密度濃く可愛がられたいか

2016/10/26に追記:

古今東西、いろんな育児論が存在しますが、結局のところ、自分が一番納得できる論、あるいは自分の状況を擁護してくれる論に落ち着くのが、大多数の感情ではないかと思います。

三歳児神話を信じたい人はそれを信じるし、自分は自分、育児は育児と割り切って、あくまで併行を貫く人は、それを応援する論を支持するし。

自分の育児や生き方を否定する考えには真っ向から反発して、潰したくなるのが人情でしょう。

いずれにせよ、現代の母親の根本にあるのは、「否定される恐怖」と「うしろめたさ」ですよ。

世の中には完璧な育児、完璧な子供、絵に描いたような家庭を作っている人もあるだろうけど、多くはそうじゃない。

どこか綻び、どこか苛立ち、自分でも何かを誤っているのは重々承知だけども、それを修正する気力もなければ体力もなく、毎日疲弊する中で、どうにか自分を慰め、その日その日を乗り切るのが精一杯──というのが普通の姿だと思います。

だとしても、自分を擁護する論説の中で、「開き直る」のと、どこか自分自身に疑問を持ちながら、「とにかく私はこの線で行こう」とリスクもデメリットも意識しながらやっていくのは、まったく違うと思うんですね。

たとえば、乳児や幼児を預けての仕事。

うしろめたいのが当たり前です。

誰だって、24時間、側に付いて、愛も手間もたっぷりかけた方がいいのは分ってる。

でも、経済事情、人生設計、様々な理由から、そうせざるを得ない状況も出てくる。

その時に、自分を擁護するワーママ論の中で「これが正しい! 三歳児神話なんかウソ!」と開き直って、その他一切を否定しながら自我を押し通すのと、「もしかしたら、そうなのかもしれない」と、時々、自分を省みながら、苦しい、切ない中で、自分に出来ることを精一杯するのと、全く違うと思うんですよ。

よくワーママ論で「なんで、うしろめたさを感じながら働かないといけないのか」という話があるけども、うしろめたさを感じて、何が悪いのでしょう。

子供や夫へのうしろめたさは、愛情と誠実の裏返しでしょう?

人間、本当に相手に無関心であれば、悪気も、うしろめたさも感じない。

母親としての愛情や責任感があればこそ、子供を預ける時に「申し訳ない」と感じる。

それで正解だし、他の理屈で正当化する必要など断じてないと思いますよ。

むしろ、自分の生き方を否定する論に一切耳を傾けず、「私は正しい」と開き直る方がもっと多くの問題を孕んでる。

心の痛みは愛の痛み、育児の迷いは母の自覚と責任、これらの複雑な葛藤を通して、我が家らしい親子関係を築いていくのだと思います。

そういう意味で、「(日頃は放ったらかしでも)密度濃く可愛がればいい」という論説で自分を正当化して、開き直らないで欲しい。

そういう考えも一つの救いではあるけれど、一方では、「もしかしたら、私は間違っているのではないか」「この子にはもっと別の対応が必要ではないか」という問いかけは持って欲しい。

ワーママであることを周囲から責められて、「いや、私は正しい」と反論したくなる気持ちは分るけど、正当化と開き直りは、そこで視野を遮ってしまうからです。

その家の事情は、その家族にしか分らないし、母親の置かれた立場も人それぞれです。

でも、ママが子供のことで心の痛みを感じている限り、そこには愛があるし、育児に迷う限り、これからどんな風にでも変えていける可能性があります。

いつか、子供が理由で、別の生き方を選択することになっても、痛み、迷い、悩み抜いた末の決断は、何かの形で報われると思います。

立場弱く、周りに責められるとしても、その痛みと迷いの中にこそ、母の愛があると思います。


初稿2005年1月12日

最近、よく、「密度濃く可愛がってるから、それでいいんだ」という声を聞くけれど、
私だったら、そんな愛され方はイヤだな。

たとえば、仕事中毒の旦那を持って、平日はもちろん、土日もほとんど家におらず、朝から晩まで仕事、仕事で、その埋め合わせとして、ひと月に一度は高級レストランに連れて行ってくれるとか、年に一度は宝石をプレゼントしてくれたとしても、

「君のことは、密度濃く愛してるから、いいだろう?」

と言われたら、私はもう「結婚生活は終わった」とみなすわ。

『一緒に生きていく』って、そんなもんやないやろ、って。

日常生活には、何気ない積み重ねがいっぱいある。

たとえば、食後に一緒にお茶を飲んだり、子供の仕草に目を見合わせて笑ったり、二人でウンチの始末をしたり、ポテトチップスの奪い合いをしたり……。

ただソファに並んで腰掛けて、相手の体温を感じながら過ごすことで、心に得るものも大きい。

別に、朝から晩までイチャイチャする必要などないのだ。
会話、会話と身構えて、政治や文化についてあれこれ語り合う必要もない。

特別何かするわけではないけれど、相手の気配、相手の存在を感じながら、「一緒に時を過ごすこと」って、生活を共にする上で、一番大事なんじゃないかしら。

それは、夫婦に限らず、親子でもそう。

「子供と離れている時間が愛を育てる」なんて言う人もあるけれど、じゃあ、自分が、夫に同じ事されたら、どんな気分がするだろう。

一日20~30分の会話だけで、夫との愛が果たして深まるだろうか。

『いろんな事情から、子供と一緒に居ることが出来ない。親として申し訳ない』

それでいいのではないか。

なぜそこで、「密度濃く可愛がっているから、うちはいいんだ」と、わざわざ自分の正当性を強調する必要があるのだろう。

私も理由あって一時保育を利用しているけれど、本来自分がやるべきことを一部人任せにして、親として恥じ入るし、不甲斐ないとも思う。

そして、そのことを、「私にもこういう事情があるから」「親にも安楽が必要」「子供も楽しそうにしているから」なんて、正当化する気にはならない。

出来てないことは、出来てない。

そう認めている。

そして、認めることで、子供にも謙虚になれる。

保育園から帰ってきた子供が、癇癪起こそうが、病気になろうが、「そうさせているのは、自分だ」と思うことで、不必要に怒ることはなくなるのだ。

母親がどんなライフスタイルを選ぼうと、それはその人の自由だし、その家にはその家の事情があって、必ずしも理想通りにいかないのが現実だ。

だからといって、いろんな理屈をごねて、自分のやっていることを正当化するのも、たいがいおかしいと私は感じる。

「うちは特別問題ないから」と、開き直っている人の多くは、子供がまともに物を言えない部分で、子供の心を舐めてかかってないだろうか。

「保育園にお迎えに行くと、『ママ!』と笑顔で駆け寄ってくれます。だから親子の絆は確かです」

なんて言う人もあるけれど、ママの顔を見たら、笑顔で駆け寄ってくるのは当たり前だし、その瞬間だけ捉えて、「うちの子は大丈夫」と思える根拠が、私にはどうにもこうにも理解できない。

だって、一日24時間、子供に張り付いて、子供が一日、どんな表情、どんな思いで過ごしているか、実際に自分の目で見て確かめている訳じゃないんでしょう。

だったら、「知らない部分」の方が多いはずだし、自分に向けられた一瞬の笑顔だけで、何もかも判断するのは、あまりにも危険なんとちゃいます?

こうやって、都合の悪い部分には目を向けず、何でも自分を正当化しようとする母親が増えてるのだとしたら、その数に比例して、リストカットする女の子も増えると思うよ、私は。

今は幼いから、深くものを考えないけど。
思春期過ぎたら、自分自身のことはもちろん、親の矛盾も建前も、全部看破するからね。
甘く見たら、怖いよ。

「『三歳児神話に根拠はない』と厚生省も言ってます」

と言う人もあるけれど、自分の母親としての見立てはどうなのだ、と私は思う。

調査はあくまで全体の傾向をまとめたものであって、個々の子供、すべてに当てはまるわけじゃないから。

他の子はOKでも、我が子は違うタイプかもしれない。

それについては、どう理解してるのかな、と。

それに、「厚生省が言ってます」なんて言うけれど、調査結果なんて、永久のものじゃないしね。

明日には、「母子が離れていることには、やはり問題があると指摘されています」という調査結果が提示されるかもしれない。
(「うつぶせ寝」や「抱き癖」の効果も、今では疑問視されているでしょう)

その時、『三歳児神話に根拠なし』を支持して、それに胡座をかいている人は、どうするつもりなんだろうね。

結局、自分の目で見ているようで、何も見ていないし、自分の頭で考えているようで、何も考えてない。

横から、誰かの意見を引っ張り込んで、「だから、正しいんですよ」というのは、「明日、石油が枯渇します」というニュースを聞いて、トイレットペーパー買いだめに走るオバサンと同じなんだよ。

私は、自分の実感として、「親子が一緒に居る」ことの重要性をつくづく思わずにいないし(一時保育を始めてから、ますますそう思うようになった)、それを叶えられないでいる自分自身――たとえ真っ当な理由があったとしても、親として恥じ入るし、不甲斐ないと思うよ。

そして、その気持ちを、いろんな理屈で正当化しようとは思わない。

人に、「あんた、ヒドイんじゃないの」と言われたら、「はい、そうです。返す言葉もございません」と、素直に頭を垂れるだろう。

だからこそ、子供のギャングのような振る舞いに、寛容になれる部分があるんだ。

だって、そうさせているのは、自分なんだから。

もし「自分のやってることは正しい」とするなら、ただイラつくだけだと思うよ。

子育ての基本って、

「自分が親にされてイヤだったことは、子供にもやらない」
「自分が親にしてもらって嬉しいことは、子供にも積極的にしてやる」

それだけじゃないか、と思うことがある。

まずは、自分と夫の関係に置きかえて考えたらいいと思う。

もし、夫が家に帰ってこなかったら。
あなたと一緒に居ることを大事に考えなかったら。
物で機嫌を取るだけとしたら。

どんな気持ちになるか。

それは子供だって同じだと思う。

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プロフィール

阿月まり

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