痛みの効用 ~過保護が子供をダメにするワケ~

私の住んでいる町にも、ようやく『Media Markt』という大型電機量販店が登場した。日本で言えば、「J&P」や「ミドリ電化」のようなチェーン・グループの支店の一つである。

ジャスコやSEIYUを彷彿とさせるような広い建物内に、Philips、Braun、Thomsonといった世界的企業の製品から、Sony、Panasonic、Toshibaといった日本の大手メーカーの製品まで、いろんな種類の電化製品が所狭しと並び、店内は大勢のお客さんでごった返し。
なにせ、町を中心とする半径40~60km内に、こんな大型電機量販店がオープンするのは希有なことなので、それこそ数時間かけて車を飛ばして買い付けに来る市外からの客も多く、オープン当日から週末にかけては、町周辺の主要道路が大渋滞になるほどの大騒ぎだった。
日本で言えば、京都に近畿初の百貨店ができて、奈良や和歌山から買い物客が殺到するようなものである。

ポーランドの田舎もどんどん欧米化しつつある。
私は大量消費社会の申し子なので、我が町にに大型量販店が続々とオープンし、買い物客が殺到して、どんどん札束が舞い飛ぶ光景は嬉しい。
人の話を聞く限り、「ミルクもバターも一種類しかなく、買い物客は長蛇の列をなして、カウンターに陳列されたそれらの商品をクラークに言い付けて、取ってもらう(自分で商品を直接手にとって、Aにするか、Bにするかという選択の余地はなし)。町にはカフェが一つあるだけで、それも国営、店員は黙っていてもお金がもらえるので無愛想」という共産主義社会は、私の目から見れば尋常とは思えないからだ。

もちろん、大型量販店が次々に登場すれば、隣接するスーパーはもちろん、細々とした小売り店はもろに影響を受け、売り上げはガタ落ち、下手すれば倒産の憂き目に合うかもしれない。
その点、共産主義なら、全てが国営で、絶対的に保証されるため、倒産だの、閉店だのという心配とは無縁だし、経営者が負債に追われて首を吊る悲劇も避けられる。
「皆に平等で、優しい」と言えば、そうかもしれない。

だが、競争の無い社会に発展はない。
大阪に居た頃、近所のスーパーの客取り合戦を見て、そう思った。
行き付けのスーパーが全店改装する時は、決まって近くに新しいスーパーがオープンする時だったから。

前に勤めていた会社の近くには、有名な大手スーパーがあった。
その界隈で唯一の大型スーパーだったこともあって、黄ばんだキャベツでも、カビの生えたトマトでも平気で売っていた。
が、「安さ」「新鮮」をモットーにした中型店が500メートルほど離れた所に出来ると、そのスーパーの食品売り場からはたちまち買い物客の姿が消えた。
数年後、その大手スーパーのグループが多額の負債を抱えて倒産した事実がセンセーショナルに伝えられた。
「やっぱりね」というのが、一度でもそこで買い物したことのある人の感想だ。
人間でも、スーパーでも、一人勝ちしだすとろくなことはない。

今は何でも「平等」「公平」が叫ばれ、運動会の100メートル競走でさえ順位をつけない所があるという。
が、『競争』はそれほどまでに悪い事なのだろうか。

競争があるから、人は頑張るし、生き残る為の努力をする。
自分の力量を客観的に知ることが出来る。
この世には、足の遅い人もいれば、数学の苦手な人もいて、それが現実であり、人間の個性である。

「6位は可哀想だから、順位を無くしましょう」というのは、人に優しいように見えて6位を否定している事に他ならず、本当の公平というのは、1位も6位もこだわりなく扱う事ではないだろうか。

商売も同じだ。
商売を始めたからには、誰もが必死で努力する。
どうすれば売れるか、どうすれば顧客が付くか、みな真剣に考える。
その上で、誠実な商売をしている人が、それなりの報酬を得るのは当然の事だし、先の大手スーパーのような手抜きの商売人が「あいつは10億儲けて、オレはたったの1000万」と嘆いても、それは不公平でも何でもない。
むしろ、頑張った人が、頑張っただけの報酬を得られない事が、本当の不公平であり、健全な社会は、そうあってはならないのだと思う。

もちろん、力及ばず、破産や倒産に追い込まれた人に対しては、社会的に救済、支援すればいい。また、そうした制度を整えることが、新しい起業家を育て、経済を活性化し、チャレンジしがいのある社会を作るのではないかと思う。

共産主義が崩壊して、ジェシュフのような田舎町にも外資系の大型量販店が続々登場するようになった。
若い店員さんたちは、日本のタワー・レコードやHMVでアルバイトしている若い子たちと変わらないし、家のポストに投げ込まれるチラシの数や種類も日に日に増えつつある。
もう昔のように、「黙っていてもお金が入る」時代ではなくなったので、そういう体質をいまだに引きずっている古い世代も、これを機会に『競争』の重みを理解してくれればいいなあと思う。
やはり経済の基盤なくして公共の幸せもあり得ない、と、ニッポンの一消費者は考えるから。

ところで……

オープン間無しのMedia Marktで私が買ったのは、Braunのフードプロセッサー・セット。
さすが「プラーク・コントロール」で有名なBarunだけあって、ミキサーもプロセッサーもモーターが良く回る。

購入した第一の理由は、「挽き肉を作りたいから」。

ポーランドのスーパーには、いわゆる「ミンチ」はほとんど置いてない。
あったとしても、有り余った古い肉を挽いて詰め合わせたような、非常に脂っこいものである。
一度、ブタの挽き肉を買って、麻婆豆腐を作ったことがあるが、お玉ですくえるほど脂がしみ出して、鼻が曲がりそうに臭かった。
それで、挽き肉を使った料理を作る時は、解凍しかけのブロック肉を包丁で刻んだり、おろし金ですり下ろしたりして、細かくしていたのだが、とにかく時間が掛かって仕方ない。
フードプロセッサーやミキサーがあれば、どんなに助かるだろうと思っていたが、ジェシュフ市のスーパーはなにせ品薄なもので、中途半端な買い物をするぐらいなら、良い製品が入ってくるまで待とうと考えたのだ。

今回、Media Markt で見つけたBraunのそれは、フードプロセッサーに、泡立て器、容量200ccほどのミニ・ミキサー、ジュース用のボトルがセットになったもので、日本円で3700円ほど。品質も良い。

さっそく、帰りに豚肉のブロックを250グラム購入し、ミキサーを使って挽き肉を作ったのだが、容器の底に刃物が付いている事を忘れて、挽き肉の中に手を突っ込んだから、さあ大変。
ブロックをたった5秒でミンチにしてしまうほどの鋭利な刃物だけあって、右手の人差し指が深々と切れてしまった。
久々に、目から火が出るような痛みだった。

が、そこは元看護婦。
洗面所に駆け込んで、傷口を水で流した後、過酸化水素水をたっぷりかけて、10分ほど化粧用のコットン綿で圧迫止血。
最初はかなりの出血で、「これは縫合が必要かな」とも思ったが、どんな傷口も、血球に含まれるトロンボプラスチンの働きで切れた血管が塞がり、ゲル状のフィブリンによって組織が結合するものだから、大丈夫――と、やけに冷静に考えながら圧迫するうちに、私はふと考えた。

面白がって人を殺めたり、傷つけたりする若い子たちは、一度でも台所仕事をしたことがあるのかな、と。

小学校に上がり、図工の時間に、ハサミやカッターナイフを扱うことを覚えると、家でも包丁の使い方を覚えたくなる。
お母さんがやるみたいに、自分でリンゴの皮を剥きたくなる。
そこで、小さな果物ナイフを使って、リンゴの皮むきに挑戦するのだけれど、最初はやはり上手く行かないし、指を傷つけることも一度や二度ではない。
時には、指の腹を深々と切って、大泣きすることもある。

それでも、少しずつ包丁の使い方を覚え、大根のかつら剥きも、キャベツの千切りも、難なくこなせるようになる。

その過程で、傷つくことの痛みや恐れも学習する。

人に刃物を向ける時、まともな人間なら、その時の痛みを思い出すのではないだろうか。

この世には、「先天性無痛無汗症」といって、痛みも感じなければ、汗もかかないという遺伝子の病気がある。

「痛みを感じない」なんて、羨ましいと思うだろう。

が、実際には、痛みを感じない子供達は、生きるか死ぬかの危険に常にさらされている。
何故なら、手を切っても、骨を折っても、痛みを感じないので、平気で屋根から飛び降りたり、火や刃物に触ったりしてしまうからだ。

「痛み」というのは、動物としての危機意識であり、防御能力である。
「痛み」を感じるから、私たちは、それが危険であることを知り、身を守る術を学ぶ。
「痛みが分からない」ということは、すなわち、動物としてまったく無防備な状態で生きていることに他ならない。
まして相手が子供なら、親はどのようにしてそれが危険であることを教えればいいのだろう。
普通は、生活体験の中からそれを学んでいくのだけれど。

「人を殺してみたい」
「ムカつくから、刺した」

いまだに、そういう事件が後を絶たない。

暴力的な映画やTVゲームが原因とする見方もある。
家庭内不和やイジメ、放任などがベースにあるという考え方もある。

それでも、他人の痛みに対する想像力がそこまで麻痺してしまうものだろうかと、時々、思う。
普通は、ナイフを手にしただけで、それが危険であることを認識し、自分の体験した「痛み」を思い起こすものだけれど。

よく、「人の痛みの分かる人間になりなさい」と言う。
でも、「痛み」というのは、実際にその痛みを経験した者にしか分からない。私たちが、「その痛み、分かるわ」という時、実際に同じ痛みを体験した者以外は、想像で言うしかないものだ。

その点、身体の痛みは、誰もに共通する体験である。

「包丁で指を切った」
「ドアで指をつめた」
「机の角で頭を打った」

包丁で人間の身体を刺せばどうなるか、思いやる以前の問題である。

にもかかわらず、それが実行できるということは、自分自身が打ったり、切ったり、火傷したり、という生活体験が乏しいのかなと思ったりする。

「痛み」というものが、人間に与えられた生の能力とするなら、「人を殺したい」若い子達に欠けているのは、優しさや思いやりではなく、生きた人間としての実体験ではないだろうか。

[ 記 03/11/13]

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