生きること愛すること

私もこの二月で三十八歳になる。
「もうそんな年か」と思う一方、「まだそんなものか」という余裕もあり、気分的には“嬢ちゃんばあちゃん”のままである。

これが三十九歳になり、四十の声を聞くようになったら、年齢コンプレックスでガツンと来るのかもしれないが、顔文字使って、きゃらきゃら、はしゃいでいるうちは、まだまだ大丈夫な気がする。

ところで、『三十八歳』という年齢は、私にとって特別な年で、それは私の尊敬していた人の享年に当たる。

その人の名は、天本富士子さん。

私が看護学校の実習生として彼女に出会った時、彼女は進行性のガンに侵され、余命いくばくない状態だった。

原発巣は、乳房。
ガンが発見され、乳房切除術を受けられた時には、かなり進行して、リンパ節への転移も始まっていた。

私が実習生として富士子さんを受け持ったのは、二度目の入院をされて一ヶ月ほど経った頃だった。
富士子さんは、最初の手術後、数ヶ月は元気に仕事などしておられたが、突然、立って歩けないほどの腰痛に襲われ、再入院されたのである。

検査の結果、腰椎の数カ所に転移が見られ、それが直接生命を脅かす恐れはなかったが、全身に散らばったガン細胞は、いずれ体中のリンパ節や内臓に転移すること必至で、余命は三ヶ月とも、半年とも言われていた。

本人には、「ぎっくり腰による歩行困難」という説明がなされ、形ばかりの腰椎牽引セットを装着されていたが、「それ以上に何かが悪い」というのは誰の目にも明らかだったし、富士子さん自身も、薄々、気付いておられたようだった。

だが、誰も何も言わないし、本人も問いかけたりしない。

医者も、看護婦も、家族も、知人も、皆が「ぎっくり腰」として扱い、富士子さんもまたそのように「振る舞って」おられたのである。

私が看護学を学んだのは、九州にある国立がんセンターの附属看護学校で、実習の大半はがんセンターで行った。

私が、がんセンター附属の看護学校を選んだ理由は、将来的に終末医療(ターミナル・ケア)に携わりたかったからで、終末医療を勉強するなら、がんセンターが一番だと思ったからである。
日本国内で、附属看護学校を併設するがんセンターは、四国と九州に一つずつあるだけで、九州を選んだ理由は、当時の学校長兼院長の「ガーデン・ホスピタル構想」に惹かれたからだった。

旧陸軍病院の跡地に建てられた九州がんセンター一帯は、その頃、広大な緑地に囲まれて、地元の人が散歩やスポーツに利用するほど、のどかで、美しい所だった。

そして、学校長兼院長の森本先生は、優れたドクターであると同時に、心優しい高潔な文士で、病院の至る所に、がんセンターの基本精神である『病む人の気持ちを』という言葉が、大事に掲げられていた。

今はもう、市内の看護学校統廃合により、附属看護学校は閉鎖され、がんセンターも、HPで見る限り、すっかり変わったような印象を受けるが、この学校を卒業したことは、私にとって一生の誇りだし、そこで出会った人のことも一日たりと忘れたことがない。

わけても、富士子さんとの出会いは、永遠の課題を投げかけられたような、非常に意義深いものだった。

もし、神様が、しばしば人間の姿を借りて、人の前に降り立つとしたら、富士子さんこそ、私の神様だったと思う。

だからこそ、あんなにも早く、幸せの絶頂期に、逝ってしまわれたのだ、と。

私が富士子さんを受け持ったのは、一年に及ぶ実習期間もそろそろ仕上げに入る三年生の九月で、その頃には、白衣姿も様になり、学生だか職員だか分からないような貫禄があった。
時には大きな失敗もしたけれど、何かと目立つ存在で、先生からも、同期からも、一目置かれていた。

そして、自分でも、その存在感を十分に自覚し、何をやっても自信に満ちあふれていたことから、中には「自信過剰」と煙たがる看護婦さんもあったが、基本的には周囲の期待と信頼を得て、出世街道を駆け上がっているような、強気な学生だった。

ゆえに、富士子さんを任された時も、「私はやれる」という自信があったし、「この人を助けるんだ」みたいな意気込みに燃えていた。

私にとって、患者さんというのは、看護の対象ではあるけれど、一方で、「自分の成績の踏み台」であり、自己満足の餌だったのだ。

看護学生に期待されること――それは、看護婦の手が回らない隅から隅までお世話して差し上げることである。

もちろん、勉強が第一である。
だが、実質的には、業務の忙しい看護婦に代わって、比較的状態の落ち着いた、日常生活動作が困難な患者の世話をすることにある。
ほとんど動けない患者の、ベッド周りの整理整頓から、箸の上げ下ろしまで、看護婦が一人一人付きっきりでやっていたのでは、とても業務が回らない。
そこで、実習という形で学生に受け持たせ、専門知識や技術を習得させる傍ら、看護の充実にも一役買ってもらおうというのが実習生の大きな役目だった。

私も、富士子さんを受け持つに当たって、看護目標の第一に挙げていたのが「日常生活の援助」だった。

腰椎まで転移した進行性のガンではあるが、肝臓や脳など重要臓器に転移した患者と違って、全身の侵襲は比較的少ない。
絶え間ない疼痛で、立ったり歩いたりはもちろん、寝返りを打つことさえできない点を除けば、意識もしっかりし、気力も食欲もある方だったので、全身状態の観察よりはむしろ、食事の介助や清潔保持といった、日常生活援助の方が重要だったのである。

富士子さんのことは、実のお母さんがほとんど付きっきりでお世話されており、特に学生の手を必要とはされていなかったが、お年という事もあり、私が受け持つ事に関しては好意的だった。
衣類を交換したり、体位を変えたりするのは、非常に体力が要るため、小柄なお母さんには辛い時もあったからだ。

そして、富士子さんも、お母さんが不在の時に、体位の交換や排泄介助など、一つ一つに看護婦を呼ぶのは気が引けたのだろう。
これから受け持ち学生の私が付ききりで援助すると聞いて、ほっとされたようだった。

中には、「学生が周りをちょろちょろするのは鬱陶しい」と嫌がられる患者さんもあり、気難しい人や、心を閉ざして一言も喋らないような患者さんに当たった学生は、実習期間中、泣きを見ることになる。

ほとんどの場合、「患者と気が合わない」とか「会話が進まない」ぐらいでは、受け持ちを変えてもらうことは出来なかったので、患者に口を聞いてもらえないどころか、病室を訪れることさえ拒否されるような時は、どの学生も精神的にまいってしまって、中には、実習中に脱走したり、物置に閉じこもって出てこないような人もあった。

その点、富士子さんや、富士子さんのご家族は、非常に好意的で、むしろ学生が甘えられるような雰囲気さえあった。

こういう患者さんに当たれば、学生は「ラッキー」と呼び、私も「今度の実習は楽勝」と余裕で構えていた。
ただでさえ苦しい実習が、患者とウマが合わなければ、まさに地獄の苦行と化すので、せめて人間関係だけは楽であって欲しい――それが学生の共通の願いだったからだ。

そんな富士子さんは、三人の子供のお母さまで、下のお子さんはまだ二歳になったばかりだった。
実家は、ホルモン焼きの小料理屋で、ご主人と、実のお母さんと、三人で営んでおられた。

時々、ご主人が三人のお子さんを連れてお見舞いに来られたが、事態を理解しているのは七歳の長男だけで、次男は「お母さんが病気」ということだけ、二歳になる娘さんに至っては、母親に何が起こっているかさえ分からない状態だった。
お見舞いに来ても、菓子を片手に、母親のベッドの周りをぴょんぴょん跳び回っているだけで、話をすることさえ出来ない。

そんな状態で、見せかけの牽引セットにつながれ、じっと仰向けの姿勢で一日中過ごしている富士子さんの心中はいかなるものだっただろう。

私は看護学生だから、患者さんの心のケアも重要な課題だった。患者さんが求めれば、何時間でも話しを聞き、慰めでも励ましでも、全身全霊で応える用意があった。

だけど富士子さんは、ただの一度も愚痴や泣き言はおっしゃらなかった。いつもニコニコと明るく、むしろ学生の私に気を遣って下さるぐらいだった。

だからといって、「富士子さんは元気で明るい患者です」と片付ける訳にはいかない。
自分が癌であることも(乳ガンの場合、乳房を切除する必要から、たいてい告知される)、「ぎっくり腰」と言いながら、ちっとも症状が改善しないことも、十分過ぎるほど自覚しておられる。
いつもニコニコしておられるからといって、苦しみも悲しみもないはずがない。

富士子さんが何もおっしゃらないのは、私が頼りないからだ――。

いつしか私はそう思うようになり、どうしたら心を開いて下さるだろうと、そればかり考えるようになった。

私はまだ学生だけど、病気で苦しむ人の気持ちは誰よりも知っている――そんな自負もあった。

それだけに、「強くて、優しくて、泣き言の一つもおっしゃらない富士子さん」は、別の意味で、やりにくい患者さんだったのである。

ある日、私は、富士子さんにこう切り出した。

「……だけど、いろいろ考えて、しんどいこともあるでしょう」

が、富士子さんの答えは明快だった。

「私はそんなに考えないの。考えたって、仕方ないから」

「でも……」

私が言葉を継ごうとすると、富士子さんは私の目をしっかと見据えておっしゃった。

「それに、聞いたって、誰も本当のことは教えてくれないでしょう」

私は射抜かれたようになって、そこから言葉が続かなかった。
沈黙はそのまま答えになり、私は自分の安易な思惑を恥じた。

富士子さんの本音を知ったところで、私はどう答えるつもりだったのだろう。
「良くなりますよ、大丈夫ですよ」と、無責任に言い逃れて済むことだろうか。
あるいは、「死ぬのは怖い、死ぬのはいや」と泣きつかれて、絶対的に救済する自信があったのだろうか。

いや、それよりも、私は、「強くて、優しくて、泣き言の一つも言わない富士子さん」が、自分と同じように、痛み苦しみに弱い人間だと確かめたかったのだ。

そうでなければ、私が、私でいられなくなる。

どんな人間も弱い。
自分がダメだと分かれば、世を恨み、泣き叫ぶ。
どんなに明るく繕っても、その笑顔の下には、どろどろした恨みつらみ、嘆き、苦しみがあるはずで、それこそが人間の偽らざる姿ではないか。

少なくとも、私はそう信じていたし、富士子さんにもそうであって欲しかった。

富士子さんの中に、自分と同じ弱さを見ることによって、安心したかったからだ。

ところが、富士子さんがおっしゃったのは、

「だけど、私は絶対に治ると信じているの。必ず治ってみせるわ」

嘘だ、と思った。

そんなのは強がりだ、と。

立つことも、寝返りを打つこともできない状況で、どうして「治る」などと信じることが出来るのか。
今の医学の常識から考えれば、転移した進行性のガンが治る訳がないではないか。

だが、富士子さんの口調は、強がりでも、嫌味でもなく、確固たるものだった。
本当に『治る』と信じて疑わない、そんな気迫に満ちていた。

私はますます何も言えなくなって、小さく固まった。
富士子さんの運命に、『治る』なんて奇跡はあり得なかったからだ。

こんな時、無責任に相づちを打つのも、わざとらしく話をそらすのも、どちらも不実に違いない。
その時、人に出来るのは、せいぜい逃げずに、聞き続けることだけだ。

私はどうしたか。
今では記憶にないが、多分、誰かに呼ばれるまで、そこにじっと座っていたような気がする。差し障りのない話をしながら。

このように、告知されていないガン患者にきわどい質問や言葉を投げかけられて、答えに窮するのは、学生に限ったことではない。医者、看護婦、家族、友人、患者にかかわる全ての人が、答えを探し続けている。

これは私の印象だが、どんな患者も、自分がガンであることは薄々気付いているものだ。
でも、信じたくないから、周囲の嘘に乗ってあげる。
医者や家族の態度が明らかに演技と分かっていながら、騙されてあげるのだ。
そうしなければ、生きて行けないから。

そしてまた、患者が騙された振りをすることで、家族も安心する。執拗に問いつめられるよりは、何もかも気付いていながら、「私の胃潰瘍は厄介なのねえ」と死ぬまで言い続けてくれる方が救われるからだ。

そして、そういう優しい騙し合いの中で、患者は静かに最期を迎える。とうとう死ぬ日がやって来ても、「よくもオレを騙したな」と突っ掛かる患者はいない。騙し、騙されて、それで良かったのだと、たいがいは納得してゆく。

だから、告知が正しいとか、正しくないとかの問題ではなく、人間というのは基本的に「あなたはもうすぐ死にますよ」とは言えないものだし、たとえ事実に気付いたとて、認めたくないし、本当の事も言って欲しくないのが真情なのだ。

それだけに、富士子さんが「私は治る」と確固たる口調で言われた時、私は正直、「そんなこと信じないで下さい」と思った。
だって、信じれば信じるほど、裏切られた時、傷つく。
傷つくために信じるくらいなら、信じない方がましではないか。

私には、こんな悲惨な状況下で、「治る」と言い切る富士子さんの気持ちが信じられなかったし、いったい、その気持ちはどこから湧いてくるのかと、本当に不思議でならなかった。

少なくとも、私の知っている「人間」というのは――自分も含めて――光を見るより、闇に囚われやすく、ひとたび絶望すれば、救いようがないほど落ち込んで、そのまま腐っていくものだったから。

やがて富士子さんの病状はますます悪化の一途を辿り、実習の最終週に付き添ったRI検査(放射性同位元素を用いたX線撮影)では、肝臓への転移が確認された。
いずれ肝機能不全から昏睡状態になるのは時間の問題だった。

主治医は、少しでも延命すべく、抗ガン剤を用いた化学療法の開始を決めた。
当時の抗ガン剤はまだまだ副作用が強く、嘔吐や悪寒、発熱などで、使用に耐えられない人も多かった。

だが、富士子さんは、「それで治るのなら」と積極的に受け入れられた。
膿盆に何度も嘔吐しながら、点滴投与に耐えられた。

そのうち、付き添いのお母さんが見るに見かねて、看護婦さんや私に「何とかしてやって下さい」と訴えられた時には、
「もうっ、素人は口を出さないで。黙って見ていて。治療なんだから、仕方ないでしょっ!」
と、強い口調でたしなめられたこともあった。

私には、いたずらに富士子さんの体力を消耗させるだけにしか見えなかったが、治療は富士子さんの希望だった。
「何もしないよりは、何でもいいからして欲しい。その為なら、どんな苦しい治療にも耐える」――たとえ、最後の髪の一本まで抜けても、生きて、家に帰れるなら、惜しくはない、そんな気迫だった。

そうして今こそ、よりいっそう助けが必要な時に、私の実習期間は終了し、後ろ髪を引かれるような思いで、いったん「さよなら」を告げた。
富士子さんには、いっぱい「ありがとう」を言ってもらったけれど、「私は結局、何一つできなかった」という無力感を拭い去ることはできなかった。

それから、受け持ち学生は、私の友人、そのまた友人と、二代にわたって引き継がれ、三人目が看ることなく、富士子さんは息を引き取られた。
予想通り、直接の死因は肝機能不全で、あっという間の三ヶ月だった。

亡くなる前に、私は一度、病室を再訪したことがある。
黄疸(肝臓で分解しきれない毒素が全身に回ること)がきつくなって、意識も朦朧としていた頃だ。

それまで四人部屋で頑張っておられたが、黄疸が始まり、手足がパンパンにむくんで、食事も摂取できない状態になった為、個室に移動されていた。

ネームプレートには、絶対安静の重症を示す赤い札がかけられ、まだ元気に話をされていた頃の明るさはどこにもなかった。

同室の人の話では、個室に移られる時、「今まで、皆で力を合わせて、頑張ってきたのに」と寄り合って泣き合い、「でも、私は元気になって帰ってくるから。きっと良くなって、帰ってくるから」と、明るく笑って大部屋を出られたと言う。

「たとえ他人様のおられる病室で、おまるを使うことになっても、独りぼっちはいや」とおっしゃっていただけに、個室に移る時はさぞかし落胆されたことと思う。

というより、がんセンターには、「個室に移ったら最期」という暗黙の了解があったので、淋しいとか何とか言うよりも、「いよいよ」という気持ちの方が強かったかもしれない。

室内には大きめのマットが床に引かれ、そこにご主人やお母さん、子供達が代わる代わる寝泊まりされていた。

お母さんがおっしゃるには、
「真ん中の子と下の子は、何か分かっていないようでも、何かを感じているんですね。病室に入ると、すぐに泣き出すんです。『こわい、こわい』と怖がって、母親のベッドにも、よう近付けないんですよ」

私が病室を訪れた時には、ご主人がベッドサイドに座り、ベッドに突っ伏すようにして、打ちひしがれておられた。

私の姿に気付くと、さっと椅子を立たれて、「何か話しかけてやって下さい」と、静かに病室を出て行かれた。

私は椅子に座ると、黄疸で黄色く染まり、パンパンに腫れ上がった富士子さんの左手をそっと握って、言った。

「しんどかろ」

すると、それまで一言だって「しんどい」とか「苦しい」とかおっしゃらなかった富士子さんが小さく頷いて、閉じた瞼から、つーっと一筋の涙が伝い落ちた。

私はあまりの哀しさと美しさに涙を拭うこともできず、ただ腫れた手を握りしめるばかりだった。

そして、力なく重ねられた富士子さんの、淡い手の温もりを感じながら、
「生きて。どんな姿になってもいいから、生き続けて」
と、何度となく祈った。

そうして祈る中で、私は、(『人を愛する』って、こういう気持ちを言うのだなあ)と、初めて理解したのである。
 
それまで私は、人を愛することはおろか、生きるということにすら懐疑的で、「人間は死ねばそれまで」みたいなニヒリズムに取り憑かれてきた。

「脳死も人の死」と位置づけ、意識も感覚もない寝たきりの病人に医療行為を施すなど、無駄としか考えなかった。

だが、富士子さんの存在は、私のそうした愚かな思い込みをはるかに超えるものだった。
私にとって、富士子さんという存在は、このまま意識不明の植物人間になろうが、病魔で醜く衰えようが、ただ生きて、そこに居てくれるだけで、救われる存在だったからだ。

そんな気持ちを、今まで誰かに感じたことがあっただろうか。
「ただ、そこに存在するだけで、愛しい」などと。

富士子さんは、ただ存在するだけで、愛すべき人だった。

そして、それこそが、『愛』と呼ぶにふさわしい愛なのだ、と。

富士子さんの手の温もりは、私に、愛と命の存在を教えてくれた。
この世に見返りを求めない、絶対的な愛などない、人は死んでしまえば、それで終わりだと、ニヒリズムに取り憑かれていた私の心の隙をきれいに払ってくれた。

そして、今まで、自分自身はもちろん、他人の命さえも、愛しいと思ったことがなかった私にとって、富士子さんの温もりは、まさに「命と愛」そのものだった。

後で、二代目の受け持ち学生から聞いた。

「富士子さんはね、最後の最後まで諦めなかったそうよ。もう治療に耐えられる体力もないから、化学療法も打ち切りになったんだけど、意識が朦朧としながらも、『お願いですから、治療して下さい』と何度も頼まれるから、先生が見るに見かねて、『これが治療の薬です』と、生理食塩水の小さなボトルを点滴につないでみせたそうよ」

「それで富士子さんは納得したの?」

「『ありがとう、ありがとう』って、喜んでたそうよ。そんなにも、治りたかったんだね」

友人の言葉に、私は完全に打ちのめされた。

「私は絶対に治ると信じているの。必ず治ってみせるわ」
という富士子さんの言葉は本物だったのだ。

治りたい、どんなことをしても、治って、家に帰りたい――という人の気持ちを、私は理解することができなかったし、支えることもできなかった。

何より、私は、富士子さんの心の強さや明るさを信じることができなかった。
なぜなら、私には、そんな強さや明るさがなかったからだ。

結局、私は何をした――?

救われたのは、むしろ私の方ではないか。

そう考えると、私はつくづく「人を救える」などと思った自分の傲慢さや浅はかさが恥ずかしくなり、何も出来なかった自分の無力さ悔いずにいなかった。

実習の後、教員や指導担当者に、「患者さんも、ご家族も、みんなあなたに感謝されてたわよ」と言われたけれど、どんな褒め言葉も、ちっとも有り難くなかった。

「あの時、私はどうするべきだったのか」という悔いと問いかけは、医療に携わる者なら一生考える。

私にとっては、富士子さんとのやり取りが最たるものだ。
今でも禅問答のように心を占めている。

折に触れ、富士子さんのことを思い出しながら、私は「三十八歳」という年齢を一つの目標にしてきた。
富士子さんと同じ三十八歳になれば、あの時、理解できなかった富士子さんの「治りたい」という気持ちや、私はどうすべきだったのか、という答えが見えるようなきがしたからだ。

そして、今、私は三十八歳になり、富士子さんと同じ子持ちになっている。

もし、この年で死なねばならないとしたら、私もやはり富士子さんと同じように、
「私は絶対に治ると信じているの。必ず治ってみせるわ」
と言うだろう。
そして、どんなに苦痛を伴ってもいいから、治療して欲しいと願うだろう。

あの時、富士子さんの気持ちを理解できなかったのは、愛すべき存在も、生きるべき責任も、私には無かったからだ。

自分以外を持たないものは、何と弱く、はかないものか。

その真実に気付きもせず、自分一人の世界に閉じこもっていた。

富士子さんは、きっと言いたかっただろう。
「夫と子供をおいて、死ねる訳がないでしょう」

そこが通じなかったのは、一人で生きてきた者と、愛すべき存在を持つ者との違いと思う。
私には、「まだまだ」だったのだ。

富士子さんは、とおの昔に亡くなったけれど、私にとっては「死んだ人」ではない。
よく「心に生き続ける」というけれど、まさにそんな感じだ。

富士子さんが亡くなってから、富士子さんを受け持った学生三人で、霊前に手を合わせに、自宅まで伺ったことがある。
まだ四十八夜の明けぬ頃だったが、お店は平常通り営業されていた。

お母さんの招きで、二階の自宅に上がり、代わる代わる霊前にお参りさせて頂いたが、悲しみが込み上げるばかりで、お母さんにかける言葉もなかった。

そうして、しんみり、最期の様子など語り合っていると、二歳の娘さんがぱたぱたと部屋に入ってきて、祭壇の前の座布団にちょんと腰掛け、鐘をチンチンと鳴らした。

「あの子は、時々、ああして遊ぶんですよ。母親が、あそこに居ることが、何となく分かるんでしょうねえ」

お母さんが涙ぐまれた。

「葬儀の時も、あの子は訳も分からずはしゃぎ回って、その姿がまた皆さんの涙を誘ってね。あんな小さな子をおいて逝かねばならなかった富士子の無念を思うと、今でも胸が引き裂かれそうです。だけど、お参りに来た皆さんが、あの子におっしゃるんですよ。『お前の母親は、本当に立派な人だった』と。それだけは、あの子にとって、とても幸せなことだと思いませんか」

あれから十四年。
母親の顔をろくに覚えもしないうちに永訣した娘さんは、もう高校生になる。
母親を失ったことは悲劇だけれど、母親を知る全ての人に、「あなたのお母さんは立派な人だった」と語り継がれる娘さんが、どうして道を違えるだろう。
恐らく、きっと、いい娘さんになっておられるだろうし、上の二人の男の子も、しっかりした青年に成長されたのではないかと思う。
そのように、富士子さんが天から導いておられるはずだ。
最後まで諦めなかった強いお母さんなのだから。

かくして、私は、一つの大きな目標であった「三十八歳」に辿り着き、これから、富士子さんが味わいたくても味わえなかった幸せを体験しようとしている。

つらいこともあるかもしれない。

でも、幸せの絶頂で、何もかもこれからという時に、世を去らねばならなかった富士子さんの心を思えば、軽く乗り越えて行けるような気がする。

私にもまた富士子さんがついている。

そう信じて、感謝することが、私の生きる力の一つなのである。

このテーマは前から書きたい、書きたいと思っていたもので、三十八歳になった記念に、やっとの思いで書き出してみたのですが、やっぱり上手く書けません・・・。
あまりにも思い入れが深いのと、考えさせられることが多いので、まとまらないんです。
なんというか、私にとっては、ほんと、永遠のテーマですね。

世の中には、「語り継がれる人」が少なくありませんが、私にとっては富士子さんがその最たるものです。
折に触れ、書きたい、人に話したい、と思うのですが、中途半端には語りたくないので、つい十四年間も引きずってしまいました。

多分、これからも考えるだろうし、何かの機会にはまた書くかもしれません。

でも、何回書いても、結論には辿り着けないだろうし、そもそも、「これが正答です」というものは無いような気がします。

まあ、でも、書いて、読んで頂いて、私もホッとしました。

私以外の人にも、富士子さんの存在を知ってもらえたから。

私の描写力では、富士子さんの強さや無念さはほとんど伝わらないかもしれませんが、ホント、こんな残酷なことがこの世にあっていいのかと思うくらい――また、人間って、こんなに強くなれるのかと感動するくらい――富士子さんって、哀しくも素晴らしい人だったんですよ。

今もご冥福をお祈りしつつ、いつか、あの世で会えたら、「力になれなくて、ゴメンネ」と謝りたいな、と思っています。

私にとっては、ほんと、神様みたいな人でした。

記:’05年02月05日

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