マドモアゼル愛の『自分を愛することから始めよう』~心の眼が開く時

私が大阪でお勤めしていた時、オフィス近くの雑居ビルに、割と何でも揃う、居心地の良い書店があった。

昼休み、オフィスで一番の仲良しだったSさんと私は、オフィスから出る時間も、出かける方向も、まったく別だったにもかかわらず、その書店の、いつも決まったコーナーで鉢合わせるのが常だった。

「姉さん、また立ち読みしてまんな」
「なんや、あんたもまた来たん」

本に熱中する相方の肩を叩いて、今、何に興味があるのか情報交換し、それからたわいもない話に花を咲かせる。

昼食後の、わずか5分か10分のことだったが、私にはかけがえのない時間だった。

が、一方で、その事実に、心落ち着かない人たちがいた。

同じオフィスで働く、同僚たちである。

私たちがオフィスから消えると、たいがい決まった人が、「また、あの書店にいるに違いない、二人で私たちの悪口を言っているに違いない」と、偵察にやって来た。

その場に並ぶ、何万冊という本には見向きもせず、私たちの姿を探して、足早に通り過ぎていく。

その姿を、書架の裏から眺めながら、よくSさんが言ったものだ。

「世の中には、これほど、心や愛について書かれた本があるのに、彼女たちはどうしてそれを手に取ろうとしないんだろうね。今、ここにある一冊でもいいから、手に取ってみたら、人生が変わるのに」

私もまったく同感だった。

まるで、宝の山を目の前にして、その気配に気付きもせず通り過ぎて行く、そんな印象を受けた。

本というのは、即ち、人間である。

何百年の昔に亡くなった人とさえ、私たちは本を通じて語り合い、多くのことを学ぶことができる。

書店は、いわば、人間との出会いの場だ。

彼らは、私たちの無知に優しくささやきかけ、救いの光を投げかけてくれる。

それを受け入れる用意さえあれば、私たちはいくらでも伸びて行けるし、迷いの谷から解放されるのだ。

ところが、他人の言動ばかりが気になり、心落ち着かぬ人には、ずばり、それを指摘する本のタイトルも目に入らない。

必要にさえ気が付かない。

そして、その前を足早に通り過ぎていく。

そんな彼女たちの姿を、Sさんと一緒に書架の裏から眺めながら、「ああ、もったいない。昔の私みたいだ」と、淋しく感じるのだった。

だが、心が閉じている時は、そういうものなのだ。

本当に学ぶべき事はいつも後回しで、目が開いているようで、何も見ておらず、聞いているようで、何も聞いていない。

自分に都合の良い情報だけを取捨選択し、自分に痛みを与える情報は、それを与えてくれた者もコミで敵視する。

プライドが高く、自分を実際より良く見せようとする人ほど、その傾向が強いような気がする。

それは、新しい価値観によって、現在の自分を否定されることを恐れるからだ。

だから、「自分を変えたい」と願いながらも、自分という人間を根底から揺るがし、黒から白へ塗り替えるような大改革は望んでいない。

「不幸はいやだ」と思いながらも、その不幸な状態に落ち着いてしまう。

なぜなら、「幸せ」とは、まったく新しい心の体験だからである。

心が新しい体験を知れば、それまでの自分の間違いや弱さが露わになる。

振る舞いが変われば、それを他人に指摘される。

だから、自分を知りたくないし、人に見せたくもない。

根っこに、「本当の私を見せたら嫌われる。他人に侮られたくない」という強烈な不信感があるから、的を得たアドバイスにも、幸せという心の体験にも、心が開けないのである。

だが、そうなってしまうのは、本人のせいであって、本人のせいでない。

いろんな出来事の積み重ねで、貝のように心が閉じてしまうのは、誰にでもあることだ。

「怖い」と思う気持ちを、私は責めることができない。

が、そんな風でも、「良くなりたい」という気持ちがあれば、いつかどこかに答えを見つけるし、恥を捨てれば、新しい心の体験を恐れなくなる。

誰にでもチャンスはあるのだ。

「聞きたくない」のは、そこに真実があるからだ。

「見たくない」のは、そこに自分の本当の姿を見てしまうからだ。

それを受け入れる勇気があれば、人は必ず良い方に向かって行ける。

どんなに時間がかかっても、受け入れようと努力する限り、絶対に。

『開運』とはよくいったものだ。

あれはまさに、目が開き、耳が開き、自分にとって新しい価値観や心の体験をどんどん吸収する用意が出来ている状態を言うのだと思う。

「開運」というと、「宝くじが当たった」「彼氏ができた」ことだと思う人もあるけれど、決してそうではない。

今まで気付かなかった何かに「ぱっ」と気付く、心の眼が開ける、その瞬間を言うのではないだろうか。

とはいえ、人間そうそう、耳の痛いアドバイスを聞き入れられるものではないし、素直になるにも時間がかかる。

意識で反発しながらも、その心にグサリと突き刺されば、何年か経った後に芽が吹くこともあるだろう。

*

そんなことを考えさせられた、マドモアゼル愛先生のブログでした。

「マドモアゼル・愛のぶらりブログ」

テレフォン人生相談の打ち上げから
http://mademoiselleai.nifty.com/madeailog/2006/10/__7ccc.html

実際、テレフォン人生相談をしていて、質問者は大体始めは取り繕った声を出している。何か正直な気持ちを隠している。悩んでいる時のそれが特徴でもある。
段々と心の琴線に触れていくにつれて、相談者の声が変わってくる。
本当の声で話し出してくる。
そうなるとこちらのメッセージが届くようになる。

声が変わらない人には届かない。
防衛しているから外部のメッセージを受け入れられないのだ。
聴く耳というものが人にはあると思う。聴く耳になることで人は外界と和解できる。

聴く耳を持たぬとき、人は孤立している。聴く耳を持たぬ母に育てられた子供の心には深い絶望が育っている。そして自分の声も閉ざしてしまう。

声に魂の響きが出てくるとき、人に可能性が生じる。私は占い師であるが、人生相談の際にはその内容よりも無意識に相談者の声をじっと聴いている。その方が何かがわかるからだ。その人が隠しているものを嗅ぎ分けないで答えることはできない。時間の無駄になるからだ。

相談者の声の質を変えるのが私の人生相談の基本でもある。
声さえ変われば、あとは私など出る必要はない。
あとは本人自身があらゆることを解決していく。
それだけの力が人間の中にある。

素敵な文章でしょう。

子育てにも応用できると思いませんか。

私も、分かっているようで、その実、分かってないのではないかと思うことがしょっちゅう。

これで良いのか、悪いのか。。迷うこと、多しです。

自分を愛することから始めよう―あなたはあなたのままでいい

ところでね、私が生まれて初めて買った心の本というのが、マドモアゼル愛先生の『自分を愛することから始めよう―あなたはあなたのままでいい』という本なんですよ。

24歳の時だったかな。

異性関係に躓いて、すっごい落ち込んで、ウツウツとしていた時に、「なんでやろ、何があかんかったんやろ」って気持ちで、本屋をうろついていた時、初めて「女性向けエッセー」のコーナーに行って、この本を買ったんですよね。

私はそれまで、海外の名作文学とか、社会派ルポルタージュもの一本だったんですけど。

だから、買う時、めちゃくちゃ恥ずかしくて(だって、『いかにも私、悩んでます、愛に飢えてます!』って感じじゃない)、レジのお姉ちゃんにも、「さっさとしろよ~」って感じで、逃げるようにその場を離れて、でも早く読みたくて、バスの中でこそっとページを開いて、、、

思わず号泣しそうになったよ、公衆の面前でさ。

でも、ずっとずっと長い間、誰かにそう言って欲しかったの。

私が、親や、恋人や、友達や、学校の先生から言って欲しかったのは、まさに、そこに書かれた言葉だったのです。

だから、うれし泣き。

自分のために泣いてあげたのは、あれが初めてだったんじゃないかな。

*

以来、ことあるごとに、いろんな人にするんですよ。

『自分を愛することから始めよう』、それが人生の基本だって。

青春期の私にとって、人生最大の謎であり、また幸せの鍵だった、この言葉。

マドモアゼル愛先生。どうもありがとうございました。

以下は、2002年に発行した、「自分を愛することから始めよう」というタイトルのメルマガです。

自分を愛するとはどういうことか、という、私なりの解釈です。

*

作家“マドモアゼル愛”さんの著作に『自分を愛することから始めよう―あなたはあなたのままでいい』というタイトルのものがあります。

本屋に行くと、たいてい癒し系エッセイの書架に並んでいます。

私も他の著作を何冊か読んだことがありますが、最初、どうして「自分を愛することから始める」のか、さっぱり理解できませんでした。

そもそも「自分を愛する」という意味が分からなかったのです。

だから、私の愛は、いつまでたっても始まらなかったのかもしれません。

もし今、愛に悩んでいる人がいたら、私も同じ事を言うでしょう。
「自分を愛することから始めよう」と。

他人を愛するのも、他人から愛されるのも、すべては自分が自分の事をどれぐらい誠実に愛しているかで決まります。

それは利己主義とは違いますし、鏡に映った自分を愛するナルシス的な愛とも違います。自惚れることでもなければ、尊大になることでもありません。

自己中心的な愛は、他人の賞賛や愛情を得るために、自分の優れた点だけを見つめ、誇張しますが、本当の意味で自分を愛することは、ウソや虚飾を必要としません。もっと自然で気楽なものです。

たとえ他人があなたの容姿や欠点を笑っても平気です。

知人があなたより出世したり裕福になっても、自分を惨めに感じたりしません。
嫌なものは嫌とはっきり言うことができますし、他人が「NO」と言えば自分の「NO」と同じ重さで受け止めることができます。

自分に対する本物の自信は、意地や妬みとはまったく無縁です。

自分で自分を誠実に愛するとは、自分自身を理解し、受け入れることです。

穴だらけでも、泥だらけでも、それを良しとして、前向きに生きてゆけることです。

私も子供の頃は、コンプレックスの塊でした。
「おまえは駄目だ」「おまえは間違っている」
そういう否定的な言葉を浴びて育ちました。

いつしか、私には何の価値も無い、愛されるに値しない駄目人間だと思うようになっても、それが誤った思い込みだとは誰も教えてくれなかったのです。

私は、人の関心や賞賛を得るためなら、どんなことでもしました。
嫌な用事を押しつけられてもにっこり笑って引き受けました。
勉強も、お稽古ごとも、人一倍がんばりました。
時にはピエロになって皆を笑わせることもありました。
だから、子供時代の私を知っている人は、たいてい口を揃えて言います。
「マリは、明るくて素直で本当に良い子だった」。
その明るい笑顔の下で、必死でもがき苦しんでいたにもかかわらず。

それから成人して、独り立ちもしましたけど、私は相変わらず空っぽでした。いつもニコニコしているので、職場でも可愛がられていましたが、どこにも本当の自分の居場所は無いような気がして、淋しい思いばかりしていました。

だけど、どうしてそう思うのか、自分ではさっぱり理由が分かりませんでした。深く考えることもありませんでした。心の中には、ただただ、自分をこんな風にしてしまった親への恨みばかりがつのり、恋をしても捨てられる恐怖感ばかりが先走って、何一つ上手くやれなかったのです。

そんな私がやっと自分と向き合う勇気を持てたのは、手術をして何ヶ月も自宅療養していた時のことです。身体は不自由でも、なにせ時間だけはたっぷりありましたから、毎日のように図書館に通い詰めてはいろんな本を読みあさりました。それも今まで手にしたことのないようなエッセイや詩集です。

その中には、マドモアゼル愛さんの著書もありました。

当時はまだ「癒し系」とか「ヒーリング」とかいう言葉はそれほど知られていませんでしたし、不況の嵐が吹き荒れる以前でしたから、その手の本もどちらかといえば、本屋のあまり目立たない所に並んでいるような感じでした。

けれど、自分が必要だと意識するようになれば、突然、目に飛び込んでくるものなのですね。

きっと以前からそれらの本は刊行されていたはずなのですが、私はずっと素通りしてきました。自分が必要としていない時は目にも入らないし、意識もしないからでしょう。

そうして、徐々に、自分の姿が見えるにつれて、私ははっきりと悟ったのです。自分を不幸にするのも、幸福にするのも、自分の心次第だと。

人間は、自分の心が見たままに、世界を受け止めます。

今まで不幸でいっぱいだと思っていたのは、実は自分の心が不幸な思い込みでいっぱいだったからで、自分の心象風景が明るくなれば、目の前の世界も幸せに染まるんですね。

私には、その真理が、長い間分かりませんでした。
ただ親が悪い、世間が悪いと思うだけで、自分の誤った思い込みが自分に不幸な出来事を連れてくるとは微塵も考えませんでした。辛い、苦しいと騒ぐだけで、自分自身を変える努力は一つもしなかったように思います。

本当はもう少し早く気付けば良かったのでしょうけど、人間って、落ちる所まで落ちてみないと分からないのかもしれまんね。
とりわけ、私は我の強い人間でしたから。

それから何年もかかって、私は自分の中の恨み辛み――特に両親に対する怒りや憎しみ――を洗い流し、誤った思い込みを正し、行動を改め、心象風景を明るく美しい色に変えるよう努めました。

自分の弱さや間違いや欠点を真っ向から見つめるのは、とても苦しいし、勇気の要ることですが、それをやらなければ決して幸せになれないと思ったからです。――それまで私は「幸せになりたい」と思うことさえなかったのですよ。

そうして、自分なりに必死に心の努力を重ねた末に、私は「自分を愛する」ということがどういうことか、「幸せになる」と決意することがどれほど大切か、そして「愛」が人間にとってどんなに大きな意味を持つか、おぼろげながら理解するようになりました。

フランスの思想家ジャン・ジャック・ルソーの有名な言葉に、
「人は二度生まれる。一度目は存在するために、二度目は生きるために」
という言葉がありますが、私の場合、それは三度目の誕生でした。

幸せになるための、新たな心の誕生日です。

今、幸せでない人――というより、心の中に恨みや憎しみや妬みや劣等感といったマイナスのエネルギーをおなかいっぱいに溜め込んで、自身の不運な境遇や孤独を他人や社会のせいにばかりしている人――は、一度、自分自身としっかり向き合って、「自分を愛すること」から始めて下さい。

いたずらに自分を卑下するのではなく、責めるのでもなく、ありのままの自分、穴だらけ、泥だらけの自分をしっかり見つめて、受け入れるのです。

誰だって、美しいヴィーナス、たくましいアポロンでありたいものです。完璧に強く、美しく、優れていれば、誰にでも愛されるような気がしますからね。

だけど、実際に、人が愛するのは人間です。
女神ヴィーナスでも太陽神アポロンでもありません。
「ヴィーナスになれば愛される」「アポロンになれば認められる」と思い込んでいる人には、それが分からないのです。

欠点だらけのただの人間でいるのが嫌だから、自分には価値がないと思っているから、無理をしてヴィーナスやアポロンになろうとする・・・その結果、自分とは違う仮面の自分に嫌気が差して、よりいっそう自分を憎んでしまうのです。

自分を嫌い、憎んでいる人が、どうして同じように人を愛せるでしょうか。

怒りもすれば、泣きもする、欠点だらけの他人を、どうして理解し、受け止め、愛を注ぐことができるでしょうか。

自分を嫌い、憎んでいる人にとって、他人は脅威でしかありません。
大好きな恋人でさえ、彼らにとっては敵なのです。
なぜなら、その人はいつかあなたの偽りの仮面を引っ剥がし、あなたの醜い実像を知って、去っていくに違いないからです。

自分の弱い所も駄目な所も受け入れ、自分を愛することができる人は、そうした恐れを抱きません。たとえ相手が自分の駄目な一面を知ったとしても、本当に愛していれば完全に嫌ったりしないと知っているからです。

自分で自分を愛することのできる心の健全な人は、むしろ、あなたの欠点ゆえにあなたを愛します。そういう人は、あなたが思っているほど、あなたの欠点を気にしていないものです。人が自分の欠点を嫌うかも知れないと脅えるのは、あなた自身が自分の欠点を憎み、拒絶しているからではないでしょうか。

そのように考えれば、なぜ「自分を愛すること」が大切なのか分かっていただけるのではないかと思います。

もし今、あなたが孤独なら、何をやっても上手くいかないと思い悩んでいるなら、とりあえず『自分を愛することから始めよう』。

それが奇跡への第一歩です。

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