母と息子の歪な愛 寺山修司の戯曲『毛皮のマリー』

世に「母親」について語った言葉は数あるけれど、一番納得したのが、子育てマンガ・エッセイの第一人者である伊藤 比呂美さんの

「母親は、自分が産んだものだから、子供の生殺与奪を好きにしていいと思っているフシがある」

というもの。(今、本が手元にないので、正確にはこういう言い回しではないけれど)

話の発端は、シンデレラや白雪姫のような、いわゆる名作童話。これらの童話には、しばしば「意地悪な継母」が登場し、美しい娘をいじめたり、殺そうとするが、原作では「実の母親」であり、でも子供にはあまりにショックが大きいので「継母」に置き換えられた……という話である。

背筋の寒い話ではあるけれど、ある意味、これは真実を突いているのではないだろうか。

「生殺与奪」とまではいかないけれど、母親は「自分が産んだ」ものだから、心のどこかで「子供は自分のモノ」という感覚がある。極端な言い方をすれば、ロールプレイングゲームと同じで、「私の思うように動いて欲しい。気に入らなければリセットすればいい。だって自分が作ったんだから」、そういう意識である。

だから、母親は、時に支配的だし、所有欲もある。それが高じれば、主従、あるいは近親相姦的な親子関係が形成される。

そして、子供も、どこかでそれを受け入れて、母親に従順であろうとしている部分がある。

シンデレラや白雪姫の「継母いじめ」にすんなり耳を傾けるのも、母性愛や親意識の秘められた歪さを、本能的に感じ取っているからではないだろうか。

そんな歪な母性愛──もしかしたら、母親の秘められた本性を如実に描いているかもしれない、寺山修司の代表作『毛皮のマリー』は、きわめて異質な親子物語だ。

男娼のマリーは、美少年の欣也を鳥かごで飼うようにして可愛がり、誰にも会わせず、部屋の外にも出さず、息子の人生を完全に支配している。

そして欣也も、「母親」のマリーに逆らうことなく、部屋の中に美しい蝶を放ち、それを追いかけることで世界を旅しているような気分になっている。

劇の途中、マリーの過去と欣也の出生の秘密が語られるが、マリーはまさに人生に復讐しようとしている母親。人生に復讐したいから、息子を支配し、本来の姿とは違うものに作りかえようとしている。

でも、マリーにとって、それは支配ではない。罪悪感もない。だって、自分が産み、育てたのだから。好きに生殺与奪できる権利があると心のどこかで思っている。母親の愛の暗い側面をデフォルメすれば、多分、こういう言葉になるのではないか。

あたしは赤ん坊をひきとって育てました。男の子だったけど、これからじっくり手間をかけて女にしちゃうの。ひどいクズだけど、心は純粋。まるで小鳥みたいにみずみずしい坊や。だから、それをあたしの手でこう作りかえて、いまにセックスの汚物を捨てる肉の屑籠にしてしまうつもりなんだ。

そんな歪な母親の愛に、息子の欣也もまったく気付いてないわけではない。「美少女」が彼の目の前に突然現れ、外の世界に誘おうとした時、彼の心は大きく揺れる。

だが、それを振り切るには、彼はあまりに深く「支配されてしまっている」。

なぜここから出ようとしないのか、という美少女の問いに、欣也が「ここが、好きだから」と答えると、

うそよ、臆病なのよ。世界を見るのがこわいのよ。いつもドアをそっとあけてそうのすきまからしか人生を覗き見できない自分が、みじめじゃない?

そうして、一度は、鳥かごのようなアパートから姿を消すが、「欣也さまはもう出て行っておしまいになりました。たぶん、もうお帰りになることは、ありませんでしょう」という下男の言葉に、マリーは答える。

出て行ったって? 出て行ったって帰ってくるのですよ。あの子はどこにいたって、たとえ地球の向こうの一番遠い星の上にいたって、あたしが呼びさえすれば必ず帰ってくるのですよ。あたしたちは母ひとり、子ひとりなんですからね。

そして、その通り、欣也はマリーの元に戻り、最後の総仕上げが始まる。

さあ、坊や、町でとってもいいお土産を買ってきてあげました。(とカツラをとりだして)これからおまえはとってもきれいな女の子になるんですよ。ほうら、よく似合う、あたしの思ったのとそっくりだ。さ、顔をあげて、お母さんの顔をよく見て(と言いながら、ゆっくりと化粧してやりはじめる。しだいに美少年が美少女に変わって行く……)
どうして泣いたりするの?
坊や。
おまえは今にこの世で一番きれいになるんですよ・・・。

この作品は、一見、奇抜な親子ギャグのようだけど、全編に母親の支配的な愛情と、結局は逆らえぬ息子との近親相姦的な結びつきがどしりと響いて、何ともいえない気分になる。

感動とか、哲学とか、あまたの言葉では言い表せないような、暗く、歪んだ読後感だ。

実際、作者の寺山自身も、実母の過大な期待と愛情に葛藤した息子の一人であり、「毛皮のマリー」は自身の心の膿をえぐり出すようにして書いたのではないか。
(詳しくは、[レビュー]寺山修司と生きて/田中未知を参考にどうぞ。

息子を寸分たがわず自分の中に取り込み、息子の人生をも生きようとする重い母親。

心の奥底では抵抗しながらも、それに呑み込まれて行く息子。

彼らはいったい親子なのか、一つの肉の塊なのか。

『毛皮のマリー』は決してクレイジーな男娼の母親ごっこではない。

母親なら誰もが経験する息子との一体感、そして支配欲(それを「教育」「しつけ」という言葉で表す母親が圧倒多数だけども)の原点を生々しくデフォルメした一つの童話である。

シンデレラや白雪姫が「嫉妬」の対象となり、母親の人生圏から追い立てられるのに対し、息子は支配され、母親の中に取り込まれることで、母の人生に対する復讐を完遂する。「私が、私の人生を生きられなかったように、お前も自分の人生を好きに生きてはならない」「もう私は自分の人生をやり直すわけにいかないから、代わりにお前の人生を生きさせおくれ」という復讐だ。

その復讐が成し遂げられた時、そこにいるのは人形のような息子と、心から満足する母親であり、それをその母親は「幸福」と呼ぶ。

『毛皮のマリー』は、「そして二人はいつまでも幸せに暮らしました」という、母と息子の生々しい童話なのだ。

舞台『毛皮のマリー』

寺山修司が、美輪明宏のために書いた伝説的名作。寺山を知る美輪明宏でしか紡ぎえない 寺山幻想演劇×美輪ワールドの金字塔!!


世の中には何ともすごい作品があるものだ。

脚本も一級なら、演じる人もまた一級。いや、一級どころか、他とは比べようがない。

私も二度ほど美輪さんの舞台を見たことがあるけれど(エディット・ピアフの生涯を描いた『愛の賛歌』と『卒塔婆小町』&『葵の上』)、この『毛皮のマリー』も圧倒的な演技力と存在感で、ただただ引き込まれるばかりだった。

感想を一言で言えば『醜悪』。

ひどい舞台、という意味ではなく、深層心理までえぐるようなオチということだ。

これは男娼のマリーと、鳥かごの雛のように隔離して育てられる欣也との葛藤の物語ではあるけれど、いやいや、舞台の終末では、完全に身も心も結ばれています。真っ白な衣装に身を包み、マリーと欣也が手を取り合って光の中を歩んで行く場面は、母子でもなく、神と子でもない、完全に一体化した魂と肉体──他から入りこむ隙もない、これ以上ないほどに固く結ばれた一個の存在と化している。

これが実母との関係に苦しんだ寺山修司の最終的な回答なのか、と思うと、本能的にぞーっと立ちこめるものがある。

なんといっても、私は嫁の立場から見てしまうので、これはもう発狂もののオチとしか言いようがない。

しかも、DVDのエンド・クレジットに、寺山の元妻、九條今日子さんの名前を見た時には、我が事のように胸が痛む。この葛藤劇のオチを、妻であり、実際に実母との三角関係(?)に苦しんだ九條さんは、どんな思いで見つめてらっしゃったのだろう、と。

母の立場からすれば、『毛皮のマリー』はまさに理想的な愛の物語だ。

愛する息子を誰にも渡さず、触らせず、永遠に自分の手の中に置いて、一体化してしまう。

不愉快な嫁に息子を横取りされて、モヤモヤとしてる姑から見れば、腹の底から同調したくなるような話だろう。

それぐらい、この物語のオチは、歪で、醜悪で、気味が悪い。

私も母親だけど、ここまで息子を我が物に、一体化しようなどと思わないからね。

ある意味、寺山修司は「男」だから、母を感じることはあっても、決して母そのものになることはないから──だから「書けた」と言えるのかも知れない。

この書き手が「女」だったら、とてもこんな結末にはできなかっただろう。

そう考えると、「毛皮のマリー」に登場するのが全て「男」──「美少女」でさえ女装した俳優が演じる──のは、いたって自然で正しい演出だと思う。

ここに一人でも「女」、「本物の母親」が存在すれば、あまりの生々しさに舞台が壊れる。

それぐらい反自然、現実にはあり得ない、あってはならない物語ということだ。

もちろん、最終場面のいくつかのセリフは美輪明宏が付け足したもので、「寺山修司にはとても書けなかった」生々しさがいっそう色濃く前面に押し出されている。

ゆえに、この作品は、半分寺山のもので、残りの半分は美輪が暗部から引きずり出して完成させた、と言えなくないのだが、それにしても、これが寺山の本心なのか、あるいは、生前に母に優しくしきれなかった放蕩息子の劇中の償いなのか、寺山の生身の人生を知れば知るほど、見る側が闇に落ちて行く、そんな破壊力をもった物語であることには間違いない。

『毛皮のマリー』は、動物の本能を逆なでする劇薬だ。

母の盲愛とはかくも醜悪なものか、と、つくづく考えさせられる作品である。

☆追記☆

上記に補足します。(誤解の多い描き方なので)

美輪明宏・演出の舞台『毛皮のマリー』は、寺山修司の戯曲とは、若干ラストが異なります。

寺山修司の戯曲は、「これからあなたは世界で一番きれいな女の子になるんですよ」マリーが欣也に女の子の服を着せるところで終わっていますが、美輪演出は、女の子のドレスを着せられ、放心したように立ちすくむ欣也の膝元にマリーが取りすがり「母さんを許しておくれ」と号泣、その後、わらべ唄をバックに、母子ふたりが歩み寄ることも離れることも出来ず、少し距離を置いて座り込んで幕がおります。私が上記で書いている「母子の完全な一体化」というのは、まさにフィナーレの演出であり、そこでは、憎み合いながらも離れられない母子が手を取り合い、ゆっくりと光の中を歩んで行くんです。

いわば、「母子の完全な一体化」──別の言い方をすれば、互いを許し合い、究極の愛に辿り着いた母子を演出したのは美輪明宏であって、寺山修司の戯曲はそこまで表現してないんですね。

そう考えると、当事者である寺山修司と、あくまで第三者として作品に介在している美輪明宏との温度差(どちらが優れているとかの話ではなく)が感じられて面白いし、寺山にはとうてい結論づけられなかったものを美輪が美しく完結させた、とも言える。様々な解釈が成り立つ、非常に面白い作品です。

もっとも、寺山さんが、この美しきフィナーレをどう捉えたかは分かりませんけども、憎み合いつつも離れられない母のことを、互いに許し、純粋な愛に立ち返る……という理想があったのは確かじゃないでしょうか。ただ、それを、はっきりと、言葉にして語ることは出来なかったけれど。

まあ、それにしても、この舞台を見てると、「あ、美輪明宏って、ホントに男だったんだ」と思う。だって女形を売りにしているあの方が、上半身裸、常に、片方の乳首を露出して、舞台に立たれているんですから。ヘタすればイメージぶちこわし、気持ち悪い、って思われるだけでしょう?

でも、マリーを見ていると、その男の乳首がどんどん丸みを帯びて、母のふくよかな乳房に見えてくる。

男娼が「母」を自称することに何の不自然さも感じなくなる。

それぐらいすごい演技力です。

機会があれば、ぜひご覧になってください。

美貌の男娼・毛皮のマリ-。美少年・欣也は、外の世界を知らず、マリーの意のままに育った息子。マリーと欣也の禁断の親子愛を描いた表題作ほか、初期の傑作5作を集めた戯曲集。

寺山修司の原作はこちら。寺山修司らしい、ウイットに富んだ台詞が随所に散りばめられ、台本だけでも十分に楽しめます。

『母さんの学校は刑務所だった。古臭いコンクリート建ての学校で、同級生はみな人殺しだの、すりだの、強盗ばっかり! でも、母さんは刑務所に、英雄だの冒険だのをさがしに行ったんじゃない、まじめな勉強しに行ったんです……。』

『教育やしつけってのは、無駄なものにきまっているのですよ。』

『欣也は決して、外に出さないようにしてね。今の世の中は、あの子には刺激がつよすぎますからね』

『あたしをたたえておくれ。美しいことばで、じっくりとあたしのこの肌にみがきをかけておくれ』

世間はあたしのことを自然じゃないって仰るようね。作りもので、神様の意志にさからっているって。でも、そう言う人に限って、庭に花の種子をまいたりすることは平気なんだ。神様とはまるで無関係の、一袋20円の種子なんぞをまきちらし、それが自然を冒涜してるなどとはツユほども思わない。いいえ、どうせ、人生には自然のままでいいものなんて一つもありゃしないんだ

関連アイテム

演劇、映像、詩歌など多岐にわたる分野で、時代を超えて多大な影響を及ぼし続ける異才、寺山修司。その寺山と運命的に出会い、「毛皮のマリー」「青森県のせむし男」に主演した美輪明宏が、当時の貴重なエピソードを織り交ぜながら語る寺山論。まさに、たぐい稀なる2人のアーティストの、芸術創造の過程と心の通い合いが綴られた貴重な記録である。「毛皮のマリー」「サド侯爵」「フェチシズムの宇宙誌」も収録。

この本、良かったです。
当時の文化人──三島由紀夫や横尾忠則、江戸川乱歩といった絢爛たる才能の火花はもちろんのこと、それを応援するファンの熱気まで伝わってくるようで、なんとも幸せで活気のある時代だったんだなぁと、つくづく。本当に羨ましい。
また寺山修司を知る上で欠かせない、実母・はつとの関係も少し述べられていて、改めて、寺山修司という人に惚れ直す一冊でした。
ファンなら必読の本です。

寺山修司―俳人、歌人、詩人、小説家、エッセイスト、シナリオライター、競馬評論家、煽動家、映画監督、演劇実験室・天井桟敷主宰者など、肩書きは一〇を超える。一九六〇年代後半に日本のアングラ文化を創造し、今も、サブカルチャーの先駆者などとして注目されている…。あなたはいったい誰ですか?寺山のスタッフを経て劇作家となった著者がその生涯を描く、“決定版”寺山修司のすべて。

寺山修司の文学・演劇・映画を全力で支えた田中未知が24年の沈黙を破って語りはじめる寺山修司の核心

寺山さん、女性にモテたでしょうねえ。。
文章読んでるだけで「萌え♥」るんだもの、実際にお会いしたら……
「自分が愛する人間を純粋に愛する人々のことなら、私は愛せる。愛する人間をめぐってライバル意識をむきだしにすることのほうが、私には理解できない。」
とのこと。

Site Footer