ヒロインの変遷  オスカルとマリーアントワネット

私が「ベルばら」にすっ転んだのは小学校四年生の時です。
NHKで見た宝塚劇場中継がきっかけでした。
その頃は、愛だの恋だのという話はもちろん、生き甲斐だの、人生だのというテーマにも何の関心もなかったので、『オスカル』というヒロインとの出会いは、それは大きいものでした。
「男として、男の人生を生きる」とか、「女でありながら、これほどまで広い世界を、人間として生きる道を与えて下さったことに感謝します」とか。
その一言一句に心底ひかれたと同時に、一人の男にここまで深く愛し、愛される事に、女としての一つの理想の生き方を見ないではいませんでした。

ちなみに、「男と女が裸で愛し合う=SEX」を教えてくれたのも、「ベルばら」が最初です。
子供心にあのシーンはめちゃくちゃ心を濡らしたし、「いつか私も大人になったらこういう事をするんだ~、シーツの下はどうなってるの~、キャ~~(*^^*)」なんて、布団の中で隠れて読みながらドキドキしていたものでした。 (こんなもん、親に見つかったら没収ですからね)

酒井順子さんも書いておられましたが、私たち三十代後半から四十代前半の世代というのは、母親から 「女も一人で生きられるよう、自立しなければならない」 「男と対等に生きられるよう、知識や技術を身に付けなければならない」 と、耳にタコができるほど言い聞かされて育ったものです。
そして、母親の言う「自立」とか「男のように」とかいう新しい女の生き方を見事に具現してくれたのが、オスカルでした。

恐らく、原作者の池田理代子さん自身、こうした理想に心を燃やしておられたのでしょう。
理代子さんがこの作品を手掛けられたのは24歳から27歳にかけて、女の人生で言えば、親元から完全に離れて、自分自身の力で人生を切り開いてゆく年頃です。
しかも、理代子先生の時代において、24歳から27歳というのはまさに結婚適齢期。
当時はまだ「結婚するのが当たり前」でしたから、漫画家として自立しようとする理代子さんの心意気は、オスカル同様、非常に革新的で、「そうしたいけれど、そうできない」保守的な女性にとって、まさに理想そのものだったのではないかと思います。

そしてまた、苦しい時も、悲しい時も、影のように傍に付き従い、全てを黙って受けとめてくれるアンドレという男性も、自立して生きようとする女性にとっては、まさに夢に描いたような理想のお相手でした。

いわば、「ベルばら」には、多くの女性が「こうありたい」と願う要素が固形ブイヨンのようにギュっと詰まった「女のバイブル」であり、そこに描かれた哲学は世代を超えて永遠に続く女性の課題でもあるのです。

それにしても、非常に興味深いのが、原作者である理代子先生の考え方の変遷です。

この作品が理代子先生の一つの真実であることは変わりないけれど、今、振り返ると、「そうではない」という感じがする……というような事を、二年ほど前、雑誌の対談で語っておられたことを思い出します。

理代子先生が特に強調されていたのが、「理想の男性像」。

あの頃は、理代子先生はもちろん、先生の親友らも、アンドレに理想の男性を見ていたのですが、世間を知り、年をとってくると、品も教養も兼ね備えた貴公子フェルゼンの方が男らしく思えるようになってくるとか。

彼女らいわく、女もいろいろ経験を重ねると、「愛と誠実だけでは、女を幸せにすることはできない」という現実が分かってくる。そうすると、俄然、地位も財産もある大貴族で、生涯他の女性を娶らず、愛を貫いたフェルゼンの方が、スマートで逞しく見えてくるのだそうです。

以前の私なら、「どうして、どうして?!」と慌てたかもしれませんが、理代子さんのコメントには非常に納得するものがありました。

というのも、私自身、今やヒロインとして引かれるのは、オスカルではなくマリー・アントワネットであり、彼女とフェルゼンの恋にこそ、生きた男女の愛を感じるからです。

自分でも、なぜオスカルが過去のものになり、マリーの方が胸を打つようになったのか分かりません。
「オスカルのようになり損なったから」 「女性としての価値観が変わったから」 「平均的な女の人生におさまったから」 「所詮、オスカルはフィクションであって、現実ではない」……etc
理由はたくさんありますが、あえて言うなら、女として本物の人生を生き始めたから――といった感じでしょうか。
オスカルに胸をときめかしていた頃は、女と名の付くものであっても「中性」だったし、人生といっても、親の稼ぎでご飯を食べ、住まいも、着る物にも不自由しませんでしたから、所詮は「仮の宿」の中での出来事。
また、二十代も、自活していたとはいえ、悠々自適な一人暮らしでしたし、世間のしがらみや、女の痛み苦しみとは無縁のところで生きていましたから、これまた遊びの続きでしかないですよね。

そういう時は、オスカルのように超然としたものが格好良く見え、マリーのようにベタベタと地を這うような生き方はダサイと思う。
王制や、しきたりや、権謀術策に縛られ、自分が自分であることも許されないマリーの苦しみはゴメンだと思うわけです。

ところが、人生が我がものになり、今まで見まいとしていた現実が自分の生活の中にどっと入り込むようになると、オスカルはもう遠い人になってしまう。
「どうしてマリーは顔も知らない殿下のところにお嫁に行かなくてはならないの?」 「ルブラン夫人、母になるというのは、どんなにか幸せなことでしょうね」 「みんな、嵐の中に私を一人、置き去りにしていった」
というマリーの言葉が、にわかに現実味をおびて迫ってくるわけです。

そして、冷たい牢獄の中で、「激しい疲労と出血に自らを鞭打ちながら」、女王の誇りをかけて裁判に立ち続けるマリーの姿、あるいは、最後に持ち掛けられた逃亡計画に、「母である私が子供達を見捨てて一人だけ助かることは出来ません」と言い切る姿に、オスカルの無邪気な勇気とは異なる、女ならではの強さを感じるんですね。

それは、あくまで中性的な、たとえるなら「天使のような」強さと魅力をもったオスカルには無い、女性としての生々しい息づかいであり、心情なのです。

だからこそ、そんなマリーの為に、持てる力を駆使して具体的に行動する(逃亡計画や他国への説得工作など)フェルゼンが頼もしく見えてくる。
「ああ、これぞ男の力よ」なんて、現実の人生を知った女はうっとりするわけです。

これを「女のいやらしさ」と断罪して下さいますな。
本当の意味で人生を生き始めたら、愛の言葉だけでなく、具体的に行動してくれる男の方が有り難く感じるもの。 もちろん、愛と誠実は大切ですけれど、じゃあ、その為に何が出来るかということを、女は求めずにいなくなるんですね。

実のものではないオスカルは、男に現実的な力を求めませんが(求めなくても人生が成り立っていく)、どろどろした中で生きているマリーは、やはりそれを誰かに求めずにいません。
人生がまだ現実のものではなかった中性の時代、私たちが見まいとしてきた女であるがゆえの痛み苦しみが自分のものとなった時、訳知りの女性達はオスカルにそっと別れを告げ、悲劇の人生を懸命に生きたマリーと、彼女に忠誠を尽くしたフェルゼンに、思いがシフトするのではないでしょうか。

私も、子供の頃は、9巻(オスカルが死んでから、マリーが断頭台に上がるまでの最終章)なんてほとんど読まなかったのですが、今は9巻が一番のお気に入りで、マリーと一緒にうるうるしています。 以前はどうして興味の「きょ」の字もなかったのか、本当に不思議ですよね。

今のこの時代、『ヒロイン』というと、どんなヒロインが挙げられるでしょう。

というより、今は、ヒロイン不在の時代と言った方がいいかもしれませんね。

それにふさわしい人がいないから、というよりは、世の中の価値観が余りにもめまぐるしく変わるため、何を理想とすれば分からないという人が増えたからではないか、という気がします。

私たちの世代が少女だった頃、まだ、女の人生は分かりやすかった。

選択肢が増えた分、迷いや悩みも増えて、女性を自由にするつもりが、かえって混乱させてしまったのが、オスカル以降かもしれません。

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