映画と原作から読み解く『ゴッドファーザー』の世界

初めてこの映画を見たのは小学生の時だっただったこともあり、長男ソニーがハイウェイの料金所で蜂の巣にされるシーンばかりが脳裏に焼き付いて、何がそんなに名作なのかちっとも理解できなかった。

だが、大人になって原作を読んでから、この作品に対する見方が180度変わった。

これは単なるマフィアの抗争劇ではなく、「家族とは」「人生とは」を描いた重厚な人間ドラマなのだ。
(ちなみに、映画『ユー・ガット・メール』では、「人生に必要なことは全部ゴッドファーザーに書いてある」というセリフがあるそうな)

かといって、神のように慕われるゴッドファーザー、ヴィトー・コルレオーネは、決して絵に描いたような善人ではないし、世のため人のために弱者や友人の願いを聞き入れているわけでもない。
その本質は、小説でも指摘されている通り、あくまで「見返りを期待した」エゴイスティックなものであり、保身の為の優しさだ。

しかし、彼は『本物の男』であり、一家の主であり、その強烈な哲学を理解できれば、バイオレンスとはかけ離れた深い精神性が見えてくる。
本来なら、「庶民の敵」とも言うべき冷徹なマフィアのドンなのに、見た者が共感せずにいないのは、彼こそが『父』と呼ぶにふさわしい「男の中の男」だからだろう。

映画では3部作が製作され、映画史に残る大作となった。
パート3に関しては「金儲け主義の蛇足」との批判もあるが、ファミリーの壮大な叙情詩として楽しむ分には、やはり欠かせないエンド・ストーリーだと思う。

現代のアクション映画のように、決してハイテンポな作品ではないが、この映画の代名詞とも言うべきマーロン・ブランドをはじめ、アル・パチーノ、ロバート・デ・ニーロ、ジェームズ・カーン、ダイアン・キートンといった現代の名優たちの演技を見るだけでも胸がいっぱいになる。
マフィアならずとも惚れ惚れするヴィトー・コルレオーネの生き様をぜひ味わって欲しい。

ゴッドファーザー Part1

47年、ニューヨークでマフィアの抗争が激化した。敵対するタッタリア・ファミリーにドンを襲われたコルレオーネ・ファミリーでは、ソニーとマイケルの兄弟が戦いの中心人物となる。
マリオ・プーゾのベストセラー小説の映画化で、フランシス・フォード・コッポラ監督の名を一躍有名にした傑作である
ジェームズ・カーン、アル・パチーノ、ロバート・デュヴァルらの演技と、静かなタッチのなかに展開する凄惨な抗争描写が見もの。以後のバイオレンス作品の手本となった。
ドン・コルレオーネを演じたマーロン・ブランドがアカデミー主演男優賞を受賞したほか、作品賞と脚色賞も受賞した。ニーノ・ロータによるテーマ曲も印象的である。【 Amazon.comより 】

永遠に語り継がれるアカデミー受賞作。(ポーランドでも未だにDVD3巻セットがベストセラーとなっています)
しかし、製作過程は決して順調ではなく、配給会社は若いコッポラにも、パチーノにも冷たかったとか。
特に、気難しいマーロン・ブランドは、「ギャラが高い」「台詞を覚えない」「撮影に遅れる」と三拍子そろった映画界の鼻つまみもので、コッポラ監督は彼のお守りに大変苦労したらしい。
にもかかわらず、完成作は映画史に残る傑作となった。俳優陣の顔ぶれだけでも奇跡のような豪華キャストである。
映画だけ見ると、バイオレンス・シーンばかりに気を取られるかもしれないが、原作を読むと、主演格の俳優陣がいかにキャラクターを研究しているかがよく分かる。
「ドン・コルレオーネ」のマーロン・ブランドを見るだけでも一見の価値あり。
年を重ねるごとにその良さが分かる、まさに「大人の映画」である。

【Amazon レビューより】
この映画よりおもしろい映画ってそんなにないと思います。
ゴッドファーザーで感じる美しさは、当に「映画にしか出来ない美しさ」なんだと思います。
映画が到達した美の極点だと言えると思います。
インサートカットにやや「古さ」を感じるものの、ムダなカットがたった1つもありません。
文字通り1つとしてないのです。

ゴッドファーザーと呼ばれるマフィアのドンを核に、その抗争と家族の営みを描いた最高の作品。
既に何度も見ていますが、その時によって角度を変えた感想を持つことができるとても深く豊かな映画です。
ドン・コルレオーネとマイケルの交わりから親子関係を、マフィアの抗争から組織やビジネスを、有名なシーンの数々(映画プロデューサーへの報復、マイケルの殺戮、コルレオーネファミリーの反撃等)からは映像の持つ美と凄みを、という風に…。
見るたびにいつも唸ってしまいます。

映画の見所

映画においては、サブキャラのサイドストーリー(ジョニー・フォンティーンやルーシー・マンティーニのその後)が全面的にカットされているのは残念だが(上映時間の都合上、これは仕方ない)、コッポラ監督が卓越した技量の持ち主であることは随所で伺える。

【ドン・コルレオーネの死】

原作 …… 家族に看取られながら、「人生は美しい」と言い残して死ぬ。(ちょっとクサイかも……)
映画 …… 庭で孫の遊び相手をするうち心臓発作に襲われ、誰に看取られることなく息を引き取る。

これに関しては、映画の方に軍配が上がる。
黄昏の光の中、マイケルの息子、アントニーを喜ばせるために、オレンジの房を歯に挟んで「が~っつ」と怪獣の真似をするシーンや、アントニーにジョウロを持たせて、トマトに水をやるシーンなど、非常に詩的で美しく、最後は「マフィア」ではなく「一家の長」、人間としてのドン・コルレオーネを強調して描いている。
ゆえに彼の死が、結果的にマイケルの人生を狂わせてしまう痛ましさが余計で胸に迫る。
「人生は美しい」の台詞を言わせなかったのも、コッポラ監督としては正解だったのではないだろうか。

【ドン・コルレオーネの襲撃】

これは映画も原作もシチューエーションは全く同じである。
フレドーに付き添われて果物屋でオレンジを買い求めている時、二人の刺客が駆け寄ってきて、至近距離からドンに銃弾を浴びせるのだ。
映画では刺客が駆け寄る場面、ドンが危険を察して「フレドー!」と叫ぶ場面、路上にオレンジが転がる場面など、細かなショットが巧みにつなぎ合わされ、非常に緊迫感がある。
また、ドンが弾丸を撃ち込まれ、車のボンネットにうつ伏せに倒れる場面が、側面ではなく、天上から見下ろすようなアングルで撮影されているのにコッポラ監督のセンスの良さを感じる。
ここはファミリーの運命を狂わせる重要な場面だけに、映像化も難しかったと思うが、一つ一つのカットが非常によく錬られて、まさに「歴史的」と呼ぶにふさわしい名場面に仕上がっている。

【ソニーとルーシー・マンティーニ】

原作 …… ルーシーがなぜソニーを挑発し、肉体関係を持つに至ったか、その後、ルーシーはどうなったか、内面まで丁寧に描かれている。

映画 …… 単なる浮気相手として登場

これは原作の方に軍配が上がる。
もちろん、時間が許せば、コッポラ監督もルーシーのサイドストーリーを描きたかったはずだ。
Part3では、ソニーとルーシーの間に生まれた「ヴィンセント」が後継者として登場するが、この繋がりは原作を読まなければピンとこないかもしれない。
映画では、単なる情事の相手としてエッチするだけで終わっているので、原作ファンとしては非常に残念である。

【マイケルの復讐】

ドン・コルレオーネの死後、ファミリーの長として指揮を執るようになったマイケルは、対立するファミリーのドンを次々に襲撃して復讐を果たす。
ここでは妹コニーの子供の『ゴッドファーザー(キリスト教における代理父)』として洗礼式に臨む場面と交差するように襲撃の場面が描かれているが、これはすなわち、ファミリーのドンとなった「マイケルの洗礼式」でもあり、その『洗礼』はキリストの正義ではなく、血にまみれたマフィアの道への入り口である。
それまで家業とは一線を引き、平凡な一市民として生きようとしていたマイケルが、マフィアのゴッドファーザーに生まれ変わる、象徴的な場面である。


ゴッドファーザー Part2

前作でファミリーの長となったマイケルは、新しいドンとして苦難の道を歩む。
それはちょうど海を渡った父ドン・コルレオーネが、一代でファミリーを築きあげた苦難の道のりと好対照だった…。
大ヒット作の続編は、若き日のドンと現在のその息子という、2つのストーリーがフラッシュバックする。
若き日のドンとして並外れた演技力を披露したロバート・デ・ニーロがアカデミー助演男優賞に輝けば、アル・パチーノは表向きは事業家として闇の世界を牛耳るドンを好演した。
74年のアカデミー作品賞ほか全6部門受賞。
銃声を消すためシーツでくるんだ拳銃から、鈍い発射音と硝煙がたなびくなど、衝撃的でしかし詩的な映像が見ものである。

【Amazon.comより】

大成功を収めたPart Ⅰに引き続いて制作された。
ファミリーを受け継いだマイケル・コルレオーネのその後を描いているが、本作が単なる「柳の下のドジョウ狙い」の続編ではないことは、非常によく練られたドラマ運びを見れば分かる。
脚本・構成においては、原作者のマリオ・プーヅォも参加しているだけあって、第一作に匹敵する完成度である。
また、本作においては、第一作で影の薄かった次兄フレドーにスポットをあてており、無視された兄の悲哀がにじみ出て非常に感動的だ。
長男ソニー亡き後、この世でたった二人の兄弟なのに、それしか選択肢が無かったのか・・と、マイケルに詰め寄りたくなるような悲劇的結末だが、それ故に、ドンとして生きるマイケルの非情と孤独が強く伝わってくる。
しかし、何と言っても秀逸なのは、ラストの回想シーンであろう。
観る側にとってもまったく予期せぬ展開であり、このラストシーンゆえにPartⅡは不朽の名作となったといっても過言ではない。
まさに映画史上に残る名場面である。
ついで、若き日のヴィトー・コルレオーネを演じるロバート・デニーロのダンディでセクシーなこと。
すらりと背が高く、ふるいつきたくなるような、いい男っぷりです!

俳優ロバート・デ・ニーロの存在を世に知らしめた歴史に残る一作。
暴力団の抗争という血なまぐさいストーリーに散らばる家族愛というテーマが強く印象に残る作品であり、若きビト・コルレオーネを演じたロバート・デ・ニーロの家族を見つめる優しい眼差しと、家族の生活を守るためには殺人も辞さない寡黙な冷徹さの対照に圧倒された。

印象にのこる場面の一つは、シチリア島を追われた少年が貨客船に乗ってニューヨーク港に入る場面。
セリフはゼロだけど、わずか数秒に無尽のドラマがこめられている名場面だと思う。
船は貧しい移民でいっぱい。誰もが旧大陸での戦いに破れた人々たち。彼ら老若男女が、新大陸の玄関口にそびえる自由の女神を見つめるまなざしにグッときたよ。
新大陸は移民たちの過去を問わない。挑戦者を受けいれてくれる自由の国(実際はそんなに甘くないかもしれないけれど)。
いっぺん人生に負けた人たちが、もう一度やり直す決心を秘めて上陸する・・・ロマンだねえ。

映画の見所

【兄・フレドーとの確執】
父ヴィトー・コルレオーネが後継者を選ぶ際、次兄のフレドーはその弱さゆえに最初から論外で、迷わずマイケルを指名したわけだが、その事実がフレドーの心に重くのしかかり、Part2では、その苦しい心中をマイケルにぶちまける。
自らの境遇を嘆くあまり、心ならずもマイケルの暗殺計画に加担してしまったフレドーは、一度はマイケルの許しを得るものの、それはあくまで一家の手前のパフォーマンスに過ぎず、マイケルの気持ちは最初から決まっていた……。

Part2の核心とも言うべきフレドーのエピソードは、前作の家族愛の物語からは想像がつかないような展開だ。
「そこまでやるか?」と詰め寄りたくなるようなマイケルの冷酷さは、コルレオーネ・ファミリーを全米一にまで押し上げるが、人間としては彼を孤立させ、最後まで家族愛に満ち足りていた父・ヴィトーとは全く正反対の人生を歩むことになる。
その象徴的な出来事がフレドーとの確執であり、一度は絶縁しながら、妹コニーのたっての頼みで仲直りの抱擁をする場面は、後の悲劇を思えば思うほど痛ましい。
フレドーを演じたジョン・カザール の悲哀に満ちた演技も素晴らしく、彼が助演男優賞を獲ってもよかったぐらい。

【ケイとの破局】

大学時代はホットな恋人同士だったケイとマイケル。しかし、父ヴィトーの襲撃事件から否応なくファミリーの仕事に巻き込まれ、ついには殺人をも厭わぬマフィアのドンとして頂点に立ったことから、ケイの心にも変化が生じ、夫婦関係は破局に向かう。
その前に、「アポロニア」というシシリー人の若妻もいたはずなのだが、それはまあ横においといて、なるべくしてなったという感じの展開。
マイケルの「君と、家族のため」は、ケイにとっては「悪の道」でしかない。
永遠に相容れぬものになってしまった二人の運命があまりに悲しい。

それだけに、とってつけたようなPart3の後日談がイマイチしっくりこなかったりして。


ゴッドファーザー Part3

ファミリーの存続のため、実の兄まで手にかけたマイケル。
老境にさしかかったマイケルは、ファミリーのさらなる繁栄のため、バチカンとの連携を模索する。
そして新たな後継者を考慮していた…。
前作から20年後の79年から物語は始まる。ファミリーの血の絆のためには妻をも犠牲にしたマイケル。
さらなる野望を実現しようとしたマイケルの進む道は、これまで以上に血塗られたいばらの道だった。
アル・パチーノが老境に達したマイケルを重厚に演じ、アンディ・ガルシアがその後継者としてはつらつとした演技を見せる。
トリロジーの最終章にふさわしく、ダイアン・キートンほか豪華なレギュラー俳優陣に、コッポラ監督の愛娘ソフィアが加わっている。

【Amazon.com】より

「第三作は本当に必要だったのか」
賛否両論が巻き起こるのも無理はない、前作から二十年も経って製作された完結編である。
内容的には「無難にまとめた」という感じで、特筆すべき点はないけれど、やはりアル・パチーノの演技が冴えており、見応えはある。
また、後半部はシチリアを舞台にしたオペラの名作「カヴァレリア・ルスカティーナ」をベースに描かれており、クラシック・ファンには嬉しい演出。しかも、オペラと映画の筋書きが巧みに絡み合って、製作サイドの芸術に対する理解の深さを思わせる。
三代目を引き継ぐアンディ・ガルシアもまずまずの演技(ちょっと頼りなさそうだが・・)で、終わりとしては、こんなものでいいのではないだろうか。
見て損はない、華麗な完結編である。

【Amazon レビューより】

ゴッドファーザーの完結編だが、その存在価値は「回顧アルバム入り後日談」というところだ。
PART2で、世代交代の回顧とマイケルの孤独感を、あれだけ崇高な形でまとめたにもかかわらず、その後の事業拡大と、娘を殺され廃人同然となって生涯を閉じるマイケルの末路を描く事に大きな意味があったのか。
コッポラ自身の言葉どおり「お金のために作った」というのが一番正直なところではないか。
確かに、凡庸な映画に比べれば、コッポラの力量を最大級の素材で発揮した映画という価値は認めるべきだ。
壮大なファミリー同窓会、クライマックスの粛清劇、劇場の暗殺サスペンスなど見所は多いし、オペラ歌手になった息子が、シチリアの地で「愛のテーマ」を歌うというノスタルジーあふれる泣かせどころもあるが、あっけなく切り替わる場面展開で感傷に浸るひまを与えない。画面創りも前2作に比較すると薄っぺらな印象だ。
やはり「その後のマイケル」を描くことの意味はあったのだろうかという疑問は残る。駄作とは言わないが、蛇足だったのではという印象は拭えない。

シリーズ完結編として長いインターバルを置いて発表され、いろいろと批判も多い本作だが評者にとっては前2作品同様に最も愛すべき作品、最高の映画として生涯の宝である、「ユーガットメール」のトム・ハンクス台詞とおり、人生の全ての答えはこの映画の中にあると本当におもう、

人間には二種類ある、とギャング映画やハードボイルド小説によくある台詞をここで真似て見れば、心の傷を克服する努力をする人間と、克服する努力をせずに心の傷を慈しむことを人生の目的にする人間の二つとなる、第2作の最後に頂点に達していたマイケル・コルレオーネの孤独感を思えば、その後の人生でマイケルは先にあげた二者の間を行き来することなく、心に蓋をした状態でファミリーを取仕切ってきたと思われる、劇後半、ヴィンセントに地位を譲るシーン以降のマイケルがどちらの種類の人間かはいうまでもない、

ヴィトー・コルレオーネの孫と戯れながらの臨終シーンと比べれば、シリーズ全編のラスト・シーンでもあるマイケルの臨終シーンのあまりの静寂さそのものがマイケル・コルレオーネの全人生を被っていた巨大な孤独を表現して余りあるものと考える、

その他見所として、オペラ的演出を充分に取りいれた画面構成、例えばソフィアの狙撃シーンで絶叫するマイケル、驚愕するジョージ・ハミルトン、十字をきるジョン・サベージを1カットに収めることこそコッポラの凄さ、加齢とともに鬼女と化した妹も怖い、

ソフィア・コッポラの出演がとても不評ですが、第1作をもう一度みれば納得できます、ソニーの愛人とソフィアは雰囲気が似ているのです、ヴィンセントは父と女の好みのタイプが似ていたという設定と解釈でき、コッポラの作劇上はヴィンセントの愛人はソフィアが適役ということなのでしょう、


新たに購入するなら、コッポラ監督も嘆息するほどの高画質が自慢のリストレーション版がおすすめ。
定価もDVD5枚組ながら1万円を切り、未収録映像やインタビューなど特典も充実。
ゴッドファーザー・ファンならずとも胸がいっぱいになるDVD BOXセットです。

小説『ゴッドファーザー』(マリオ・プーヅォ原作)

名匠フランシス・コッポラが監督したマフィア映画の傑作「ゴッドファーザー」は、アメリカで大ベストセラーとなったマリオ・プーヅォの原作を元に作られました。

アル・パチーノやジェームズ・カーンの名演は言うまでもなく、主人公ドン・コルレオーネを演じたマーロン・ブランドの存在感は白眉のもので、威厳あふれるファミリーの『Godfather』そのものだったと思います。
(ちなみにマーロン・ブランド自身は、「ギャラが高い」「セリフを覚えない」「撮影に遅れる」の三拍子そろったハリウッドの鼻つまみものだったそうです。コッポラ監督はブランドの『お守り』に大変苦労したとか……)

血生臭いマフィア映画を、家族愛の物語として描いたコッポラ監督の手腕もさることながら、ドン・コルレオーネという魅力的なキャラクターを創りだし、登場人物一人一人の心の細部にまで入り込んだマリオ・プーヅォの筆力も素晴らしいものがあります。
映画しか観たことのない方には、ぜひ読んでいただきたい傑作です。

【原作より抜粋】

この世に一人だけ、彼を救える人がいる。
ジョニーはニューヨークに帰るつもりだった。
彼に必要な権力と知力、そして彼がいまだに信じている愛とを備えもつ一人の男のもとへ帰るつもりだった。
彼の名付け親(ゴッドファーザー)、ドン・コルレオーネのもとへ。

落ち目の歌手ジョニー・フォンティーンは、せっかくモノにした大女優の妻にも、取り巻き連中にも馬鹿にされ、屈辱的な日々を過ごしています。
しかし彼は歌手として再起するために、彼の偉大なゴッドファーザー、ドン・コルレオーネに助けを求めるのでした。

ドン・ヴィトー・コルレオーネは、誰もが助けを求めに来て、しかも決して裏切られることのない男だった。
自分が友人であるかどうかとか、恩義に報いる術がないとかいったことは問題ではない。
そこで要求されることはただ一つ、つまり、彼への友情の証を見せることだった。
彼への報酬はといえば、友情、“ドン”という尊称、あるいはもっと愛情のこもった「ゴッドファーザー」という呼び名がそれであった。

映画は、娘の結婚式の日に、ドンが葬儀屋から殺人を依頼される場面から始まります。 (原作では裁判の場面)
この男は、我が娘を陵辱しながら無罪となった犯人に復讐したい一心で、ドンを訪ねてきたのです。
シシリーには「娘の結婚式の日には友人の頼みごとを聞き入れなくてはいけない」という習慣があり、みなこの機をねらってドンに頼みごとをしにやってくるのです。
もちろん皆はドンの権力だけが目当てで群がってくるのではありません。
彼らは心底ドンを尊敬し、自らもまたドンの役に立ちたいと願って友情を示すのです。

「ミスター・コルレオーネはジョニー・フォンティーンの名付け親(ゴッドファーザー)なのです。
これはつまり、二人がとても親密で宗教的な関係にあることを意味しています。
イタリア人がよく言う冗談に、世の中はつらいことだらけだから、二人の父親に面倒をみてもらわなければ生きていけない、というのがあります。
そんな意味合いから、名付け親というものが生まれたのです」

ジョニーの再起を阻むハリウッドの大物プロデューサー、ウォルツの元を訪れたドンのコンシリオーリ(相談役)ハーゲン。
いかにマフィアの大ボス、ドン・コルレオーネの頼みであろうと、ジョニーを新作映画に出演させるつもりはないと言い張るウォルツに、ハーゲンは上記のように説得します。
それでも首を縦に振らず、ドンを侮辱したウォルツに対し、ハーゲンは部下に命じて彼の高価な愛馬の首を切り落とし、彼のベッドに押し込んで、ドンの威厳を思い知らせるのでした。

「ゴッドファーザー」彼が言った。
「ここにいて、私の死を見取ってください。 いや、私のそばにあなたがいるのを見たら、死神も恐れをなして逃げてしまうかもしれない。あなただったら奴に一言言って、追い返すことができるかもしれないんです」
死にかかった男は、最後のほうを半分ふざけた調子でそう言うと、小ばかにしたようにドンに片目をつぶってみせた。「あなたと私は血を分けた兄弟と同じなんです」
そして、ドンを怒らせまいとでもするように、ドンの手を握りしめた。
「どうかここにいて、私の手を握ってください。 これまでやってきたみたいに、二人して奴をやっつけるんです。 ゴッドファーザー、お願いです、私を見捨てないで」
ドンはまわりの人々に部屋を出るよう、身振りで示した。 彼らが去ってしまうと、ドンはその肉の厚い両手の中に、ジェンコ・アッバンダンドの枯れ木のような手を包み込んだ。 そして二人して死を待ち受けながら、彼は優しく友を元気づけていた。
そんなドンの姿は、人間の最もいまわしく罪深い敵の手から、本当にジェンコ・アッバンダンドの生命を奪いもどせるのではないかと思えるほどだった。

かつてドンのコンシリオーリだったジェンコ・アッバンダンド(映画『ゴッドファーザー Part2』では、若かりしドンがジェンコの小売店で働いていたエピソードが描かれています)は、今や体中を癌に冒され、死の床にありました。
娘の結婚式の日にもかかわらず、ドンはかつての盟友の死を見取るために病院を訪れ、死に行く友の側に付き添います。
公開時にはディレクターズカットされましたが、原作の中で最も好きな一場面です。
(現在では、『ゴッドファーザー DVD-BOX』にあるDVDボーナストラックの未公開映像に収録されています)

人生には耐えねばならない侮辱を受ける場合があるが、目をしっかり開いてさえいれば、いつの日か、最も弱き者が最も強き者に復讐することができるという知識を会得していた。
友人すべてが称える謙虚な心を彼が失わずにすんでいるのは、まさにこの知識のおかげなのだった。

良き父親として家族や友人に信頼されるドンは、ファミリーの優れた指導者でもありました。
様々な経験を通じて人を知り、世の中を知ったドンは、その深い知性によってファミリーを導き、守り続けているのです。

ドンは十二歳で、すでにいっぱしの男になっていた。
年が若いにもかかわらず、ヴィトー・コルレオーネは“道理をわきまえた人間”として知られていた。
彼は決しておどしたりしなかった。
彼は常に、相手が牙を引っ込めざるをえなくなるような論理を使った。
また彼は常に、そうすることが相手にとっても利益になることを教え込もうとした。
自分の長所を過小評価する友人を持つ場合を除いては、欠点を過大評価する敵を持つほど自己の人生にとってたくまざる強みとなることはないというのが、ドンの意見であった。

ドン・コルレオーネというマフィアの特徴を一言で表しているのが、『道理』という言葉です。
この『道理』は、若き日のドン・コルレオーネの活躍を描いた映画のPart2にもしばしば登場します。
もちろん、この道理というのは「普遍の真実」ではなく、ドンのエゴイスティックな正論にすぎません。
そして、相手がそれを呑まない時は、「あいつは道理の通じないヤツだ」ということで、血を見ることになるのです。

もう一度息子を見ようと、ドンは非常な努力で目を見開いた。
強い心臓発作が、血色のよいその顔をほとんど白く変えていた。 彼は死のきわにあった。
光の黄色い幕のために目がかすみ、ドンは庭のにおいを吸い込んで、そしてささやいた。
「人生はこんなにも美しい」

ドンの死の場面は、原作と映画ではちょっと違っています。
映画では、庭で孫の遊び相手をするうちに心臓発作に襲われ、孫が人を呼びに行っている間に、誰に見取られることもなく息を引き取ります。
しかし黄昏の光が差す庭の景色や、孫を見つめるドンの優しく穏やかな眼差し、倒れたドンに水鉄砲をかけ続ける孫の無邪気さなど、その“絵”は詩情にあふれ、コッポラ監督の手腕が冴え渡った名場面です。

長男は洗礼名をサンティノといい、父親以外の誰もがソニーと呼んでいた。
体付きは牡牛のようにたくましく、生まれついて頑丈なため、 彼の妻はまるで異教徒が拷問を恐れるように、結婚初夜を恐れたという話が語り草になっていた。
彼が若い頃、売春宿へ行くと、一番強くてこわいもの知らずの女ですら、彼の一物を見たとたん二倍の料金を要求したというまことしやかな噂もあるほどなのだ。

短気で、血の気の多い長男ソニー。
到底、父親のような大物にはなれないタイプにしても、長男らしい力強さと愛情にあふれ、ファミリーのために必死に尽くします。(最後は妹の婿に陥れられ、料金所で蜂巣にされるという非業の死を遂げました)
私が二番目に好きなキャラクターです。
映画ではジェームズ・カーンが演じていましたが(映画『ミザリー』で監禁されていた作家役の俳優さん)、見事にはまり役でした。
(オーディションでは、ロバート・デ・ニーロやアル・パチーノも候補にあがっていたようですが、この役もジェームズ・カーン以外には考えられないですね)

ソニーが自分の鍵でドアを開けて入ってくると、ルーシーは彼のたくましい腕の中に飛び込んでいく。
彼らは常に獣のように直截であり、獣のように粗野であった。
ルーシーはこのような積極的な振る舞いを恥ずかしいものと思っていたが、まもなく彼女は、そういったことが彼を喜ばせ、自分が彼の肉体の完全な虜になっているという事実が、彼を得意に思わせていることに気がついた。
「彼はあたしが愛したただ一人の男よ」と彼女は言った。 「ほかの男は愛せないわ」

ソニーの妹の結婚式で関係して以来、ずっと逢瀬を重ねてきたソニーとルーシー。 粗野で短気なソニーも彼女の前では限りなく優しく、頼もしい男性でした。
原作では、ソニーが死んだ後、ルーシーは自殺を図りますが、寸でのところで助けられます。
上記は、彼女の愛と悲しみを不思議がるファミリーの顧問役に対し、彼女がソニーのことを回想しながら語る言葉。
ソニーはきっとスゴくいい男だったんでしょう。

「これの母親に、こんな姿を見せたくはないのだ」
彼はテーブルの所に行き、灰色の毛布を引きおろした。
死体処理テーブルの上には、弾丸につぶされたソニー・コルレオーネの顔があった。
ほんの一瞬、ドンは自分の身体を支えようとしてでもするように、ボナッセラの身体に手をかけた。
彼が言った。 「見るがいい、奴等が殺したわしの息子のこのさまを」

個人的な恨みをもつ妹の婿カルロとタッタリア・ファミリーの策にはまり、高速の料金所で蜂の巣にされた長男ソニー。押し殺した怒りと悲しみの中に、自らの宿命を思うドンの気持ちが痛いほど感じられます。
ソニーが銃撃される場面は映画の一つの見所となっており、ソニーの車が料金所で停止した途端、建物の影から十数名の黒づくめの男が姿を現し、一斉にマシンガンを撃ち放すシーンは、当時としては非常にショッキングなものでした。
しかも、男たちは、血だらけになって路上に倒れ込んだソニーの顔をさらに足蹴りにします。(原作では、「これが人間の仕業であることを思い知らすかのように」と説明されています)
だからこそ「血には血を」というマフィアの掟、終盤のマイケルの非情な復讐劇がいっそう心に迫るのでしょう。

マイケル・コルレオーネはドンの末の息子であり、父親の命令を拒否したただ一人の息子でもあった。

ドンが最も信頼をおく三男マイケル。 マイケルMichelという名前(洗礼名)は、神Godの為に堕天使ルシファー(サタン)と戦った大天使ミカエルを表します。
「父親の命令を拒否した」というエピソードは映画の「Part2」のエピローグに描かれており、このワンシーンゆえに映画『ゴッドファーザー』は永遠の名作となり得た……とも言われているほどです。

「ゴッドファーザー」は、『神』のようなドン・コルレオーネと、彼の息子であるが為に非情な世界に足を踏み入れ、父とは対照的に人間としての道を踏み外してゆくマイケルの堕天の物語でもあり、エピローグ中の「親父の誕生日に、親父を悲しませるようなことをしやがって!」というソニーの言葉(これは原作には無い)が、その後のマイケルの人生を示唆しているように思います。

彼は自分が意志に反してファミリーの仕事に巻き込まれようとしているのを感じ、たとえ電話を受けるだけにしろ、ソニーが自分を使うことに憤慨していた。
マイケルは、こんな風に考えている自分はあまりに父親に冷たすぎるのではないかと、やましさを感じざるをえなかった。
マイケルが望むのは身を引くこと――自分自身の生涯を過ごすために、これら一切から身を引くことだった。
しかし、危機が去るまでは家族から逃げ出せなかった。

麻薬売買をめぐる対立から、タッタリア・ファミリーに狙撃された父。
その瞬間から、家業を嫌っていたマイケルの運命も大きく変わり始めます。
最初はあくまで父の身を案じる「一人の息子」に過ぎなかったマイケルが、「俺がタッタリアを殺る」と自ら銃を取り、「ドン」への道に踏み込んでいく心の経緯は、原作の方がより深く描かれています。

「だがやっぱりお前はコルレオーネ・ファミリーの人間だった。俺はこの三日間ここで待っていたんだ、おやじが撃たれてからずっと、お前がそのインテリぶった、戦争の英雄といった衣装を脱ぎ捨てるのを待っていたんだ」
「ソニー、僕はこれよりほかに手がないからそうするんだよ」

あくまで平凡な一市民としてケイとの幸せを望む気持ちとファミリーの危機との狭間で葛藤し続けるマイケル。
しかし、敵の追撃が容赦ないと分かると、マイケルは父の為、ファミリーの為に、銃をとることを決意します。
やがて兄ソニーが射殺され、父も心臓発作で息を引き取ると、マイケルはファミリーの長として指揮をとるようになり、やがて冷徹な二代目ドン・コルレオーネとしてファミリーの頂点に君臨するのでした。

「ドン・マイケル」 そうクレメンツァは言った。ケイは、彼らの臣従の礼を受けているマイケルを見守っていた。
彼はローマの彫像――神から授かった権力によって、臣下に対し絶対の権能を欲しいままにしたあの古代ローマ帝王の彫像を、彼女に思い起こさせた。
片手を腰にあてがい、その横顔は冷たく尊大な力強さにあふれ、後方にわずかにずらした片足に全身の重みをかけて、ゆったりと、傲然とくつろいでいた。
幹部たちは彼の前に控えている。
その瞬間、ケイは、コニーの先ほどの言葉がすべて真実であることを悟った。
彼女は台所に戻り、静かに涙を流した。

映画はこの場面で終わっていますが、原作には、ケイがカトリックの洗礼を受け、血にまみれたマイケルの魂のためにお祈りするエピローグが描かれています。
映画のインパクトがあまりに強いので、原作のこのエピソードは必要ないのでは……と思ったりもしますが、この作品が「神(父)と息子(人間)」というキリスト教精神を背景にしていることを考えると、やはり象徴的な場面なのかもしれません。

最後に映画のラストシーンをどうぞ。


マリオ・プーヅォの原作の魅力は、何と言っても、各キャラクターの心理描写の巧みさにある。
映画では説明しきれない心の微妙な奥襞まで丁寧に描きとり、それぞれが非常にリアルな説得力と躍動感をもって迫ってくるようだ。
また映画ではチョイ役でしかなかったソニーの愛人ルーシー・マンティーニや、ゴッドファーザーの力添えでスターに返り咲いた歌手ジョニー・フォンティーン、またその友人のニノ・バレンティノなどのサイドストーリーも充実しており、映画の何倍も楽しめる。
一ノ瀬直二さんによる骨太な翻訳も素晴らしく、映画に対する理解を深める為にも絶対に外せない秀作。
私も「映画の原作本など大したことないだろう」と舐めてかかっていたのですが、冒頭、娘を陵辱された葬儀屋が、無罪判決を言い渡された町のチンピラに復讐を誓う場面、「ゴッドファーザーに正しい裁きを仰ぎに行こうじゃないか」の一言にしびれ、一気に読破しました。(今読み返しても、すごい言葉だ^_^;)
マフィア同志のやり取りも、フィクションとは思えないほどリアリティがあり、プーヅォの筆力にただただ圧倒されるばかりです。これを読まずして「ゴッドファーザーのファンです」とは言えないですよ。

【Amazon レビューより】

映画を観て以来のファン。
映像世界のすばらしさゆえ、原作本はどうなんだろうと思っていたら・・・読むべし!!! 
映画では割愛されている、こまやかな母の心などあったりして、陰影がある。
ただ、ややシモネタ系の、こういうわき道はいらんだろう、という箇所もあるが、それはしっかり映画ではカットされてる。
さもありなん、という感じで、どこをどうカットすれば、ヒット映画になったのか、もわかる。
読み出したら、上下2巻ノンストップで読んでしまう。

初稿:1998年秋

§ 『ゴッドファーザー』の周辺

タクシー運転手のトラビスは、大統領候補の選挙運動員ベッツィに心を惹かれる。だが、デートは失敗。そんな折、トラビスは13歳の売春婦、アイリスと出会い、足を洗うよう説得する。トラビスは使命を感じ、アイリスのいる売春宿に向かったのだが…
ニューヨークの夜を走る1人のタクシードライバーを主人公に、現代都市に潜む狂気と混乱を描く。
ベトナム帰りの青年トラヴィスをロバート・デ・ニーロが演じ、世界の不浄さへのいらだちを見事に表現した。
トラビスの強烈な個性は、70年代を代表する屈折したヒーロー像となった。
監督は、マーティン・スコセッシ。ホームタウンのニューヨークを舞台に、先鋭な人間ドラマを作りあげた。
これが遺作となったバーナード・ハーマンの音楽も印象的で、特にトム・スコットのアルトサックスが冴えわたっている。

【Amazon.comより】

初めて見た時は、従来の映画と全くタッチが違うので、ずいぶん戸惑ったものだが、ドキュメンタリーっぽい演出の奥に、今にも叫び出しそうな狂気と激情を感じた時、この映画に打ちのめされた。
ハリウッド的なノリを求めて見れば、「何が言いたいのか、さっぱり分からん」ということになるのだろうが、これは話の展開を追う映画ではなく、一人の男の心に耳を傾けるモノローグ的な作品である。
醒めた目で見れば、抑鬱傾向の「クレイジー野郎」の一人妄想に過ぎないのだが、主人公トラヴィスの言葉や行動は一つ一つが納得行くものであり、ラスト、売春宿に乗り込んで少女娼婦を救い出す場面では、彼こそが「正義を為す英雄」にすら見えてしまう。
もちろん、それを可能にしているのは、卓抜したデニーロの演技力であり、これ一作だけでも彼は名優として評価されるだろう。
また、助演のジョディ・フォスターも、十代の少女ながらきらめくような才能の片鱗を見せ、下手すれば、女優として致命傷になりかねない「少女娼婦」というデリケートな役柄を非常に知的に演じている。
バーナード・ハーマンの主題曲も素晴らしく、まさに隠れた名作である。

特集記事「異色の名作『タクシードライバー』 / ロバート・デニーロ&ジョディ・フォスター」もぜひご覧下さい。

【Amazon レビューより】

リアリズム映画の傑作と言えよう。
全編通してリアルな映像があり、見る人をドキュメンタリーフィルムを見ているような気にさせる。
それゆえ極めて危険な映画であり、この映画がレーガン狙撃事件を引き起こしたのは有名である。
デニーロの演技だけを注目する人が多数だが、彼以外の有名無名問わず俳優陣の演技は絶妙なものとなっていて、例えば場末のカフェでのタクシー仲間と会話、先輩運転手の説教など、これほどリアルな映像は映画史全体を見ても極めて稀であり、特にこれがハリウッド映画というのがまた奇跡を思わせる。
スコセッシの演出の賜物であり、ハリウッド映画の中で唯一の才能と言わせていただこう。
ぽん引きヤクザや少女娼婦、銃の売人とのやりとり、選挙事務所、改造銃の製造場面等あらゆる場面が傑作映像となっています。

ジョディー・フォスター演じる十二歳の娼婦アイリスと、ロバート・デ・ニーロ演じる主人公のトラビスは朝食を食べながらこんなことを話す。「あなた、ずれてるわ・・・」「ずれてるのは俺じゃない、君だ!」
掃き溜めのような町で幼くして娼婦として働くアイリスの感覚は、ニューヨークの限られた危険な地域の一角という特殊な地域でこそ普通であったとしても、一般的な常識からは明かにずれています。
むしろ、そんなアイリスに真っ向からずれていると主張するトラビスは、極めて常識的な人間といえるでしょう。
しかし、そんな常識人であるはずのトラビスがこの映画の中で取る行動は、明かに非常識的で恐ろしいものです。
全身の筋肉を鍛え上げるだけではなく、服の到るところに武器をしこみ、モヒカン刈りにして大統領候補を暗殺しようと企む。
ずれていないはずの常識、間違っていないはずの正義、そういうものを押し通したときになぜかその行動は非常識であり、間違った正義になってしまう。その原因はいったいどこにあるのでしょうか?
どこかで何かが狂っている。人間の思想と行動とのあいだには何かが狂う一点がある、そしてその一点を越えた瞬間、人は極めて恐ろしい存在になってしまう。
この映画は、そんな我々誰しもが持っている不可解な一点を超えてしまった男の狂気をものの見事に描いていると思います。
映画の最後に、トラビスは英雄に祭り上げられてしまいますが、そんな世間のプラス評価も所詮は狂気によって生じた偶然的結果でしかありません。
人間が常識から狂気に到る過程をこの映画ほど鮮明に描き出している映画は他には無いでしょう。
絶対に見るべき傑作だと思います。

この映画のカスタマーレビューはどれも濃厚で面白いです。
それだけ、観る側の心に訴えかけるものがあるという証でしょう。

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「ゴッドファーザー」では気高く威厳に満ちたファミリーのドンを演じたマーロン・ブランドが、ここでは妻に自殺され、生きる目的も見失った冴えない中年男を見事に表現している。
特に、妻の亡骸に独白するシーンは、ブランドの底知れぬ演技力をまざまざと見せつけられ、こちらまで嗚咽をもらしそうになる。
当時はタブーとされた過激な性描写から「芸術か、猥褻か」で大きな問題となったが、全編を通して見れば、性的表現は本質の一部に過ぎないことがよく分かる。
「人生」をここまで儚く描いた作品も稀であり、名前も知らない恋人同士が最後のタンゴを踊るシーンはまさに名場面と言うにふさわしい。

参照記事はこちら
愛と破滅 マーロン・ブランドの名演が光る『ラスト・タンゴ・イン・パリ』

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70年代半ばから6年間、ニューヨークのボナーノ・ファミリー(マフィア)に潜入したジョセフ・D・ピストーネというFBI捜査官の手記を原作にした実録。
ドニー・ブラスコという偽名でたった1人覆面捜査をして、巨大ファミリーを壊滅させた彼を演じるのはジョニー・デップ。
ドニーを信じ弟分としてファミリーのルールを教える、もう1人の主人公レフティ役にアル・パチーノ。
いつかは昇格してやろうと夢みる、うだつのあがらないマフィアの役を、パチーノが悲しいまでに演じている。
ドニーも仕事としてマフィアを陥れる罠を仕掛けていくものの、レフティとの絆は深くなっていく。
この2人の友情が、悲しく美しく、そして切ない。

一時はマーケットプレイスで15000円で取り引きされていた、隠れた名作。やっと再販になりました。
この作品は、ひとえにアル・パチーノの演技と脚本の勝利です。
ジョニー・デップも好演していましたが、やはりアル・パチーノの哀愁に満ちた演技に心を奪われずにいません。
「ゴッドファーザー」では冷酷非常なマフィアのボスを演じていたパチーノが、本作では出世に縁のない、使い走りのチンピラを情感たっぷりに演じています。
最終的には自分が目をかけてやったドニーに裏切られ、闇に葬られるのですが、そんな役でも、どこか人間的に崇高なものを感じさせるのは、やはりパチーノが卓越した俳優であるからでしょう。
死を予感したレフティが妻に言付けるドニーへの遺言、『お前なら許せる』が全てを物語っています。
男の愛の物語です。

【Amazon レビューより】

70年代のギャング達の生態が、その生々しい暴力描写と、リアルなセリフ群でビシビシと伝わってくる。そしてデップ演じる潜入捜査官と、パチーノ演じるうだつの上がらないマフィアとの深まっていく共感のやるせなさよ。
世の中には理解しようと努めても、心を通わそうといくら頑張っても不可能な者同士がいくらでもいるというのに、なぜこの二人がお互いの中に「何か分かりあえるもの」を見つけてしまったのか。
ジレンマに置かれたデップの目がいい。そしてパチーノ!!さえない男を演じるパチーノは最高だ。
最期に引き出しを開け、大切なものをしまい、出かけようとしてふと立ち止まり、引き出しを開けたままにして去るパチーノ。あなたは私を泣かせる。

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参考記事→石岡瑛子さん追悼 フランシス・コッポラの映画『ドラキュラ』~不滅の愛を描く~

ブラム・ストーカーの原作を、巨匠フランシス・F・コッポラ監督が映画化したラブストーリー。
永遠の愛を求め続ける悲しき男ドラキュラを描く。
主演は、演技派のゲイリー・オールドマン。ドラキュラに魅入られる運命の女性ミナは、ウィノナ・ライダーが好演。なお、本作の衣装を担当した日本の女性デザイナー石岡瑛子さんは、アカデミー受賞している。

単なるホラー・アクションを超えて、愛と生命を描いたロマンチックな作品に仕上がっている。
恐怖の怪物ドラキュラを、「真実の愛を求めて彷徨する男」として描いたところに本質がある。
ドラキュラが渇望している『血』とは、『愛』そのものなのだ。
それは即ち、現代人の飢えの象徴でもある。
ヒロインのミナが剣で胸を刺された醜いドラキュラの唇にキスする場面は、さながら「美女と野獣」のようであり、この愛の行為が暗黒の呪いを破って、ドラキュラの魂を天国へと導く。
ミナの恋人役のキアヌ・リーブスがどうでもよくなるほど、ゲイリー&ウィノナの魂が乗り移ったような演技が冴える。
が、実はこの二人、撮影中は犬猿の仲だったとか。
にもかかわらず、真実の愛を演じきったところは、さすがハリウッドを代表する大物俳優といえる。

【Amazon レビューより】
神のため戦争に赴き凄まじい戦果を挙げたドラクル伯爵。しかし彼が凱旋したとき,最愛の女性は「ドラクル伯爵戦死」の誤報を聞き既に自害していた・・・
「神よ!これがあなたのために戦った私への仕打ちかッ!?」・・・
彼は神を呪い,人の血を吸い永遠に生き永らえる怪物へと変貌した・・・愛深き故に魔界に墜ちた彼に,心の平安は訪れるのか・・・
ドラキュラと言うとホラー映画を連想しますが,本作品はコッポラ監督だけあって趣の異なる作りとなっています。
ホラータッチの描写もありますが,間違いなく悲しき愛の物語です。ラストシーンでは目頭が熱くなること請け合いです。怪優ゲイリー・オールドマンの鬼気迫る演技はさすが。ウィノナ・ライダーもはまってます。
ちょっと影が薄いですがキアヌ・リーブス,アンソニー・ホプキンスも出演。
元ユーリズミックスのアニー・レノックスが歌うテーマソングは、映画のストーリーと雰囲気を完璧に捉えた悲しく荘厳なラブソング。
ちょっと泣けてくるくらい素晴らしいメロディを奏でています。
石岡瑛子さんデザインの衣装も芸術的。全てがハイレベルの完成度の高い映画です。

初稿 : ’06 November

Photo : http://mentalfloss.com/article/62427/15-things-you-didnt-know-about-godfather

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