『オイディプス王』と精神的な親殺しについて

2017年10月29日書籍と絵画

ギリシャの有名な古代劇『オイディプス王』をご存じですか。

これは、男児が、母親を確保しようと強い感情を抱き、父親に対して強い対抗心を抱く心理状態を指すエディプス・コンプレックスの語源ともなり、今なお、現代風のアレンジで上演が繰り返されるギリシャ悲劇の名作です。



テーバイの都を治めるライオス王は、太陽神アポロンから、「お前はいつか我が子に殺される運命にある」と神託を受けます。

しかし、神託を破り、妻イカオステと交わったライオス王は、男児をもうけ、その子の量の踵をピンで刺して、従者にたくします。

この時、男児の踵が腫れ上がったことから、「オイディプス(腫れた足)」と呼ばれるようになります。

しかし、子供を殺すに忍びなかった従者は、オイディプスをコリントス王家に託し、オイディプスは立派な青年に成長します。

しかし、自らの出生の秘密に苦しむオイディプスは、デルフォイに赴き、アポロンから、
「もし、お前が故郷に帰るなら、お前は父を殺し、母である女性を妻に娶ることになるだろう」
との神託を受けます。

恐れおののいたオイディプスはコリントスには戻らず、そのまま旅に出るが、旅の途中、三叉の路で、二頭立ての馬車に乗る老人に出くわします。

道を譲る、譲らないの口論から、ついに二人は力づくの争いになり、怒ったオイディプスは老人を一撃のもとに殺してしまいます。

が、実は、この老人こそ、父であるライオス王だったのです。

その頃、テーバイの都の人々は、怪物スフィンクスの謎を解き、見事、これを退治した者は、女王イカオステを娶り、テーバイの王とする、という「おふれ」を出していました。

それを知ったオイディプスは、スフィンクスの元に出掛け、その謎を解いて、スフィンクスの退治に成功します。

やがて、テーバイの王に迎えられ、女王イカオステを娶ったオイディプスは、子宝に恵まれますが、それを境に、テーバイの都では災いが続くようになります。

この事態を憂いたオイディプスは、再び神託を伺いますが、それは、
「大いなる災いの元である、ライオス王殺しの犯人を追放せよ」
というものでした。

王殺しの犯人を追うオイディプスは、やがて、それこそ自分自身であることを知ります。

「父殺し」と「母との交わり」という二重の罪に激しい心の痛みを感じたオイディプスは両目を突いて荒野をさまよい、息子と交わってしまったイカオステは首を吊って自害するのでした。

*

この物語には2つのテーマがあります。

1つは、精神科医フロイトが指摘した、「男児の母親に対する同化願望」。

もう1つは、父と息子(しいては親子)の関係、そして「青年の通過儀礼(=精神的な親殺し)」です。

父の預かり知らぬところで、たくましく成長する息子。

三叉の路での、言い争い。

最後には、父を打ち倒して、我が道を行く息子。

物語では本物の殺人に発展しますが、精神的な過程では、いたって真っ当なストーリーですよね。

子供は、親の預かり知らないところで、親の思う以上に成長するし、我が道を行こうと思えば、いつかは親と衝突し、「譲る、譲らない」の口論になるもの。

それは息子に限らず、娘だってそうです。

相手は母親かもしれないし、それに代わるものかも知れない。



いずれにせよ、子供が成人する過程においては、人生や人格のモデルとなるもの、規律や常識の象徴である『親』というものを、一度、自分の中でリセットし、それを乗り越えて行かなければならないものです。

それが出来てはじめて、親の人間としての弱さ、至らなさを前向きに受けとめることができるし、「我が親も、一人の人間であった」と認識するところから、精神的な浄化はもちろん、受容や譲歩といった、大人の心の働きを感得するもの。

心のどこかに、「親に対するこだわり」が重く引っ掛かっていると、人間関係に躓いたり、育児に苦しんだり、いろんな物事が二重、三重に難しくなるし、いつまでも親の支配下から抜け出せない、自分の人生を生きている実感がない、心の底に憎しみが渦巻く……といった苦しみにも囚われます。

そういう意味で、成長の過程で、『精神的な親殺し』というのは必要だし、親のコントロールが強ければ強いほど、本気で殺すぐらいの気持ちが無ければ、それは達成できないのではないでしょうか。

もちろん、『殺す』という言葉はシンボリックなもので、本当に意味するところは、「自己の存在をかけた闘い」なのですが。

そしてまた、親も、いつかは子供に背中を踏まれることを覚悟しなければならない。

いつまでも「子供の神」ではいられない──ということを自覚すべきだと、私は思います。

子供だって、いつかは「親」が「決して万能ではない」ことに気付いてしまう。

その時、怒り、失望し、自分のモデルとなるものを失なってしまうかもしれない。

でも、本当に子供が独り立ちするのは、「それから」だということ。



目の前のモデルが壊れ、自らの力で、人生の基盤、価値観、指針となるものを見出した時、本当の意味で親から離れ、自立への路を歩き始める、ということ。

それが理解できるか否かで、子離れできるかどうか、も違ってきます。

恐らく、多くの親は、「この路は譲らぬ」とオイディプスの前に立ちふさがるライオス王であるでしょう。

そして、ついには、自分より知恵も力もあるオイディプスに打ち倒されて、世代交代することになると思います。

でも、それでいいのだ、と。

その先に何があろうと、子供の路は子供のものなのだ、と。

そう覚悟することで、親としての役目も立派に幕引きできるのではないか、と。

思うわけですね。

ライオス王が授かった神託──「お前はいつか我が子に殺されるであろう」というのは、シンボリックな意味で、どんな親にも共通の運命だと私は思います。

「あのとき、子供にもっと優しくしてやれば良かった」とか。

「もっと話し合うべきだった」とか。

どんな親でも、多かれ少なかれ、子供に対して負い目を持っているものでしょう。

そして、いつか、自分より知恵も力も付けた我が子が、自分に復讐しに来るのではないかと。(言葉悪いですけど)

そういう恐れって、誰の中にもあるんじゃないですか。

オイディプスの踵をピンで刺して、人として生きる力を奪ってしまうライオス王の行為は、子供を徹底的に支配して、腑抜けにしてしまう親にもよく似ています。

『自立が大事』とか言いながら、子供に「考える力」や「行動する力」を与えるのが怖くて、何でも先回りしてしまうのね。

でも、そうすればそうするほど、子供というものが得たいの知れないものに感じられて、負い目と恐怖の対象になっていく。

いつか、身長を抜いた子供に仕返しされるのが怖くて、ますます強圧的になる親って、決して少なくないと思うんですよ。

あるいは、ご機嫌取りに走ったり。

いずれにせよ、子供が『脅威』である限り、親のやる事は極端になる、と言えましょう。



ちなみに、近頃は、『精神的な親殺し』に失敗して、本当に親を殺してしまう子供が少なくないですよね。

心の中では、「親が全てじゃない」と分かっている。
でも、訣別できない。
そして、ある日突然、「ウザイ。目の前から消えろ」と、突発的に殴り殺してしまう。

あの子達は命の尊さが分からないのではなく、精神的に親が殺せなかった。

恐怖と依存心、そして子供らしい愛情から、親を否定することも出来ず、自分を客観的に評価することも出来ず、がんじがらめの支配の中で、物理的に親を消去する事を選んでしまったパターンだと私は思います。

本当に殺すべきは、親の肉体ではなく、偶像なのに。

それを心の中で切り離して考えることができないほど、強く支配され、離脱する恐怖を感じていた──という事でしょう。

「君は親を否定していいし、君自身の頭で考えていいんだよ」ということを、誰かに肯定してもらえれば、親という偶像を踏み越える精神的な経験が出来たでしょにね。



まあ、こんな感じで、いろんな示唆に富んだ物語です。

ギリシャ神話に限らず、イソップでも、童話でも、「昔の人はえらいなあ」と感じるのは、こういう人間関係や心の機微を、上手い例え話に置き換えて後世に伝えている点ですね。

きっと古代ギリシャの時代から、親子の葛藤は当たり前にあったろうし、青年が自立するための通過儀礼や思春期の苦しみは共通のものだったことでしょう。

でも、それを直截的に表現すると、どうしても嫌みになったり、説教くさくなってしまう。

だから、こうした物語に置き換えて、「親たるものはどうあるべきか」「子供が成長するとはどういうことか」ということをシンボリックに訴えてきたんじゃないかな、と思います。

ついで言うなら、『母子相姦』というのも、昔から強烈なタブーだったんじゃないでしょうか。

姉と弟の結婚や、いとこの結婚は割と普通にあったけど、『母子だけは絶対的に禁忌』とするのは、人類すべてに共通する遺伝的・本能的危機感なのかな、とも思います。

オイディプスに限らず、男の子が旅に出て(多くは、出生の秘密探し。(「実は、あなたの父は偉大な魔法使いだったのです」みたいな)、父親、もしくはそれに相当するシンボルを打ち倒し、一人前の男(英雄)として社会に迎えられる話は多いですよね。

子供が、「自分の本当の親は、何処か別の所に居るんじゃないか」と疑う気持ちもよく分かります。

これも1つのシンボリックな話で、知恵も力もつき、どんどん我が親の正体が見えてきた子供が、「現実の親」に対する戸惑いや疑念を感じ、「より理想的なモデル(親となるもの)」を求めて外に飛び出すのは、自然な心のプロセスですよ。

そして、そこに『導師』となる存在(スターウォーズならオビ・ワンとか)、旅の道連れとなる『仲間』が現れ、ついには、目の前に立ちふさがる敵を倒して、一人前の英雄(おとこ)となる。

どの物語も、子供の成長の過程をシンボリックに描いていると思います。

そう考えると、いつか子供に背中を踏まれても、決して恥ではない。

「こんな親なら良かったのに」と思われたとしても、それも思春期ならよくある話。

酔った勢いで妻と交わり、授かった子供の足にピンを刺して、投げ捨てるような親でもない限り、あなたの親としての価値が本物なら、いつかまた振り返り、懐かしく愛を返してくれることでしょう。

ライオス王が為すべきことは、我が子に復讐されることを恐れず手元に置いて愛を注ぎ、いつか我が子に殺される日が来ても、親として潔く受け入れる気持ちではなかったか、と思わずにいないのです。

あ、もちろん、シンボリックな話ですよ^_^;

                   

§ 『オイディプス王』に関する書籍

オイディプスの物語について改めて認識を深めたいならこちらの本がおすすめ。
現代の家族病理に通じる、様々な寓意が感じられます。

定番中の定番ですね。
クラシックな文体に整然たるプロット。
神々の人間くさいドラマが繰り広げられ、数あるギリシャ神話書籍の中でもダントツに格調高く、
いにしえの香り漂う名著です。

北欧の「ヴォーダン大神とトネリコの物語」など、その他の神話も付随しているのが嬉しい。

「精神的な親殺し」について言及している河合先生の名著です。
「家族」というものを、単に愛情としての問題ではなく、社会的、生物的、心理的、様々な側面から読み解き、一つの処方箋を提示している本です。