恋と女性の生き方

女の子の幸せって何だ?

2004年4月1日

先日、女の子が生まれる夢を見ました。
私は、絶対的に男の子だと確信していたので、この夢は以外でした。

聞くところによれば、この時期、妊婦はしばしば自分の子供の夢を見るそうで、夢の中に現れる子供の性別が現実でもその通りである確率が非常に高いそうです。

ということは、私の勘の裏をかいて、女の子なんでしょうか。

でも、夢の中で、子供に向かって語りかけていた名前は、姪っ子の名前なので、あまり当てにはならないですけどね。

ところで、私は、女の子に関しては、不思議なくらい欲がないのです。

女の子は、なまじ夢や野心や才能など持たず、平々凡々と生きて欲しい――女の子は、いい男に愛されて、大事にされればそれでいい――という考えが、非常に根強いんですね。

時代の流れに沿っていえば、それが自然なのかもしれません。
なぜなら、私たちの母親の世代は、『女性もこれからは技術や才能を磨いて、一人でも生きていける力を身に付けなければならない』という考えが圧倒的に強かったからです。

が、結果的に、ウーマン・リブがどうなったかといえば、幸も不幸も半々という感じで、『女性が目覚ましく幸福を得た』という印象はどこにもありません。
むしろ、突出したものの無い、平凡な女性には、かえって幸せになるのが難しい時代になってしまったのではないか、という気がします。

そんな訳で、私は、自分の娘には、「くだらない男に引っ掛かるな」という以外は、まったくといっていいほど欲がありません。

自分のこれまでの道程を振り返ってみれば、それ以外に女が留意しなければならないことなど何一つないからです。

もちろん、くだらない男に引っ掛からないようにするには、それ相応の意志と器量と知性が必要ですが。

世の中には、自分の娘に、あれもこれもさせたがるお母さん方が少なくないですが、私にはその気持ちだけはよく分かりません。
意地の悪い言い方をさせてもらえば、娘にあれこれ野心を燃やすのは、本人さんがよほど才能とはかけ離れた所で生きてこられたからではないかと思うことしきりです。

本当に才能があれば、才能を開花させるのに苦労はしません。
(もちろん、稽古や鍛錬の厳しさとはまったく別問題ですよ)

たとえば、本当にバレエの才能があるなら、上手く踊るために苦労はしても、バレリーナになるために苦労はしないのです。

そこを履き違えて、「娘をバレリーナにする為に」「娘をピアニストにする為に」、母親の方が躍起になりだしたら、これは母娘ともども悲劇ではないかと思ったりもします。
子供が夢中になる分は、面白いのですけれど。

私も『本当に才能のある人』というのを、何人か、間近で見てきたから言うのですが、才能というのは、一口に言えば『確信』、他人に認めてもらう以前に、宗教のように絶対的に信じられるものではないかと思います。
他人に、「あなた、才能があるんじゃない」と言われる以前に、本人がすでに自覚しているのです。
だから、こき下ろされようが、未熟だろうが、盲目的に突き進んで行ける――それ以外に道がないから、そうせざるを得ない――、それが本物の『才能』ではないでしょうか。
言い換えれば、他人に、「私はどうですか、才能ありますか」と聞いているうちは、本物ではないのです。

もちろん、一つや二つ、特技があるにこしたことはありません。
でも、「才能」と「得意技」を勘違いしてはいけない。
まして、親が野心を燃やせば、子供はどこかでパンクすると、私は思わずにいないんですよ。

まあ、私の娘が、私の後ろ姿を見て、私の生き方や考え方をどう評価するかは分かりませんが、女の子に限らず、「人間は自分の身の丈に合ったところで、程よく生きればいいんだよ」ということを教えるだろうと思います。

それは「野心を持つな」「大層なことを考えるな」という意味ではなく、人間は、真摯に生きている限り、日に日に成長するものだから、今日明日に無理に器を広げようとしなくても、気が付けば、はるか高みに到達しているものだ、という事です。

ともあれ、女の子……『女性』というものは、まず人間関係をベースに幸せを築いていくものだから、その能力だけは豊かであって欲しいなと思います。

その上で、くだらない男に引っ掛からない為のノウハウを磨きつつ、器の大きい、いい男のところに嫁いでくれるのが、私の一番の望みですね(笑)

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