映画

悪の凡庸さ 映画『ハンナ・アーレント』

2014年11月29日

2012年に制作された映画『ハンナ・アーレント』が2013年に岩波ホールで公開された時、行列ができるほどの盛況だったようですが、「異端視されても自己の主張を貫いた生き様に感動した」というよりは、ここで語られている『悪の凡庸さ』が現代にも通じるものであり、多くの人が漠然と感じている「何か、おかしい」を見事に代弁している作品だからではないかと思います。

ハンナ・アーレントや映画のテーマである『イエルサレムのアイヒマン』Eichmann in Jerusalem. Ein Bericht von der Banalität des Bösen (Eichmann in Jerusalem: A Report on the Banality of Evil)については、こちらのサイトに分かりやすく解説されていますので、ぜひご一読下さい。

参考URL
NHK 視点・論点 「ハンナ・アーレントと”悪の凡庸さ”」

戦争と虐殺

先日、あるニュースサイトのコラムに目を通していた時、「これから若い人に戦争教育するなら、『現代の戦争』について教えなければだめだ。戦争というのは時代と共に方法も目的も変わっていく。戦争というと、多くの人は第二次大戦みたいな光景を思い浮かべるが、現在、そして未来に起きるだろう戦争は全く違う。これから先は、無人機やハイテク機器が人を殺すようになる。それを踏まえた上で戦争について語るべきだ」というような事が書かれていました(どこのコラムだったか覚えてません。スミマセン)

それは全くその通りで、映画「グラディエーター」や「ブレイブハート」みたいに、何万という兵士が「突撃ー!」の掛け声と共に丘の麓になだれ込み、騎馬戦みたいに剣を交えた時代と第二次大戦は違うし、第二次大戦と現代・未来戦も異なる。

固定されたイメージで戦争について語ると、「現代における平和や反戦」の意味も見誤るな、と、その点については大いに合点がいったものです。

しかしながら、方法がどうあれ、「戦争とは何か?」と問われたら、私は「ドイツ兵も、ソ連兵も、ユダヤ人も、異国の無名兵士の墓に一緒に弔われることだ」と答えます。

私の住んでいる国にも、そういう無名兵士の墓が至る所に存在します。

そこには国境も、人種もない、そして何所の誰が葬られているのかも分からない。

ただ、ようやく戦争が終結し、とにもかくにも砲弾が飛び交わなくなった時、町中に転がった亡骸を集めて、軍服や持ち物から「ドイツ兵」「ソ連兵」「ユダヤ人」「地元民」と判断して、ひたすら埋葬したのでしょう。

それらの墓には、当然のことながら、名前も、生年月日も、何もありません。

二十センチぐらいの四角い墓石にソ連兵には赤い星、ユダヤ人にはダビデの星のレリーフが刻まれているだけです。

それが等間隔に、同じ様式、同じサイズに、整然と並んでいる。

そして、ハロウィンの後の「死者の日」になると、近所の人が善意で花やキャンドルを捧げ、どこの誰であろうと、同じように死を悼む。

どんな大義、どんな手法が存在しようと、過ぎ去ってみれば、大地に残るのは人の屍だけですよ。それぞれに人生があり、名前があり、故郷に待つ人があっただろうに、それも一瞬で失われ、後には墓しか残らない。どこの何人、何教とか関係無い。それは、立派な記念館より、石碑より、はるかに説得力がある。そして、今を生きる町の人は、そうした無名兵士の墓の傍らで平和な世に暮らしている。ある意味、これほど説得力のある「戦争論」もないかもしれません。

それと同類の場所がアウシュビッツです。私も三回ほど訪れましたが、あそこはね、本当に名状しがたい場所です。犠牲者の写真とか、焼却炉の跡が生々しいからコワイ・・じゃなくて、これほどの大量虐殺が、同じ人間によって行われた──という、その事実が恐ろしいんですよ。

自分だって、いつそちらの側に回るか分からない。

自分は絶対に人殺しなんかしない、銃も手に取らない、とは言い切れない。

日常的に「人殺しはいけません」と理解していても、いざ社会が激変し、そこまで戦車が迫ってきたら、やっぱり人は流れに呑まれていく。

よき家庭人、よき父親であった人が、冷然と人をとらえ、ガス室に送り、ゴミでも焼くみたいに遺体を焼却処分して、灰を池に蒔く。

それが当たり前になってしまうほどの「異様な社会の風潮」が過去にも現在にも存在し、またこれからも起こりうる、その「集団の狂気」というか「迎合」というか、まさにハンナのいう「思考停止」の恐ろしさをまざまざと見せつけるのがアウシュビッツという所だからです。

恐らく、あそこを訪れた多くの人は、「ドイツ人が悪い」「ナチが悪い」という断罪の気持ちより、「同じ人間によってこれがなされた」とい現実にうちのめされると思います。

その「悪」は、私たちの中にもあるのだ、と。

映画『ハンナ・アーレント』もそれと同じ説得力を持つ作品だと感じました。

そして、この理屈は、戦争のみならず、日常のあらゆる場面に通じるものがある。

たとえば、「こんな事をしていいのかなぁ」と思いながら、食品パックの日付ラベルを打ち直したり、帳簿をごまかしたり、内々で安全性が指摘されていた製品をなぁなぁで世に送り出したり、見なかった振りをしたり。

誰でも頭では「いけないこと」と知っている。でも、「社の命令だから」「意見すれば立場が悪くなるから」「揉め事おこしたくないから」「面倒だから」etc、で、意図的にせよ、無意識にせよ、過ちに手を貸している場面はいくらでもあるでしょう。

そして、いつしかその事になれきって、現場の誰も疑問を感じなくなる。

その果てが食品偽装であり、事故であり、詐欺ですよね。

でも、それらは決して生まれながらの極悪人の手によって行われるのではない。

日常の小さな嘘や誤魔化しに馴れきってしまった、普通のサラリーマン、普通の経理マン、普通のお手伝いさんによって引き起こされるわけですよ。

職場の上下関係や、物を言わせぬ雰囲気や、自分の身の回りのささやかな日常を守りたい気持ちから。

それと、ユダヤ人虐殺に関わった役人と、どれほどの違いがあるのか。

それをハンナ・アーレントの映画は物語っているのです。

恐らく、現代にこの映画を見た日本人の多くは、今の日本社会に重ね見たのではないでしょうか。

そして、これこそ多くの人が漠然と感じている「危うさ」であり、解決への処方箋だと感じたに違いありません。

それほどハンナの主張は意義深い。

ユダヤ人虐殺やナチスの犯罪うんぬんと切り離しても、非常に見応えのある映画です。

考えない罪

アイヒマンの裁判に見入るハンナ。
「ユダヤ人虐殺に関わったナチスの男」について、多くの人は「悪魔のように凶暴な男」を想像していたと思います。

ところが、法廷に出てきたのは、ごくごく普通の小役人。
残忍な権力者でもなければ、変態嗜好のサディストでもない。
世が世なれば、市役所の事務課で黙々とハンコでもついてそうなおっちゃんだった。

この落差に、ハンナの哲学が動き始めます。

こういう答弁、今でも目にするでしょう。何も違わないんですよ。

「私の部署ではない」「命じられたから、やった」。そこに自身の意思は介在しない、だから罪ではない、という主張。
ハンナ・アーレント

ハンナ・アーレント

作中で語られる重要なセリフをピックアップします。
特にラスト15分の講義は時代を超えて人間社会に警鐘を鳴らすものです。
機会があれば、ぜひ通して見て下さい。

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西洋には伝統的な先入観がありました。

人間が行う一連の悪は、利己心から来るものであると。

ところが、今世紀に現れた悪は、予想以上に根源的なものでした。

今なら分かります。根源的な悪とは、分かりやすい衝動による悪とは違います。(注:憎いから殺す、欲しいから盗むという意味でなくて)
利己心による悪ではなく、もっと違う現象によるものです。

人間を無用の存在にしてしまうことです。

強制収容所は被収容者に対して、無用の存在であると思い込ませ、殺害しました。

強制収容所での教えです。

”犯罪行為がなくても罰は下せる”
”搾取が利益を生む必要はない”
”労働が成果を伴わなくても構わない”

強制収容所とは、いかなる行為も感情も、その意味を失う所です。
無意味が生まれる所とも言えます。

こう仮定しましょう。全体主義の最終段階で、絶対的な悪が現れる。

人間的な動機とはもはや無関係。

だとすると、次も真実です。

もし全体主義がなかったら、我々は根源的な悪など絶対に経験しなかった。[/well]

ハンナ・アーレント

ここで言われる「全体主義」を、「職場の雰囲気」に置き換えてみましょう。

「社長、それはおかしいんじゃないですか」「こんな嘘のラベル、私は貼りたくありません」

それが言えない。

「黙って、言われた通りにしてればいいんだよ」「会社つぶれて、食えなくなったら困るじゃん」

「なに、あいつ気取って上申してんだよ」「そんなこと疑問視するなんて、意識高いんですね~」

みながみな、申し合わせたようにその場の雰囲気に同調し、「空気読めよ」で流していること、たくさんあるんじゃないですか。

「その最終段階で悪が現れる」──というのは、最初は疑問に感じていた人も「世の中ってそういうもの、働くってこういうこと」みたいな雰囲気の中で、ついには自分自身の価値観や感性まで無くしてしまう。そして、「右向け、右」で、間違ったことにも加担するようになる、いわば「思考停止状態」です。

ハンナは「悪」という言葉で表現していますが、この「平凡」「当たり前」の中にいろんな過ちの芽が潜んでいる、と考えれば分かりやすいと思います。

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ハンナ「彼はどこにでもいる人よ。怖いほど凡人なの。

知人「国家保安本部でユダヤ人課のトップだ。ただの凡人に務まるか!」

ハンナ「でも彼は国家の忠実な下僕と思ってたの。”忠誠こそ名誉” 総統の命令は法律よ。彼に罪の意識は全くない。法に従ったからよ。任務の遂行が養親より優先されたの
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ハンナ・アーレント

ハンナ・アーレント

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一般に悪は、悪魔的、サタンの化身、そう見なされがちだ。
しかし、アイヒマンには深さがない。
彼は思考不能だったのだ。

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こうして「アイヒマン擁護」ともいえる論文を発表したハンナの元には、批判、侮蔑、脅迫が殺到します。

ハンナ・アーレント

ハンナの最後の講義。

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法廷の関心はたった一つ、正義を守ることです。

アイヒマンを裁く法廷が直面したのは法典にない罪です。

そしてそれはニュルンベルク裁判以前は前例もない。

それでも法廷の彼を裁かれるべき人として裁かねばなりません。

しかし、裁く仕組みも、判例も、主義もなく、”反ユダヤ”という概念すらない人間が一人いるだけでした。

彼のようなナチの犯罪者は人間というものを否定したのです。

そこには罰するという選択肢も、許す選択肢もない。

彼は検察に反論しました。何度も繰り返し、”自発的に行ったことは何もない。善悪を問わず、自分の意思は介在しない。命令に従っただけなのだ”と。

こうした典型的なナチの弁解で分かります。

世界最大の悪は、ごく平凡な人間が行う悪です。

そんな人には動機もなく、信念も邪心も悪魔的な意図もない。

人間であることを拒絶した者なのです。

そして、この現象を、私は”悪の凡庸さ”と名付けました。
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ハンナ・アーレント

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私は彼の平凡さと残虐行為を結びつけて考えましたが、「理解を試みる」のと「許し」は別です。

この裁判について文書を書く者には、理解する責任があるのです。

ソクラテスやプラトン以来、私たちは”思考”をこう考えます。自分自身との静かな対話だと。

人間であることを拒否したアイヒマンは人間の大切な質を放棄しました。

それは思考する能力です。その結果、モラルまで判断不能となりました。

思考ができなくなると、平凡な人間が残虐行為に走るのです。

過去に礼が無いほど大規模な悪事えした。

私は実際、この問題を哲学的に考えてみました。

思考の風がもたらすものは知識ではありません。

善悪を区別する能力であり、美醜を見分ける力です。

私が望むことは、考えることで人間が強くなることです。

危機的状況にあっても、考え抜くことで破滅に至らぬよう
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ハンナ・アーレント

「考える」という言葉ほど曖昧で、意味が分散しやすい言葉もないと思います。

どちらかというと、「考える」ことより、「考えを持ち続けること」の方が難しいのではないでしょうか。

これはあくまで想像ですが、ナチの手先になって虐殺に加担した人も、ごくごく初期、頭の片隅では「こんなことして、いいのか」と疑問を感じたかもしれない。

でも、何かしら、当時の空気、当時の思潮に、呑まれ、流され、「これが正しいのだ」と繰り返し刷り込まれると、「やっぱ、そうなのかな~」と、自分の最初の疑問や価値観を手放してしまいますからね。

多くの人が最も苦手とすることは「疑う」ということです。

自分の置かれた立場を疑う、自分の行いを疑う、流行を疑う、正しいと言われることを疑う、自分自身を疑う。

時に痛みや不安を伴うこの作業から目をそらし、全体の中で自分自身すら「無」になってしまう時、破滅的な過ちに向かって行くのかもしれません。


アイテム

主演のバルバラ・スコヴァは、名演というより、自身の主張として語っているように見えました。変な喩えですが、口寄せのような。

この時期に、この作品が登場したのも、決して「話題集め」ではないと思います。

難しいテーマですが、「学生」の目線でハンナの演説を聴いている、という演出が良かったと思います。

これが国会や法廷だと、妙に政治色が滲み出て、嫌悪感を示す人も出てくるでしょうから。

こちらが邦訳。

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