリスト教的に解釈すると、“神”の心〈思想〉から離れ、得手勝手に生きている、罪深き存在(=原罪)なんですね。

「神」というと身構えてしまうかもしれませんが、それは親や教師や友人であるかもしれないし、あるいは本や絵画、音楽といった作品であるかもしれません。
迷う心を支え、正しく導いてくれるものなら、それは何だって「神様」と言えるのではないでしょうか。

「神」は至る所に在りますが、それを見出すのは難しく、神から離れずにいるのはもっと難しいかもしれません。

映画『ダヴィンチ・コード』とマグダラのマリアについて

私がこのテキストを最初に書いたのは1998年のことなのですが、最近、『ダ・ヴィンチ・コード』(映画も小説も)を見た時には、心底「ヤラレタ!」と思いました。
「イエス・キリストとマグダラのマリアが特別な関係にあった」という推測は、誰もがほのかに思い描くことであり、「そうだったらいいなぁ」というロマンがあるからこそ、上に挙げたような名画やエピソードが心に響くからです。

が、それを『言い切る』となると、心の聖域を土足で踏み荒らされたような気分になってしまう――。
カトリックの教えを盲目的に信じているからではなく、「もしかしたら」という夢の中に、私のイエス・キリストがいるからです。

教徒ではない私にとって、イエス・キリストはあくまで人間であり、美しい思想を語ってくれた偉大な哲人でもあります。
だから、人間として、あるいは男性として、一人の女性に特別な想いを懸けたとしても、ちっとも不思議ではない。
いや、むしろ、そうした人間的な温かさがあるからこそ、かえって聖書の言葉が心に染み入ります。
神がかり的な超人としてよりは、生きた人間の言葉として聞きたいから、マグダラのマリアとのロマンスも、ほのかに思い描いていたいのです。

ところが、『ダヴィンチ・コード』がやってくれました!!!

「イエス・キリストとマグダラのマリアは夫婦だった」。
これを絶対的真実として、ぐいぐい話を進めてしまうんだもの。
しかも「イエスの末裔が現代にも生きている」とか、なんとか……。

そうなると、ロマンスどころか、なんとも生々しい話になってくるので、私としてはガクーっと項垂れずにいないわけです。
なんか、夢を壊されたような……。

サスペンスとしては面白かったですが、心情的には、もう一度「ダヴィンチ以前」に戻りたいですね(泣)

こちらは象徴学のラングドン教授と行動を共にするソフィーが、聖杯研究の第一人者、アーヴィング公から「聖杯の秘密」について聞かされる場面。

ダヴィンチの壁画『最後の晩餐』に秘められたメッセージとは、「キリストとマグダラのマリアの結婚」であり、二人のポジションがマグダラのマリアを意味する『M』を描いているのが特徴。


こちらが衝撃のラストシーン。

洗面台に流れる血液=ブラッド・ラインからパリの要所を貫く旧子午線『ローズ・ライン』を連想し、ついにマグダラのマリアの墓所を突き止めるラングドン教授。

「テンプル騎士団」の本当の目的は、世界の真の女王であるマグダラのマリアの墓にひざまずくことだった――という原作の『核』をラングドンが体現する非常に重要なシーンなのですが、「トム・ハンクスは騎士のイメージじゃない!」という声もあり、映画としての評価はどうなのか気になるところです。


*

何者かに狙撃されたルーヴル美術館のソニエール館長が異様な姿で発見される。
死体はグランド・ギャラリーに、ダ・ヴィンチの最も有名な素描〈ウィトルウィウス的人体図〉を模した形で横たわっていた。
殺害当夜、館長と会う約束をしていたハーヴァード大学教授ラングドンは、警察より捜査協力を求められる。
現場に駆けつけた館長の孫娘で暗号解読官であるソフィーは、一目で祖父が自分にしか分からない暗号を残していることに気付く……。
全世界でベストセラーとなった原作小説。
「聖書は天国からファックスで送られてきたのではない」という台詞に象徴されるように、今に伝わるキリスト教そのものが「人の手による」という点を強調している部分がこの作品のテーマ。
ある程度、キリスト教や西洋美術に関する知識がないと、心底から楽しむのはちょっと難しいかもしれないが、「そういう考え方もあるかも」と柔軟に構えて読めば楽しいエンターテイメントである。
暇つぶしに一気に読める秀作。
ロン・ハワードの映画よりはるかに謎解きの部分が面白いし、後述の「天使と悪魔」よりリアリティがある。

「トム・ハンクスはラングドンのイメージではない」「オードリーはとてもイエス・キリストの末裔には見えない」
等々、クレームも聞かれた映画版だが、まずまずの出来。
エンターテイメントとしてはこんなものでしょう。ストーリーも「天使と悪魔」よりは設定が自然。
本編より美術やキリスト教文化をテーマにした特典映像の方が面白いかも。
見ておいて損はないと思う。

ダヴィンチ・コードでキリスト教に興味を持った方には、以下の書籍がお薦め。
謎解き本もいろいろ出ているようですが、知識としてキリスト教に親しみたい方には、歴史的真実からトンデモな噂(つまりはイエスとマグダラのマリアが結婚していたという)まで網羅したこの本が初心者には馴染みやすいのでは。

原文はどうか分からないが、翻訳が上手いと思う。
ブラウン節、とでも言うのだろうか、所々、マンガちっくな描写や下半身ジョークがあり、適度に緩急が取り入れられているところがポイント。
話自体は、ラングドンが布のパラシュートで爆破したヘリコプターから決死のダイビングを試みたり、法王に●●がいたり、と、「ぶっ飛び過ぎ」な印象は否めないけども、科学と宗教に関するブラウン氏の見解には一読の価値があり、あっという間に上巻を読み終えてしまう感じ。
こちらも気軽なエンターテイメントとして楽しんで。

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ハリウッドらしい、筋肉系のエンターテイメントに仕上がっている。
勢いだけで見せられて、「あれあれ、もう終わったの」という感じ。
それでもトム・ハンクスは魅力的だし、ハンス・ジマーの音楽も素晴らしい。
まあ、話題作りにどうぞ。見て損はないです。

キリスト教に興味をもったら

キリスト教に興味はあるけど、分厚い聖書を読むのはちょっと……という方におすすめの聖書・キリスト教読本。
世の文学や絵画に影響を与えた感動的なシーンをすべて網羅し、名場面形式で旧約聖書、イエス・キリストの生涯などを紹介するダイジェスト版です。
カラーの図解で見ても、読んでも楽しい本です。

イエスとは何者だったのか?
2000年の昔、全人類の罪を背負い、ひとりエルサレムで十字架上に死に、そして復活した人間イエスの原像と聖書成立の謎を徹底解読。
また神の国=教会を舞台に展開した、キリスト教信仰のすべてを網羅し、世界最大の宗教の全体像に迫る。
本屋によっては、精神世界系のコーナーにあるので、なかなか手を伸ばしにくいが、写真やイラストも多数掲載されており、キリスト教を知識として身に付けるにはおすすめ。
信仰ではなく、歴史あるいは文化の一つとしてキリスト教を解説している。

【Amazon レビューより】
ナザレトのイエースースの生涯と原始キリスト教時代の歴史、そしてローマ帝国による迫害と国教化、異端論争など、おもに古代キリスト教史を若い世代の人々向けに平易に書き記した入門書です。 
トリーノの聖骸布やウェロニカの聖布、ロンギーノスの聖槍、ヘレナが「発見した」という聖十字架、そして聖杯伝説、等々の聖遺物のトピックが載っているので、なかなか面白く読むことが出来ますよ。
また、奇跡物語の解釈や死海文書の提示するイエースース像など結構きちんとした記述が書かれて居て興味深い本でもあります。
ただしかし、外典や教父文書の解説が手短か過ぎて物足りないような気がしたことは否めませんが...。

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