どんな子にも花咲く時がある

4歳の息子がようやく数字や文字に興味を示すようになった。
今はもっぱら「数」がブームのようで、本を眺めたり、オモチャを並べたりしながら、一人でブツブツとカウントしていることが多い。
もちろん、そのカウントも「にい、よん、ご、ろく、はち」みたいに適当で、1から10まで正しく言えたためしがないのだけれど。
(そのかわり、日本語とポーランド語が混じらないのはスゴイと思う)

まあ、どの親もたいてい、「何でも早く出来る方がいい」と得手勝手に思い込んでいるものだ。
2歳で平仮名が読めたとか、3歳で足し算が出来たとか、早ければ早いほど満足度も高いし、自慢にもなる。
まさか、3歳でカンペキに絵本が読めるからといって、大人になる頃にはライトノベルから専門書まで読みこなす、バリバリの読書家になるはずだと盲目的に思い込んでいる親もあるまいし、結局のところ、「何歳で出来た」とか「これだけのことが出来る」とかいう話は、親が安心したいだけなんだよね、たいていは。

私も子供が1歳ぐらいから、「とにかく急がなきゃ」みたいな気持ちで、わざ~と平仮名を指差したり、お絵描きノートに平仮名を書いてみたりと、とにかく興味をそっちに向けようと刷り込んでいた頃があったけれど、何をどうひっくり返しても興味を示さないので、無駄なあがきはすぐに止めた。

ウズウズと教え込みたい気持ちを抑えに抑えて、息子の方から興味を示してくれるまで待つことにした。

某幼児教育サイトでは、「言語教育の開始は3歳が目安」みたいなことを書いていたけれど、まるで興味を示さない子供の腕をつかまえて、毎日5分でも机に縛りつけて書き方の練習をさせるなんて私には出来なかったから。(これの出来る人が子供を天才児に育てるんですかね(笑)

とにかく、待って、待って、ひたすら待ってみようと待ち続けること1年以上。

結果、こちらから押しつけなくても、自然に興味を持ちはじめた。

この世には「数」という秩序があり、カウントすることによって、モノの大小や増減を計ることができると気が付いたようだ。

今はもっぱらその秩序を学んでいる最中。

もっとも、並びはメチャクチャだけども。

言語教育と言えば、うちはポーランド語ばかりが発達して、日本語の進展は実にお粗末(泣)
いまだに「2歳児に毛の生えたようなの」とお喋りしているような感じがする。

だからといって、「日本語、日本語」とスパルタ教育する気もない。
「その時」が10代後半であろうが、30代前半であろうが、本人が「勉強したい」という意志を固めるまで、辛抱強く待ってみるつもりだ。

「遅すぎる」とは思わない。
現に、ワルシャワ大学の日本語学科の生徒は素晴らしく上手だし、仕事で日本に移り住んでから、かなりのレベルに達している人もあるのだから(デーブ・スペクターとか。まあ、あの人は、例外中の例外かも(笑)、その点は本人の努力の如何によるはずだ。

まあ、2歳児に毛の生えたようなオカマちっくな日本語を喋られて、青色溜め息を吐く日もなきにしもあらずだけれど、こんなに小さいのにポーランド語と日本語をきちんと使い分けて、私の顔を見ながら、子供なりに頭の中で翻訳している様子が分かるから、私も「待たねばならない」と心に強く思うのだけど。

それにしても、『子供と母国語が同じ』というのは、それだけで羨ましいと思う。
日本人ママで「うちの子は言葉が遅い」とか「まだ平仮名が読めない」とか悩む人もあるけれど、「母国語が同じ」というだけで、どれほど多くのものが救われていることか。
移民一家のバイリンガル家庭で、母と子の母国語が異なるところは、子供とのコミュニケーションにおいて、多かれ少なかれ『隔たり』を感じずにいないものである。

あるいは、私が「待てる」のは、言葉を通じて自分と子供が「異なるものだ」ということをより強く意識できるからかもしれない。
自分のコピーだと思えば、親も万能感に満ちて、要求することも高度になる。
自分に出来たことを子供が出来なかったら、不思議がる。
でも、違いが分かれば、自分との違いを受け入れやすくなる。
「自分に出来ること」と「子供が出来ること」は違うのだと理解することができる。

育児にしろ、教育にしろ、「待つこと」は難しい。

実は、結果を急ぐ方が、教える側にはうんとラクなのだ。

「やれ、やれ」ともっともらしいリクツを並べて押しつける方が、我慢して待つより、うんと簡単なのだ。

だからこそ、待った末に、ほんのちょとでも明るい芽がのぞくと嬉しくなる。

子供の自発的な力を信じられる。

どんな力も、「時」が来たら自然に芽吹くようになっているのではないだろうか。

『この地上のことはすべて自然のリズムの上に成り立っている』という言葉が好きだ。

うちの息子に関しては、「今」が萌芽の時らしい。

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