愛する人の死と共に生きる

2017年9月15日Notes of Life

世の中で一番辛いのは愛する人を亡くすことです。

病気ももちろんそうですが、災害、事故、突然血管が破裂するような急性疾患など、思いもよらぬ形で失えば、いつまでも納得がいかず、時に、怒り、恨み、失望し、常人には理解できないような心理状態に陥るのが当たり前でしょう。

私たちはこうした悲しみに直面した時、『立ち直ること』を一番に考えます。

とりわけ、災害のように、周囲から復興することを期待されると、いつまでも嘆き悲しむことが、あたかも罪悪であるかのように思い込み、自分を責め続ける人も少なくないのではないでしょうか。

大切な人を亡くすと、周りは「その人の分まで、しっかり生きなきゃ」と励まし、自分自身も、自分にそう言い聞かせる。

それは確かに一つの道筋ではあるけれど、一方で『自分の本当の感情』というものを見失い、自分自身を認識できなくなる。

自分自身を正しく認識できなくなる……ということは、自分自身の喪失でもあり、傍目には一所懸命、頑張って見えたとしても、それは本当の意味で救いになってないんですね。

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それにしても、嘆きや、悲しみというのは、それほどに「いけない感情」なのでしょうか。

いつまでも愛する人を想って、泣いて暮らすのが、人間的に間違いとでもいうのでしょうか。

私は時に「希望」とか「再建」とか「復興」とかいう言葉が、人間を追い詰める凶器にもなるし、社会的にはそれが必要でも、人の心にまで期待するものではないと思うんですよ。

5年、10年と、納得いかぬ気持ちを引き摺って、嘆き暮らしたとしても、それが人間として当たり前の感情だし、理屈で割り切れないから「愛」なわけでしょう。

自分で理屈で言い聞かせて、止めたり、忘れたりできるなら、それは「愛」ではないし、相手への愛がある限り、我が命が絶えるまで思い続けるのが自然でね。その為に、その人の言葉や仕草を思い出しては泣き、その人の不在を嘆き、それが何年、何十年、続こうと、周りに責められることなど何一つないと思うのです。

むしろ、本来あるべき感情を理屈でねじ曲げて、違うものになろうとしても、どこかで無理は生じるし、やせ我慢や意地は、本物の心の強さにはならない。

心の強さというのは、悲しみや失望と共存できる余裕であって、人に「大丈夫?」と聞かれた時に、「はい、頑張ってます! 努力してます!」と意識して前向きに持っていこうとするのは、『無理』であって、強さではないんですね。

そのあたりを自分でも勘違いすると、理屈で封じ込めるような辛い人生が待っているし、また周囲がそれを期待すると、本人を追い詰めてしまう。

悲しい時は悲しいままに、弱い時は弱いままに、それを自分に許して生きていくことが、亡くなった方の望みでもあると思うんですよ。

仮に自分が死んだ方で、相手が生き残った側として、相手が無理にニコニコしてたら、「私の為に、そんなに無理しないで」と思うんじゃないかしらね。

では、相手に何を望むか。

そこを逆の立場で考えれば、「即行で立ち直るばかりが美徳ではない」と分かるんじゃないかしら。

私は、もっともっと人間のネガティブな部分――悲しみとか、悔しさとか、怒りとか、失意とか――そういうものが当たり前のものとして解釈されるべきだと思うし、何も恥じる必要などないと考えています。

むしろ、そうした感情に否定的で、全人の陽の部分だけを「人間」と認めるのは、自然に反するでしょう。

立ち直れないなら、立ち直れないでいいし、腹が立つなら、それでも構わない。

その弱さ暗さと一緒に生きていこう、と決意した時にだけ、一歩前に進めるのではないでしょうか。

不幸や悲劇をバネに、何かに一所懸命になるのも立派だけど、悲しみや喪失感と共に生きる決意をするのも、人間の一つの尊い姿だと思っています。

泣く自分も「我」、立ち直れない自分も「我」、そして、そんなあなたを、あなたの大切な人も、いつまでも雲の上から見守ってくれるのではないでしょうか。

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この世で為すべきことを為せば、海の彼方できっと会える。

よく頑張ったね、と、褒めてくれるよ。