育児と家庭

『本好き』な子供に育てたい

2009年2月19日

[alert type=”warning”]複数のエピソードをつなげているので、読みにくいと思います。スミマセン [/alert]

先日、ベネッセの教育情報サイトで、次のような記事を拝見しました。

『8割の親が「国語の成績と読書量に相関アリ」でも読書量には不満?』

http://benesse.jp/blog/20090212/p1.html

子供が本を読まないことに対して、危機感を持っている親の話です。

私はこの記事を読んで、申し訳ないけども、親がこういう発想では子供が本好きになるわけがない、と思いました。

『本』って、国語の成績を上げる為に読むものではないし、誰かに「これを読め」と指示されて読むものでもないですよね。

そもそも、「国語の成績」って何でしょう。

テストの点数じゃないですか。

あんなの、文章を深く味あわなくても、国語のドリルを何冊もこなしていたら、自ずと正解が導き出せるテクニックが身につくものだし、「漢字の書き取り」や「文法の知識」と「作品の本質を理解する文学的感性」はまた別物であって、一つのテストで推し量れるものではないと思います。

実際、Amazon.comのカスタマー・レビューなんか読んでますと、横文字や専門用語を駆使して、一見高度な文章を書いている割には、作品の本質からまったくかけ離れたような、トンチンカンな書評を書いておられる方がたまにおられますでしょう。

そうかと思えば、三行ぐらいの平易な文章で、ずばり本質を突いている人もある。

漢字に通じ、難解な文章を読みこなしたり組み立てたりする能力と、作品の本質を感じ取って、自分のものに昇華する文学的センスは、必ずしも比例しないし、千冊読破したからといって、変わらない人は何も変わらない。

『論語読みの論語知らず』と言われる所以です。

前に、プロの作家が、「自分の作品を受験問題に使われた。オレでも正解できない内容だった」と嫌みで書いておられましたが、国語のテストなんて、作る側の感性と意図に大きく左右されており、絶対じゃないんですよ。

だから、「国語のテストの点数が良くないから、うちの子には読解力がない」とか、「本をたくさん読めば、国語の成績がアップする」とか、そんな上辺だけに振り回されて、子供の読書習慣にまで手出し口出していたら、子供だってたまらんですよ。

私の小学校の同級生で、図書室の常連で、世界名作文学なんか読んでいる子がいましたけど、高尚なものを読んでいる割には、陰でめっちゃ意地悪だったし、そうかと思えば、成績はいつも低空飛行だけど、『シートン動物記』と『ファーブル昆虫記』は全巻読破していて「動物博士」の異名をとって
いた子もいましたし。

何がどう身に付いているかは、国語のテストだけでは測れないと私は思います。

記事によると、親が子供に読んで欲しい本は次の通り。

偉人の伝記
『モモ(ミヒャエル・エンデ)』
『星の王子さま』(サン=テグジュペリ)
『赤毛のアン』シリーズ(モンゴメリ)
『三国志』(吉川英治ほか)
『シートン動物記』(シートン)
『坊ちゃん』(夏目漱石)
『ドリトル先生』シリーズ(ロフティング)
『銀河鉄道の夜』(宮沢賢治)
『ナルニア国ものがたり』シリーズ(ルイス)

しかしね。

今の子供が暮らしている環境をご覧なさいよ。

子供達が知りたがっていることは、こんな事じゃないですよ。

今は、小学生の子が読む少女漫画にさえ、

「わたし……何のためにココに居るのかわからない……」

「生きてたってしかたない」

「ここがわたしの生きる場所、わたしがわたしで居られる場所・・あったかい仲間・・」

なんて台詞が出てくるんです。

私の世代が夢中になった少女漫画には、薄幸少女の恨み節──『どうして私だけがこんな目に合うの・・!』みたいなのはあっても、根本的に自己の存在を疑うようなテーマは出てきませんでした。

「生きていても仕方ない」とか「何のために生きているのか分からない」といった台詞が、小学生の読むような漫画・アニメにも登場するようになったのは、ここ数年の話です。

これがどういうことか分かりますか?

今は、10歳ぐらいの子供でさえ自己肯定感が持てず、その苦しみを分かち合える等身大の理解者をマンガの中に探している。

『赤毛のアン』みたいに自己肯定感に満ちあふれた少女らしい日常や、『三国志』の英雄の力強さは彼らの対極にあるもので、もはや現代の子供達にとってアトラクティブな存在ではなくなってるんですよ。(その他大勢という意味で)
いわば、現実感や親近感が持てないのね。

それよりも、自己の存在に肯定感が持てず、孤独感と淋しさを心に秘めた女の子が、日常のふとした出来事にほんの少し生きる希望を持ち、「あたしもココに居ていいんだ」みたいなストーリーや、「実は、あなたは、偉大な妖精王○○の息子なのです」という、第二の自分を生き始めるファンタジーの方が彼らには心地よく、親しみが持てる。

彼らの孤独や淋しさを理解してくれるのは、溌剌としたアンではなく、イマドキの少女漫画のヒロインという感じで。

その証拠に、女子高生の間では、登場人物が自殺未遂したり、ドラッグに溺れてとことん転落するような、不幸を絵に描いたようなケータイ小説が大人気でしょう。

彼女たちだって、自分の心に響く言葉を求めている。

読解力がないから、アタマが悪いから、親が良しとするような良質な文学作品を読まないのではなく、今時のティーンの心の葛藤をリアルに映し出したマンガやケータイ小説の方が、より彼女らに近い──というのも大きな理由の一つだと私は思います。

ところで、「子供を本好きにさせたい」という親の願望。

根っこにあるのは何ですか?

国語力をアップして、いい学校に行って欲しいから?

それとも、「本好きである」ということ自体が、親の一つの勲章になるからでしょうか。

私の祖母──この方は、我が家の店舗のオーナーであり、血のつながりのない方だったのですが──、私と姉に独特の教育をしていました。

親戚一同に学の高い人が多かったこともあり、「これからの時代、女も学問を身につけなければならない」というのが口癖だったのです。

だからといって、高学歴を信奉するタイプではなく、「なぜ学問を身につけなければならないのか」という哲学を芯に持っている人でした。

だから、祖母の一言一言が、支配や押しつけではなく、尊く聞こえたのです。

たとえば、紙を粗末にしたら、

「お前達は、死んだら、三途の川で紙の橋を渡ることになる。紙の橋は、その場で破れて、お前達は地獄に流されるだろう。紙を粗末にしてはいけない。紙は人間が知識を書き留めるものだ。それを無駄にするということは、人間を粗末にするということなんだよ」

路地の壁を汚したら、

「ここは神さまの通り道。神さまを粗末にしたら、目が潰れます」

幼稚園の頃から、寺や神社の説法によく連れて行かれたし、しつけにも厳しくて、うちの姉は何度も電信柱に縛られ、私も階段の柵にくくりつけられたことがありました。

だからといって、恐怖したり、ひねくれたりすることはなく、なんかこう、素直に「ゴメンナサイ」
と言えるオーラを持った人だったんですね。

そんな祖母に一番きつく叱られたのが、『本や新聞をまたいだり、踏んだりすること』。

「本をまたぐということは、人さまの頭をまたぐのと同じ事」「新聞を踏んだら、知恵を取られる」と、厳しく言い聞かされてきました。

お行儀が悪いからではありません。

本というのは、いわば人間の英知の結晶であり、それを踏んだり、またいだりするということは、それを書いた人の知恵や労力を踏みにじることだからです。

もちろん、その意味を理解したのは十代になってからですが、幼な心にも祖母の真摯な言葉は心に響きました。

最初は形だけでも本や新聞を丁寧に扱うことによって、それに対する侵しがたい気持ちが、日に日に育まれていったのです。

その代わり、子供が興味を持つものに対しては、いっさい口出ししませんでした。

姉と二人で本屋に行って、家に帰ってくると、

「なに買うたん?」

「『世界妖怪図鑑』」

「あんたも、キショクのわるいもんを読むんやな~」

そんで終わり。

「どうして芥川を買わないの、偉人伝じゃないの」なんてこと、一言も言いませんでした。

だから、楽しかったです。

心の琴線に触れるものなら、何でも手にとって読みたいと思いました。

世界妖怪図鑑なんて本のうちに入らない、と思います?

でも、妖怪図鑑や悪魔世界の知識が、後々、キリスト教や各国文化を理解する上で大いに役立ったんです。

たとえば、アフリカに『氷の魔人』は登場しません。(あそこには竜巻や砂嵐の悪魔が住んでいる)そういう妖怪が出てくるのは、たいてい北欧です。
北欧の厳しい冬が、身長30メートルもある大男で、夜中に墓を掘り起こしては、凍りついた死体を民家の屋根にバラバラと投げて歩き回る氷の魔人を生み出したのです。(多分、夜中にバサっと落ちる雪の音が、そういう魔物を連想させたのでしょうね)

そう考えると、妖怪一つにも地方独特の気候や精神風土が反映されていて面白いなあと思うし、昔の人の知恵や想像力に感嘆せずにいないわけです。
そういうのが入り口になって、次はギリシャ神話、次はキリスト教と、どんどん好奇心の輪が広がっていくんですよね。

夏目漱石が、良い文学よ。

世界妖怪図鑑なんて、ダメよ。

そんなことを言われて、好奇心が育つでしょうか。

本を読むのは、国語力をアップするため?

だったら、芥川や夏目漱石に聞いて下さい。

彼らは子供の国語力を高めるために、命を懸けて小説を書いたのではないです。

魂の奥から突き上げるような創作への渇望、エゴと愛の葛藤、生と孤独の苦しみを、「今、書かずには生きていけない」ほどの情熱をもって、一本の小説に完成させたわけでしょう。

子供の国語力アップを期待して、世界名作文学を読ませようとするのなら、それは文学に対する冒涜ではないでしょうか。

本好きが最後に辿り着く境地は、『人間の英知に対する敬意』です。

多くの悩み苦しみを超えて、よくぞ書いて下さったという、湧き上がるような感謝の気持ち。

人間がこれほどまでに深く偉大であるということに対する畏敬の念。

それが分かってはじめて本を大切にできるし、また読みたいと思う。

古今東西の作家や哲学者を心の友に、人生を豊かに生きる喜びを知るのです。


国語で40点ぐらいしか取れない子供でも、

「『人間五十年 夢幻のごとく』って、死んだら何もかも無駄になる……ということ?」

なんて聞いてきたら、私なら手を叩いて喜びますし、

「ボクも、みんなが蜘蛛の糸にしがみついてきたら、イヤだな」

と言ったら、

「ええとこに気がついたなぁ。そうなんよ、この作品のテーマは、人間のどうしようもないエゴにあるんよ。だから、『ボクもそういうとこある』に気付いたということは、テーマの核心に一歩近づいた、ということなんだよ」

そこに気持ちを持っていきますよ。

「カンダタのように心が冷たいのはいけないことです」と読書感想文にもっともらしく書いて100点もらうより、「ボクもみんなを蹴落とすかもしれない。そしたら地獄に堕ちるんやろか・・」と本気で心配する方が、うんと大事だと思いませんか。

でも、そういう遊び心は、親が「国語力アップ」を期待していると、育たなくなるんです。

そんなこと心配するより、世界名作文学を読破した方が、親が喜ぶのが分かってるから。

『蜘蛛の糸』一本で立ち止まるより、次から次に読むのが正しい読書のあり方だと思っているから。

量をこなすことが読書だと思い込んでいる限り、一冊の本を味わいつくす悦びには巡り会えません。

また文部省認定の良書だけが知性と心を育むと思っていたら、大間違いです。

森村誠一の不条理な悲劇が、人間の真実を知らしめることもあります。

勉強の匂いのする読書なんて、鬱陶しいだけだと思います。

子供が等身大のマンガやアニメに走るのも、親が良しとするものの中に、彼らが今必要とするものが見つからないからかもしれません。

***

私も子供の頃、祖母や母やお手伝いさんによく本を読んでもらいましたけど、

「これだけ読み聞かせれば、頭が良くなるだろう」とか、
「うちの子は、もうこんな難しい本も読みこなせますのよ、ホホ」とか、

そんなこと、いっさい期待しないタイプでしたね。

「ほら、この字は、なんて読むの?」
「その時、赤ずきんちゃんは、どんな気持ちだったのかな」

なんちゅう質問攻めも無かったし。

まあ、純粋に、子供が可愛いから読む。

日頃、あんまりよく相手してやれないから、読む。

そんな感じでした。

だから、読んだらさっさと寝てしまうし、それについて深く話し合ったこともない。

ページを追いながら、

「カメに抜かされたウサギって、何時間ぐらい寝てたんやろ。カメの歩く速度から考えたら、一時間や二時間ではないよな。半日以上は続けて寝ないと、話に無理があると思うんやけど、そんなに長く眠れるものかなぁ」

「首の長いツボに入った肉団子(イソップ物語)は、パフェ用のスプーンを使っても食べられへんのやろか。鶴の作る肉団子って、やっぱ甘酢あんかけ? キツネの作るスープはコンソメやろなぁ」

とか、そんなことばっかり考えていた記憶があります。

だから、楽しかった。

もし読み聞かせの途中で、「この字はなんて読むの?」なんて質問されたら、私の空想はそこで止まっていたでしょう。

お勉強の匂いのする読書に、きっと拒否反応を起こしていたと思います。

子供の本好きに水を差しているのは、読み聞かせで学力アップなんて考えている、親自身かもしれないですよ。

*** 

マンガ漬けになっている子供を見ていると、時々、思うことがあります。

昔の子供が、明智小五郎と少年探偵団シリーズに夢中になったのは、やはり時代背景が同じだったからじゃないかな、って。

今となっては古くさい設定よりは、現代の子供には、『探偵コナン』や『金田一少年の事件簿』に出てくるような、最先端科学の雑学やトリックの方が面白いだろうし、話の展開もスピーディで、さっと読み終われるでしょう。

今の子たちは忙しいし、本を読みかけても「宿題は? 明日の用意は?」って、横からゴチャゴチャ口出しされて、そんなんなら、15分ぐらいで読み終われる漫画の方が集中しやすいんじゃないかとも思います。

そしてまた、マンガに勝るようなキャラクターや物語を世に出せない作り手にも、責任の一端はあるでしょう。

作っても、売れない。売れないから、ますます作らない。

その悪循環の中においてけぼりにされている、という印象もあります。

実際、ボーイズラブやケータイ小説なんかはよく売れているみたいだし、美輪明宏さんや水谷修さんのような、ティーンに向けた心のエッセーを一所懸命に読んでいる女の子もたくさんいます。
本当に活字に興味をなくして読まなくなっている……とは言い難いのではないか、と私は思います。

彼らは今この瞬間にも、心に響く言葉を求めています。

親と作り手が、それに気付いてないだけかもしれません。

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