「毎日かあさん」の優しさ

皆さま、いかがお過ごしですか。

こちらは例年にない暖冬で、2月というのに雪ではなく雨が降っています。

私は寒いのが苦手なので、このまま一気に春になって欲しいんですけどね。

しかし、子供の間では消化管性の風邪が大流行で、うちも上下ともに嘔吐と下痢を繰り返し、上の子はまたも入院か? というぐらい症状がきつかったのですが、何とか乗りきりました。

しかし、3歳半にもなると、言葉でちゃんと症状を教えてくれるからいいですよね。

気が付いたら吐いている下の子と違い、上の子は「ママ、ゲー」と言いながら、自分で洗面所に走っていくので、「ああ、進歩したなあ」という感じです。

分かりきったことですけど、子供って、1から10までこちらが手取り足取り教えなくても、時期がくれば、だんだん出来るようになるんですよね。

「あれも出来ない、これも出来ない」って、心配する必要ないの。

育児って、結局、日々の生活の積み重ね――車の整備工場みたいに、あれ見て、これして、って、指示書通りに進めていくものじゃないとつくづく感じます。

今でも毎日のやんちゃぶりにはイライラさせられますが、私は、子供が本来持っている『天然力』が大好きですね。

よく「子供は自分の食い扶持は、自分で持って生まれてくる」と言いますけど、「その子が生きるために必要な力は、みんな持って生まれてくる」と言い換えてもおかしくないと思います。

親は、それが自然に花開くのを待つだけ――そんな感じかな。

まあ、今でも日々のやんちゃぶりにはカリカリさせられますけど、ちょっとずつ良くなってきているところです。


最近、ネットの『イーブックオフ』で本を買う機会があったので、育児書の面白いものがないかなと思い、いろいろ調べていたら、こんなカスタマーレビューに出会いました。


この、とても分かりやすい、いろいろ役に立つ本を読んで、なんとなく感じる「違和感」はなぜなんだろうか?
違和感を、もっとはっきりと「うしろめたさ」と言ってもいいかもしれない。

私たち人間は、こんなにも分かりやすい存在なのだろうか?

勿論著者はそんなことは言っていない、それどころか自分の失敗も沢山あって迷いながら教師をしてきたこともしっかり書いてある。

しかし全体の印象は「こうすれば人間は、こうなればいいな!という風に育つ」というメッセージを発信しているように見える。

しかし私は自分の子供には自分の想像を超える、理解しがたい人間という部分を感じており、そこを大切にしたいと思いつつ、しかし日々失敗と反省の子育てをしている気がする。

いや、勿論「役に立つ」本ではあるんですよ。
すぐに使ってみたくなるハウツーも沢山あるし。

・・・でも私にはなにか残るんですね、それがなになのかは分からないが。

このレビューは、私も感じる「モヤモヤ感」を見事に言い当てているように思いました。

世にあふれるたくさんの育児書、育児指南の記事、etc。

そのどれもが頭では理解できるのだけれど、なんかこう、あまりに綺麗すぎて、結局のところ、母親の味方にはなってくれないような「無力感」を、私も感じることが多々あるからです。

どんなにいい内容でも、読んでいると、ふと感じてしまう。

「ああ、この人、密室育児なんか経験したことないんだろうな」

育児書を出版してるのってたいがい男性だし、男性には、出産・育児の為にキャリアを棒に振ったり、家の中に閉じこめられて一歩も外に出られない、他の大人とまともに会話する機会さえない母親の焦りや苛立ちなんて、所詮、分からないですからね。

一種、異様な精神状態の中で、必死に「理想の母」たらんとする、世の多くの母親の、この鉛がつかえたような苦しさの前に、やはりどこか傍観者でしかない男性(父親)の視点というのは、私にとって「川向こうのリクツ」でしかないことがままあるのです。

ここで言う「傍観者」とは、無関心・無責任という意味ではなく、母親が、妊娠が分かった時点から、子供に対して負っている計り知れない「思い」の前には、比ぶべくもない……という意味です。

もちろん、男性(父親)が子を思う気持ちに変わりはないでしょうけど、やはり置かれた状況や立場が違うとでもいうのでしょうか。

「子育てはこの世で一番価値のあることです。おろそかにしてはいけません」

なんて、もっともらしく言えるのも、結局のところ、子育てに首までドップリつかったことがないからだ……って、思ってしまうんですよね。

まあ、私がひねくれてるだけかもしれませんが。

このレビューにもあるように、『私たち人間は、こんなにも分かりやすい存在なのだろうか?』、まさにこの言葉通りだと思います。

子供もそうだし、母親だってそう。

理屈通りに愛して、世話して、それで満足できたら、何も苦しむことなんてないですよね。

せっかく生まれた新生児の我が子を、「授乳が上手く行かない」とノイローゼになって、浴槽に沈めて死なせてしまう母親の気持ちを救うのは「こうあるべき」の理想論ではないし、子供だって大人が定めたマニュアルの上をおとなしく歩いていくものでもない。

理屈にはまらない『想像を超えた部分』について、もっと温かな目を寄せた方がいいように思うのです。

つまり、「新生児を浴槽につけるなんて、とんでもない」という理屈ではなく、「なぜそんな風になってしまうんだろう」ということへの理解です。

子供に対してもそう。

口では厳しく怒りながらも、「まあ、まだ分からんのやろな」と思える余裕。

イタズラされてムカっとくるけど、「こういう事に興味があるのか」と観察できる余裕。

この余裕の上に、子供の「救い」があり、「愛され感」があるのではないでしょうか。
(子供がどんなに悪い事をしても、逃げ道は残さないと・・)

そういう意味で、西原理恵子さんの「毎日かあさん」の視点はいいなあと感じました。

これは毎日新聞のWEBサイトに掲載されている最新の作品なのですが・・

http://mainichi.jp/life/riezo/


常々思うに、子供には開けたドアを閉める機能がない。
きっとドアを開けた目の前の新しい世界が最優先になってしまうんだろう。

クツをはき忘れて帰るバカや、高い木の上からおりられなくなった世界中の子供
先日、道路の向こうの犬をさわろうとした息子の行動などが理解できる。

何でも正論で割ろうとすれば、「ドアを閉めない子供」や「道路の向こうの犬をさわろうとした息子」は、「躾のなってない子」でしかないですよね。

レストランや電車の中で騒ぐ子も、そう。

ある程度、自制の効く年齢ならともかく、1歳か2歳ぐらいの、訳わからんチャンなら、初めての楽しそうな場所に来れば、興奮するのが当たり前でしょう。

それをどうして「しつけ、しつけ」と厳しく抑えつけようとするんだろう。
子供があれもこれも珍しがって、お構いなしにはしゃいでしまう気持ちが、そんなに悪いのか――と、私なんかは思うわけです。

もちろん、周りの方に迷惑がかからないよう注意することは必要ですけど、そればかりに気を取られて(周りから「躾のなってないダメ親子」と思われるのがイヤとか)、理屈詰めで子供を責めても、自分も子供もしんどいだけでしょうに。

親の言う通りにおとなしく座っている子が「いい子」で、新しい場所に来るとつい興奮してしまう子が「悪い子」と言うなら、それは大人にとって都合の良い好奇心や感性を要求しているだけに過ぎないと思うのです。

やはり心のどこかで、「子供ってのは、そういうものだ」「窓の外でくるくる変わる風景や、キラキラした照明や調度が珍しいし、楽しいんだな」と思う気持ちがなければ、我が子も許せないし、よその子も許せなくなるでしょう。

それは一見正しいけれど、ヘリクツだけの「セオリー母さん」であって、いざとなれば子供サイドで味方してくれる、「この世でたった一人のボクのお母さん」とは違うような気がします。

「この世で悪い・間違いとされている事」と、「子供サイドで理解する事」はまったく次元の違うことだし、子供のすること、しいては人間のすること全てが正論で裁かれるとしたら、こんなに生きにくい世の中はないですよね。

そっちの方が正しいかもしれない、でも『それだけじゃない何か』の部分に、愛と人間の本質があるのではないでしょうか。

私は、母親の優しさ、しいては人間の優しさというのは、「1+1=2」に出来ない、子供(もしくは人間)の『どうしようもなさ』に対する理解だと思っています。

そして、母親ってのは、たとえその子が殺人鬼になっても、この世で唯一、人間としての良心を信じてくれる存在ではないか――と。

ちょっと脱線しますけど、子供が刑務所に入ったら面会にも来ない母親がいますよね。でもその母親は、「子供が刑務所に入ったから」来ないのではなく、最初から子供サイドに居なかった母親なのですよ。
だから、刑務所に入るような事になってしまった……とも考えられないでしょうか。

「セオリー母さん」が正しくても、子供の心に響かないのは、その正しさに「優しさ」が無いからだと思います。

子供、しいては人間の『どうしようもなさ』について、もっと寛容になれたら、何事も良い方に向かうと思うのですが、皆さまはいかがお考えでしょうか。