「自分」にこだわりすぎ

人は、自分に理解できるものしか理解できない。

先の、小学生惨殺の動機も、私たちには理解できないが、ある種の人間には理解できるはずだ。

『Common Sence』 などというものは、実際はどこにも存在しないのかもしれない。

在るのはただ『自分に理解できるもの』と『そうでないもの』だけで、私たちは自分の感覚によってそれをふるい分けているに過ぎないのではないだろうか。

だとすれば、私たちが日常的な裁きに使う物差しは、一見、正義のように見えて、実際は主観に凝り固まったファシズムかもしれない。

それが「排他」であるということに気付きもしいないほど、私たちは自身の価値観に固執し、自身の尺度によって全てを都合良く裁き、ふるい分け、自身の世界を保守することに躍起になっているのかもしれない。

違いを受容する──

それだけが自分と他との境界線を無くする。

ところで、私たちがそれほどまでに固執する「自分」というやつに、いったいどれほどの価値があるというのか。

みな、あまりに「自分」にこだわりすぎていないか。

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