育児と家庭

子供との距離の取り方

2005年12月11日

ドイツの哲学者、ショーペンハウワーのたとえ話に、「ヤマアラシのジレンマ」というものがある。

これは、二匹のヤマアラシがお互いを温め合おうとして、近く寄り添うのだけれど、お互いの針で傷つけ合って、上手く抱き合うことができない。

そうして、くっついたり、離れたりしながら、やがてお互いに適切な距離を見出す――という、たとえ話なのだけど、これは親子にも当てはまるのではないかな、と思うことがしばしばである。

たとえば、子供はママにもっと構って欲しくて、ペタっとくっついてくるけれど、ママも虫の居所によっては態度が悪かったり、自分の事で精一杯だったりして、いつもいつも「優しいママ」であるとは限らない。

子供は、ママの「イライラ」や「自分勝手」の針に刺されて遠ざかり、しばらくは寄り添うことをあきらめるのだけれど、やっぱり温めて欲しくて、近くに寄ってくる。
その繰り返し。

また、ママはママで、もっと子供のことを理解したい、大切にしたいと思い、手を差し伸べるのだけど、それは子供の望みとは全く違っていたり、子供も自分の感情を上手く表現できなくて、つい「ママなんか嫌い」光線を発射してしまう。

それでママは子供が分からなくなり、逃げたり、あきらめたりするけれど、やっぱり気になって、また寄り添っていく。その繰り返し。

なんとなく、育児書やら、何やら見ていたら、「ママと子供はいつでも仲良くなければならない」という主張に凝り固まっていて、もちろんその大切さは理解できるのだけど、やはり一人と一人の人間同士、そういつもいつも晴れの気分で完璧にマッチするとは思えない。

人間である以上、齟齬を起こしたり、傷つけ合うのは避けられないことで、だからこそ、育まれる知恵や思いやりもあるはずだ。

上辺だけでない、本物の人間関係を築いていく上で、自我の衝突や感情の摩擦は必要不可欠だろうし、親子関係に限っては「例外」ということもないだろう。

「子育て」という言葉のトリックに惑わされて、その本質をしばしば見失いがちだけど、私たちがいわゆる「子育て」と呼んでいる行為も、ある一面では、「人間関係の確立」と言い換えてもいいのではないだろうか。

旦那とはしょっちゅう口喧嘩しているくせに、こと相手が「子供」となると、必要以上に自分を責めたり、落ち込んだり、自分の母親としての能力を疑ってしまうのは、多分、「子育て」=「相手より優れていなければならない、導かねばならない」みたいな、親としての優位性を重視しし過ぎるからではないかと、時々、思う。

自分の人間的な弱さとか脆さを押さえつけて、子供より何段も上の立場から「ちゃんとやらなければならない」と思えば、それはもう、精神的にまいって当たり前だ。

そうではなく、これも「人間関係なのだ」と思えば、また違った局面が見えてくる。

私たちは、子供同士がゴネるみたいに、もっとゴチャゴチャやり合っても構わないんだ、と。

子供も成長するにつれ、親を一人の人間として見るようになる。

その時、親の弱さも知るけれど、人間として生々しく関わった部分も大切に覚えていてくれるだろう。

正直、一歳ぐらいの子供を相手にしていると、馬かお猿と話をしているようで、ものすごく消耗することがあるけれど、私たちの「人間関係」は既に始まっていて、私はともかく、子供も子供なりに、傷ついたり、あきらめたりしながら、「母親(私)との上手な距離の取り方」を学んでいるのだと思う。

まあ、人生は長い。子供の人生は、もっともっと長い。

今日一日、激しくやり合っても、また明日、一からやり直すチャンスがある。

そんな余裕を持って、接していきたいと思う。

記:05年12月11日

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