渡辺淳一の『失楽園』に関する考察

少し気になる「失楽園」発言
投稿:男(60歳)
サンケイ新聞 7月17日号

作家の渡辺淳一氏が著作『失楽園』の英文出版記念講演で、「愛する二人の心中が増えれば大変うれしい」と発言したというが、キリスト教文化圏の記者たちは、その発言をどのように受け止めたのだろうといささか気になった。

キリスト教の教えでは、どのような理由であれ、自殺は「悪」ということになっている。そんな価値観の彼らにしてみれば、西洋人と日本人の間には越え難い溝があると感じたことだろう。

渡辺氏が心中を美化する考えをもつこと自体は個人の問題だが、これだけ著名な作家が各国のメディアを通じて自身の価値観を発表するとなると、その影響は決して小さくないと思う。日本人のすべてが心中を肯定し、美化していると思われてはたまらない。

私も自殺は悪と考えている。ましてや不倫がらみの自殺は家族をはじめ、周りの多くの人々を不幸のふちに引きずり込む。これが悪ではなく何であろうか。
悪とは、人を不幸にする行為だと思う。

御年60歳にして、この見解。

本物の恋などしたことないのだろう、この御仁は。

渡辺氏を100%ヨイショするわけではないが、愛し合う二人が、一つに結ばれるために『死』を選ぶ気持ちは理解できる。
なぜなら愛の目指すところは『完全なる結合』であり、愛し合う者同士が究極一つになろうと思ったら、名前も立場も肉体を捨て、『魂と魂』に還るしかないからだ。

そうした『愛死』を説くにあたって、渡辺氏はたまたま『心中』という言葉を用いたために、こういう身も心も枯れたジジイの誤解を招くことになってしまった。
ま、どういう話の流れで『心中』という言葉が出てきたのかは知らないが、渡辺氏が主張したかった『死』とは、単なる肉体の死ではなく、生をも超える魂の結合ではなかったかと思う。
そして、『心中が増えれば嬉しい』というコメントは、感性の渇いた日本人に対し、「死も理性も超えるほど純粋に人を愛せ」というメッセージに思うのだ。

それにつけても、このジジイは、西洋文化に触れたことが無いのだろうか。
情熱恋愛の神話ともいうべき『トリスタンとイゾルデ』をはじめ、『ロミオとジュリエット』『椿姫』など、愛が死に至る物語は多い。
それは人の心の中に愛と死に対する強烈な憧憬があるからだ。
言い換えれば、神が自殺を禁じ、倫理を説くからこそ、こうした物語が生まれるのだといえる。

彼らにとって『死』はあくまで『愛の完成』であって、生の放棄ではない。
それは肉体の死である自殺とは全く次元の違う選択なのだ。

世界中で、自分と相手しか見えなくなるから『恋』という。
分別のあるうちは恋とは言えないし、理性や法則で制御できるぐらいなら恋に苦しんだりしない。
そして、そういう情熱が人間の中から消えてしまえば、地上からあらゆるロマンスが無くなり、もはや『人』と呼ぶ価値も無くるだろう。

人間には、社会の法則や理性では解きほぐせぬ魂の矛盾があるから、物語が生まれ、芸術が花開いた。
古今の名作が、超え難い苦悶や渇望を糧に永遠の光を得、時を越えて人の心を魅了しつづける事実を、このジジイはどう受け止めているのか。
何より、『人間』というこの不可解かつ深遠な存在を愛し、理解する気持ちがあるのか。

人生は短い。
同じ魂をもって生きるなら、理性も倫理も吹っ飛ぶぐらいの激しい生を生きてみろ。
情熱に身を任せ、世界が砕けるほど人を愛してみろ。

渡辺氏の講演を聴き、眉をひそめた外国人記者も少なくはないだろう。
しかし恋する者は理解する、渡辺氏が描きたかった『失楽園』の本当の意味を。

Marieも60歳になった時、こんな底の浅いコメントしか出来ないような生き方はしたくないとつくづく思う。
だが、世間じゃこれが『良識』と呼ばれているのサ。
・・ああ、くだらん。

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