『罪と罰』と宗教団体の犯罪に関する一考察

産経新聞 7月9日号
Book・本 斜断機より
文:東工大講師 山崎行太郎

小生は、「オウム真理教」が社会問題になった時からこの宗教の本質は文学かげ医術のレベルでしか語れないだろうと思っていた。宗教社会学やサブカルチャー論あたりの認識で、「オウム」の本質を語れるわけがない、と。
さて、そのオウム問題を集中的に取り上げた宮内勝典の「タートル号航海記」(『すばる』連載)が完結したばかりだが、今度は「新潮」七月号で、「信仰とエロティシズム」(『21世紀への対話』7)と題して、宗教学者・山折哲雄を相手に新鋭作家・平野啓一郎が本質的な宗教論を展開している。
平野は、デビュー作『日蝕』以来、宗教に関心の深い作家だが、この対談の冒頭で、こう宣言している。
「今回の対談は、なるべく現代の状況をふまえて、これからの日本にとって、あるいは世界にとって、宗教がどういう意味を持つのか、というような“大きな話”をしたいと思ってきました」
この新鋭作家が単なる一発屋ではなかったことを実証するような大胆不敵な発言である。平野は、オウム問題は一カルト宗教の問題ではなく、現代宗教の本質的な問題だと言う。オウムを甘く見るなかれ、というわけであろう。
そして、現代の宗教問題の本質を、「死後の生の不在」「許しの不可能性」「罰の欠如」等の問題としてとらえる。
たとえば、こう言う。
「神は、最早、罪をあがなってくれない。それは自分の身に引き受けなければならない、この認識こそが僕は近代の始まりだと思うんです。二十世紀の不幸の一つは『罰の欠如』ですね」
「罰」といえば、山口県光市の「妻子殺人事件」の被害者の夫が、犯人を自分の手で殺してやりたい(罰する)と発言したのに対し、日本人の「人権意識の欠如」「人権教育の後れ」を指摘して満足している文芸評論家・千葉一幹より、「現代人は本当に『許す』ことが出来るのか……」と問う平野啓一郎の方が、人間存在に対する認識が深いことは言うまでもない。

学生時代、繁華街から帰ってきた友人が、
『面白いモノもらってきたよ~~』
と一冊のパンッフレットを見せてくれた。

ぱらりとめくってみると、
「君には人生の目的がありますか?」
「充実した毎日を過ごしていますか?」
「対人関係で悩んでいませんか?」
青春真っ只中なら誰もが抱くような悩みの項目がずらりと並んでいる。
そしてその一つ一つに、イラスト入りの処方箋。
要は、「ネガティブ思考をポジティブに変えましょう」という、ありきたりの回答ばかりで、内容的には巷の自己開発セミナーや、癒し系ライトエッセイの類とさして変わりない。

が、一つ異色だったのは、その導き手として『教祖』が紹介されていたことだ。

頂点に君臨する絶対的教祖と、彼に仕える修行者たち。
またその修行者も悟りのレベルに応じて階層分けされ、白いクルタを纏った上半身写真には、「大悟師」「正大師」といった大層な肩書きがずらりと並ぶ。

パンフレットを発行している団体の名前は、『オウム真理教』。

私と友人は、
「ヘンな名前、この人たち、マジなのぉ~~?」
と笑いながらも、胸に忍び込むような謳い文句に注意を引かれずにいなかった。

『 あなたは今のままで本当に満足ですか? 』

オウム事件が世間を震撼させた時、多くの識者が
「なぜ一流大学出の優秀な若者が、こんなカルト集団に安々と絡め取られたのか」
と首をひねった。

だけど私は、優秀であればこそ、あの『謳い文句』に引き込まれずにいなかったエリート達の満たされない自我を思い、妙に納得したものだ。
「(人より)優れている」という自意識は、人並みであることに決して満足しない。優れた人間には優れた生き方があり、優れた生き場所があると思い込んでいるからだ。
「俺にはもっとふさわしい場所がある」
「俺にはもっと偉大なことが出来るはず」
彼らが『(人より)優れたワタシ』を実現するには、それこそ神のように超越し、凡人をはるか足元に見下ろす境地に立たねばならない。
そしてその場所を与えてくれたのが、超現実的な集団であり、絶対正を説く『オウム真理教』だったのだ。

人間は弱く、かつ迷いやすい。
だからこそ絶対的指針となるものを求める。
かつては、それが既存の宗教であり、イデオロギーであり、親であり、教師であり、道徳だった。
が、『神なるもの』が死んだ現代においては、迷いに答を与えてくれるものはない。迷える子羊は、『神なるもの』を求めて、いつまでも荒涼たる闇をさ迷い続ける。
そんな彼らの前に、ある種の光をまとった導師が現れれば、これこそ我が指針と思い込み、盲目的に付き従うだろう。答えを与えられ、信心が深まるほどに、帰依する思いも強くなるだろう。まして、我が目で見、我思う力を奪われれば(マインド・コントロールされれば)なおさらに。

オウムも、井戸端的なオタク・サークルで終わっておけば、今も街角で妙なパンフレットを配布しつつ、存続しえただろう。
ところが、『親父的』な存在だった麻原が、自意識過剰の『説教親父』から、社会や他人への怨み節を吐く『排他的不良親父』に変貌した時点で、息子らも道連れになった。
盲人が盲人を導けば、二人してドブに嵌るという教えの通り、麻原は自分が落ちるべきルサンチマンの墓穴に弟子一同と落ちたのだ。
彼らが犯した罪は、彼らが人々に与えた苦痛と同等のもので罰せられても余りある。
だが、麻原に吸い寄せられた弟子たちの心の隙間には、一種の同情を感じえない。
彼らもまた迷える子羊であり、答えと導きを求めていた。
餓えて盲た目が、麻原という奇怪な光を永遠なる太陽と見まがった過ちを、誰も責めることは出来ないからだ。

「二十世紀の不幸の一つは、『罰の欠如』」と平野氏は言う。
では、その『罰』を与えるのはいったい誰なのか。
神が無いなら、何が神に代わって罰を与えるのか。
本当の不幸は『罰の欠如』ではなく、『神なるもの』の不在であろう。

ドストエフスキーの小説『罪と罰』の主人公、ラスコーリニコフは罪を超えようとし、罪の意識にさいなまれた。
そして『罰』を受けることで、心の平安を見出した。
ラスコーリニコフがはなから神の存在を無視し、罪や罰といった観念さえ超えていたのなら、ソーニャに諭される前からあれほど苦悶したりしない。
彼には元から『罪の意識』があり、その行為(殺人)が、罪に値することを『知っていた』。
言うなれば、彼が罪を超えようとして犯した殺人は、初めから神の元での殺人であり、彼に『罪の意識』を与えたのも、『罰』を与えたのも、キリストの神なのである。

「この世に神も絶対的真理も無い」と言いつつ、人はなお「罪」を意識し、「罰」を求める。
それは人間が本質的に群をなして生きる動物であり、群が秩序を維持するには行動の基軸となる「指針」が必要だからだ。
しかし、これだけ科学理論が進歩し、生命尊重や権利意識が浸透しても、人は人類という種を束ね得る指針を築けずにいる。
だからこそ、人は人の限界を知り、超人的な力や真理を求めずにいないのかもしれないが。

小説において、ラスコーリニコフの行為(殺人)を『罪』と定め、『罰』を作り出したのは、キリストという神だったが、現代社会ではどうだろうか。
『罪』を定め、『罰』を与えるにふさわしい絶対的正義や真理は存在しうるだろうか。

『罰』はいくらでも作り出すことができる。

だが『神』は、不可視である。