レッド・ツェッペリン『Kashmir』 アルバムという物語

2016年8月25日音楽

レッド・ツェッペリンの印象的なイントロといえば『天国への階段』が圧倒的に有名だが、それに負けず劣らず力強いインパクトを与えるのが『Kashmir』。


私も最近、この曲を知ったのだが、まるで映画『アイロンマン』のOPのよう。

タララ、タラララ、タラタララ・・

半音で、不規則に上がっていく。ギターソロ。

Kashmir(カシミール)のタイトル通り、エキゾチックなメロディライン。

私たちは『アーティスト』を聴いているのではない。『美しいメロディ』を愉しんでいるのだと、と、当たり前すぎる事を思い起こさせてくれる。

アーティストだから美しいメロディを創るのではない。

美しいメロディを創るから、アーティストと呼ばれるのだ、と。

どうやら、このあたりが逆転して、売る側もリスナーも、「音楽」ではなく「アーティストを聴く」と勘違いしだす点に齟齬が生じるのではないか……と思ったりもする。

音楽市場がどう、テクノロジーがどう、と言ってみても、音楽の要はやはりメロディーラインだ。

これから売り出す音楽については何とも言えないけれど、少なくとも、過去に作られた名曲が滅び去ることは、まずない。

口コミで、無料サービスで、その素晴らしさはどんどん若い世代に伝えられていく。

見るのに気合いがいる映画と異なり、音楽はほんの数分、仕事や勉強をしながら傍らで聴くことができる。その手軽さもあり、映画よりも伝播する確率ははるかに高い。

そしてレッドツェッペリンもKashmirも、きっと百年後も二百年後も音楽ファンの心を鷲掴みにするだろう。

そういう意味では、「本当に価値のある曲」を作った人は、何も心配することなどないのだ。

今、この瞬間、数万ドルを稼ぐ事はできなくても、百年、二百年と渡って、塵のように稼ぎ続ける。その頃には肉体はこの世になくても、あなたの名前も作品も不滅である。

レコードという物語

最近、アナログレコードが売り上げを伸ばしているという。

うちの近所の家電量販店も、DVD売り場の1/3がアナログレコードに置き換わった。

30年以上前に目にした以来の、あのジャケットが、どーんと売り場の顔になっているのは感無量だ。今、若い人の目で見ても十分に魅力的だろう。

私たちがそうだったように、彼らもまた自身を構築するアイテムの一つとしてこれらのジャケットを部屋に飾るに違いない。

  

これもどこのウェブサイトで目にしたのか、まったく記憶にないけれど、「なぜ音楽が売れなくなったのか」というコラムで、「お目当ての一曲だけをダウンロード購入できるようになったから」という話があった。

以前はCDもしくはレコードでアルバムを丸ごと購入して、「お目当ての一曲」以外も耳にする機会があったが、iTuneなどの登場で「お目当て」だけを手に入れられるようになり、「自分の関心ある曲以外は聴かない」という習慣がアーティストへの執着を薄め、結果として売り上げの低下招いている……というのである。

確かに、それもあるかもしれない。

本来、CDでもレコードでも、アーティストの『アルバム』というのは、最初から最後まで『物語』をもっていた。

『Kashmir』が収録されているアルバムはフィジカル・グラフィティ Physical Graffitiというのだが、一曲目のCustard Pieから割と淡々と進んで、A面の最後にこれを持ってくる意外性がたまらん。

もしかしたら、A面の一曲目でも良かったような気もするが、のっけにKashmirで精気を抜かれては後が続かない、という計算もあったかもしれない。

そしてKashmirでA面を聞き終えたリスナーが、よいしょと重い腰を上げてレコード盤をひっくり返し、また異なる雰囲気をもったB面のIn the Light へと針を進める。

この微妙な合間がリスナーの聴覚をリフレッシュし、「Kashmirがあれだけ凄かったんだからB面はどれほど驚かせてくれるんだろう」という期待を掻き立てる。

こうした作り手の駆け引きが随所に見られたのがアナログレコードであり、そこにはアーティストやプロデューサーの哲学と感性が如実に表れる。

リスナーは、企画からアレンジ、レコーディング、ジャケット作成、店頭販売に至るまでの『物語』を愉しみ、作り手の『すったもんだ(=産みの苦しみ)』に愛と親近感を覚えたのだ。

そして、いいものを聞かせてもらった時、心からこう言う。「ありがとう」。

本当のファンとの交流は、こういう気持ちを言うのではないかと思ったりする。

*

ところで、この『アルバムの物語』を語る時、忘れてはならないのが、「A面からB面への儀式」である。

私はLP&EPレコードから始まって、二十代半ばにCDに移行したのだけれど、その時、何が嬉しかったって、音質どうこうよりも、「A面からB面にひっくり返さなくていい」という便利さだ。

たとえば、寝ながらLPレコードを聴くとする。

すると、必ず、5曲目あたりでレコードを裏面にひっくり返す必要が生じる。

あそこでノソっと起き出してプレーヤーまで行くのが面倒くさい。

自分で作業しなければ、レコード針はいつまでもレコード盤の上でブツブツいってるし(後記には自動で収納されるプレーヤーが登場しましたが)、放置すれば針の先が摩耗して、レコード盤を傷める原因になる。

盤が傷めば、もう次はない。ぷつぷつ、ぴちぴちしたノイズを一生聞き続けることになる。

そんなわけで、「あー、邪魔くせー」と思いながらも寝床から起き上がり、プレーヤーまで行って、レコード針を持ち上げ、レコード盤をひっくり返し、もう一度、レコード針をレコード盤に載せる儀式に及ぶ。

この作業が省かれ、アルバムの一曲目から最後まで、寝ながら聞く事ができる、おまけにランダムやリピートもあるぞ……という『便利さ』が、私にとってのCD(デジタル音楽)の意義だった。

そして時代はさらに進み、「アルバム」から、「にぎり寿司」の世界へと移り変わった。

スーパーでパック寿司を買うのではなく、カウンターで「トロ」と欲しいものだけ注文する『つまみ聞き』だ。

寿司はトロだけ食ってればいい、という人には便利で安いが、トロばかり食べていると必ず飽きる。

だからといって、トロ以外に何がどう美味しいのか、まったく解らない。

そこで「友だちのおすすめ」や「タグづけされた洞ジャンル」を頼る。

だが、それもまたトロの周辺に限定された味なのだ。うっかりウニを口にしてオエっと吐き出すこともなければ、穴子の思いがけない美味しさに感動することもない。

パック寿司は好みでない握りも入っているが、「とりあえず食してみる」という点で様々な情報をくれる。

少なくとも好みの味を知る手掛かりにはなるだろう。

そして今「トロ、一丁」に飽きてきた人たちが、「パック寿司」、それも「個性的な包装紙」で演出された商品に食指を動かし始めたのは、実は『寿司』というものが「トロ単品」で存在するのではなく、「トロはあくまで寿司芸術を構成する一つの種類に過ぎない」ということに気付いたからではないか。

確かに、音楽は「一曲」として存在するものだ。

だが、どの曲も突発的に生まれることはなく、そこには必ず道筋がある。

ツェッペリンもクイーンもKISSも、のっけから「天国への階段」や「伝説のチャンピオン」を作曲したわけではなく、徐々に創作の階段を上ってあの境地に辿り着いたわけだ。

そしてアルバムを通して聴いていると、その道筋がファンの耳にもはっきり聞こえてくる。

内情を知るディープなファンなら、「ああ、この頃、ベーシストの●●とヴォーカルの▲▲が揉めてたんだよなぁ」「同時期のローリングストーンズに影響されてるよな」なんて思い巡らせたりする。

リスナーは一方的に音楽を聴いているのではなく、その背景や成長の過程も味わっているものなのだ。

音楽にも回帰がある

浮いたり沈んだり、昨今は業界もテクノロジーも移り変わりが激しい。

今日流行ったものが明日にはもう売れなくなる。

それに右往左往したくはないが、生き残る為には、うかうかしておれぬのが現状だ。

だが音楽に限って言えば、本物の音楽好きは、鮭が故郷に帰るように原点に戻ってくるし、レコードが復活しようが、新手の配信サービスが登場しようが、「きれいな曲」や「斬新な曲」は、いつの時代も人の心をとらえて離さないものだ。

「天国への階段」も「Kashmir」も、友だちのスマホやカーステレオや音楽SNSの同好やYouTubeのコメントや、様々な媒体を通して必ず後世に伝わるし、CDが絶滅しても音楽そのものは永久に残る。

長い目で見れば、(その時に)売れなくても、やはり「いい曲」を作った人が最後には「不滅の座」を手に入れるのではないだろうか。

その作曲活動も「売れなきゃ維持できない」状況になってはいるが、「いいものは、表に出せば生き残るチャンスがある」と思うし、「リスナーはそこまで馬鹿ではない」ことも信じて欲しい。

もしかしたら、パック寿司を食べたことがない私たちより若い世代は、ただ「知らないだけ」ではないか、と。

ともあれ、若いリスナーには、アナログレコードを通じて「A面からB面にひっくり返す儀式」をどんどん体験して欲しいし、とりわけ昔のアルバムがストーリー性を持ったものだということを感じ取って欲しい。

いつの日か、10円20円でも、リスナーの感動を手軽に作り手に還元できるシステムが整備されることを願っている。

Photo:http://www.allmusic.com/artist/led-zeppelin-mn0000139026