側溝男と江戸川乱歩の『人間椅子』

道端の側溝に何時間も潜み、女性の下着を覗き見ようとした側溝男のニュースを聞いて、江戸川乱歩の『人間椅子』を想起したのは私だけではありますまい。

恐らく、本物のフェチズムに精通している方から見れば、側溝男と人間椅子もまた微妙に違うんだよ、という意見になるかもしれませんが、そのあたりの細かな指摘はご容赦ください ^_^;

角川さん、表紙を変えたのね。コッチの方が良かったのに・・↓

人間椅子

人間椅子

江戸川乱歩の『人間椅子』

椅子職人が自作の椅子の中に忍び込み、その椅子に腰掛ける人間の温もりをじんわり味わう、江戸川乱歩の傑作です。

フェチズムを描いた作品では際だっており、「人間椅子」というネーミングからしてが卓越しておりますが、何が素晴らしいって、男がとことん椅子になりきり、妄想とも同化ともつかぬ感覚の世界で快楽に耽る描写ですよね。

私という男は、なんと因果な生まれつきなのでありましょう。そんな醜い容貌を持ちながら、胸の中では、人知れず、世にも烈しい(はげしい)情熱を、燃やしていたのでございます。私は、お化けのような顔をした、その上極貧乏な、一職人に過ぎない私の現実を忘れて、身の程知らぬ、甘美な、贅沢な、様々の「夢」にあこがれていたのでございます。

「はげしい」を「烈しい」と表現するあたりが、「文字で感じる官能」ですよね。

この語感の「いやらしさ」が一昔前の同人やおい小説の醍醐味だったのですが、今はどうでしょうか。
同類に、渡辺淳一の「おさない」→「稚い」があります。

今でもこういう男性は少なくないでしょうね。

というか、江戸川先生の時代から、本質的には変わってないのだと思いますよ。
今みたいにネットを通じて、誰でもそうした世界を垣間見る機会が無かっただけで。

さて、出来上がった椅子を見ますと、私は嘗て覚えのない満足を感じました。それは、我ながら、見とれる程の、見事な出来ばえであったのです。私は例によって、四脚一組になっているその椅子の一つを、日当たりのよい板の間へ持ち出して、ゆったりと腰を下ろしました。

何という坐り心地のよさでしょう。フックラと、硬すぎず軟らかすぎぬクッションのねばり具合、わざと染色を嫌って灰色の生地のまま張りつけた、なめし革の肌触り、適度の傾斜を保って、その背中を支えて呉れる、豊満な凭れ、デリケートな曲線を描いて、オンモリとふくれ上がった、両側の肘掛け、それらのすべてが、不思議な調和を保って、渾然として「安楽(コンフォート)」という言葉を、そのまま形に現わしている様に見えます。

この箇所で一番好きなのが「ねばり具合」という表現。これ、なかなか出そうで出ないですよ。多分、多くの人は、「硬すぎず、柔らかすぎず」で止まると思うんですよ。

でも、ここに「ねばり具合」という一言を足すことで、何とも気味の悪い男の性状まで伝わって、人間椅子の世界に引き込まれていくんですね。

私はシャツ一枚になると、底に仕掛けた出入り口の蓋を開けて、椅子の中へ、すっぽりともぐりこみました。それは、実にへんてこな気持ちでございました。真っ暗な、息苦しい、まるで墓場の中へ這入ったような、不思議な感じが致します。
考えてみれば、墓場に相違ありません。私は、椅子の中へ這入ると同時に、丁度、隠れ蓑でも着た様に、この人間世界から、消滅して了う訳ですから。

「人間世界から消滅してしまう」というのは「現実逃避」ではなく、椅子そのものに同化してしまう、という事でしょうね。
そこには人間としての感覚も思考もなく、ただ「物」という存在があるのみ。
だから犯罪ができるのではなく、「物」としての新たな感覚が備わり、人間では味わえない快楽や発見があるのだろうと思います。

真っ暗で、身動きも出来ない革張りの天地。それがまあどれ程、怪しくも魅力ある世界でございましょう。そこでは、人間というものが、日頃目で見ている、あの人間とは、全然別な不思議な生き物として感ぜられます。彼らは声と、鼻息と、跫音と、衣ずれの音と、そして、幾つかの丸々とした弾力に富む肉塊に過ぎないのでございます。

私は、彼らの一人一人を、その容貌の代わりに、肌触りによって識別することが出来ます。

<中略>

私はそこで、一人の女性の肉体に、(それは私の椅子に超しかけた最初の女性でありました) 烈しい愛着を覚えたのでございます。

<中略>

これは実に、私に取っては、まるで予期しなかった驚天動地の大事件でございました。
女は神聖なもの、いやむしろ怖いものとして、顔を見ることさえ遠慮していた私でございます。

その私が、今、見も知らぬ異国の乙女と、同じ部屋に、同じ椅子に、それどころではありません。薄いなめし革一重を隔てて肌のぬくみを感じるほども、密接しているのでございます。

それにもかかわらず、彼女は何の不安もなく、全身の重みを私の上に委ねて、見る人のない気安さに、勝手気侭な姿体を致して居ります。私は椅子の中で、彼女を抱きしめる真似をすることも出来ます。皮のうしろから、その豊かな首筋に接吻することも出来ます。その外、どんなことをしようと、自由自在なのでございます。

<中略>

それが一度、住む世界を換えて、こうして椅子の中で、窮屈な辛抱をしていさえすれば、明るい世界では、口を利くことは勿論、側へよることさえ許されなかった、美しい人に接近して、その声を聞き肌に触れることも出来るのでございます。

見方によっては、姿形を隠して、透明人間みたいに女性にタッチしたいだけじゃないか……と思われるかもしれませんが、一つ、透明人間と決定的に違うのは、本人が「椅子」になりきって、「椅子」として性感を得ているという点ですよね。

もちろん、男性ではあるのだけども、男性じゃなくて、椅子。

椅子として女性を愛でる。

それはきっと男として女性に触れるより、もっと違った悦びがあると思うんですよ。

相手の女性が、それを男ではなく椅子と認識しているだけに、尚更に。

たとえば、自転車サドル・フェチというのがありますね。

とにかく自転車にまたがった女の人のお尻や後ろ姿が好き、というタイプです。

自転車サドル・フェチは、女性の全裸や局部には興味は示さない。

とにかく、女の人が自転車にまたがった時の、あのムチっとしたお尻や下着のラインに興奮するわけです。

その人たちは、多分、人間椅子みたいに、自分も自転車のサドルになったような妄想をめぐらせ、自転車のサドルとして、女性の尻の柔らかさや温もり、匂いなどを感じ取れる人間なのだと思います。

それこそ、女性と直接的に性交渉を持つよりは、自転車のサドルになった方がいい。

女性に劣等感があるわけでもなければ、怖いわけでもなく、同化の夢の中の方がより興奮を味わえるのです。

私は、せめて夫人に、私の椅子を、この上にも居心地よく感じさせ、それに愛着を起こさせようと努めました。芸術家である彼女は、きっと常人以上の、微妙な感覚を備えているに相違ありません。若しも、彼女が、私の椅子に生命を感じてくれたなら、ただの物質としてではなく、一つの生き物として愛着を覚えてくれたなら、それだけでも私は十分満足なのでございます。

こういうと、気弱な男が女性と面と向かって付き合うこともできない……と思われるかもしれませんが、人間椅子の愛は、男のそれとはちょっと違いますよね。

男は「椅子」として愛して欲しい。

もし、相手の女性が男の正体を知り、男自身を愛したとしても、それは人間椅子の望みではない。
「椅子」だから、それに腰掛けた女性に愛着を抱き、性的な悦びも感じる。

椅子として結ばれたいのです。
 
なぜ「男」では駄目なのか。

理由は劣等感でも恐れでもない。

「椅子」として女性を感じたいからです。

椅子に無防備に腰掛ける女性は、男の想像の中では完璧な存在であり、それこそが愛でるべき対象だから。

現実の女性では駄目だし、また、現実の男としては、そこまでの快楽は味わえない・・といったところでしょうか。

そして、現実には終わりがあるけれど、空想には終わりがない。

愛が消滅しないというのも、そこに嵌まってしまう理由の一つかもしれません。

*

さて、小説の人間椅子は意外な顛末を迎えます。

正直申しまして、このオチは私好みではないです。

どうして江戸川先生は禁断の○○オチにしちゃったのか、読後、がっかりした作品の一つです。表現も設定も素晴らしいのですけど。

どうせなら、黒蜥蜴みたいに、とことん現実世界にもつれこんで欲しかったですね。

側溝男と文学

産経の記事によりますと、側溝男は「生まれ変わったら道になりたい」と仰ってるそう。

本人にしか分からない悦楽があるのでしょうね。人間椅子みたいに。

http://www.sankei.com/west/news/151207/wst1512070012-n1.html

実は男の側溝侵入癖は十数年前から続いており、近所では有名だった。肉親の一人は「幼いころから、家の軒下や排水溝のような狭い場所で遊ぶのが好きだった」と明かした。

 側溝に入るようになったのは中学生のころ。最初は、側溝から突然顔を出して近所の人を驚かせる「いたずら」のつもりだった。それが思春期を迎え、たまたま側溝から女性の下着を見たことで、「側溝と性的嗜好が結びついてしまった」(肉親)という。

 男は「側溝に入ることで迷惑がかかることは分かっている。入らないでいいのなら苦労はしない」と身内に〝苦悩〟を明かすこともあった。

 「側溝には多い時で年間80回ぐらい入った」

 「側溝は落ち着く場所」

こういうのは道義的には許されないかもしれませんが、文学的には有りだと思います。

江戸川先生がご存命なら、きっと理解して下さることでしょう。

側溝男は江戸川乱歩の「人間椅子」を読んだことがあるのかな。

ちなみにロケットニュースの『【独占インタビュー】側溝に入ってスカートを覗いた「生まれ変わったら道になりたい」男についてパンツ愛好家に意見を聞いてみた』に「報道によると、スマホで撮影していたのだとか。正直、ガッカリしました」という一文があり、私も同じ感想を持ちました。

パンツ愛好家さんの言によると、「撮影なんて野暮(やぼ)なことしないで、自分の脳内のハードディスクに保存しなくてはならないのです」ということですが、私は、どうせなら側溝になりきって、現実にパンツが見えたとしても、妄想の中でのみ、それを感じて欲しかったのね。人間椅子みたいに。

側溝男に限っていえば、こういう性向は理屈で直せるものではないし、まあ、他人を傷つけ、社会の迷惑にならないように、心の中で愉しむのは有りではないかと思うのですよ。

そこまで否定してしまったら、生きて行けないですからね。

どうせなら、「側溝男」という小説でもお書きになればいいのですよ。

この世で異形とか変態とか呼ばれる人の為に文学は門戸を開いています。

その類い希な想像力を文学の世界に活かして、ぜひ「側溝になりきれる男の心情」を書き綴って下さいな。

側溝のじめじめした暗さ、息苦しさ、その究極で味わう悦楽、妄想、等々。

きっと側溝男には、常人には見えない世界が見え、限りない感覚の悦びがあると思うよ。

ただ、側溝男本人が小説を書くなら、側溝と同化する自分自身を客観的に分析できる視点が必要だし、そんな視点があるぐらいなら、側溝には這入らずに済むんだろうけどね。

私も側溝男で小説書きたいわ。

オチは、側溝と同化する余り、誰もその存在に気付かず、道路修理に来た工事人にコンクリートを注がれ、念願叶って、完全に側溝と化し、人知れず、永遠にこの快楽に耽る・・という感じです (´。`)

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