Notes of Life

十七歳・バット殴打事件について

2001年3月5日

バット殴打事件コメントに異議

岡山のバット殴打事件の十七歳少年について、七月九日のテレビでコメントされていた専門家の意見に違和感を覚えました。

少年の「母親に迷惑がかかるかもしれないので殺した」という供述に対して、元警視庁捜査一課のT氏は「これは自己弁護にすぎない。母親がかばってくれず、警察へ行こうとしたから殺したのだ」と発言しました。T氏には少年の心理が分かっていません。
わたしたち十代にとって、母親は精神的に分離していない自分の一部なのです。少年の供述はそれほど不自然でもありません。もちろん、迷惑がかかるから殺すとは、尋常な精神状態の行動とは思えず、おそらく辱めを受けた彼が日々精神のゆがみを積らせた結果でしょう。

自己弁護というのは、利害関係に基づいた大人の思考です。利害を考える人間なら、逃げるのももっと計画的です。彼の逃亡は無謀でした。逮捕されるから逃げるというのではなく、母親を殺した罪の意識からの逃亡のように思えました。

少年の犯罪を大人の犯罪と同じ視点で見るのは、誤りが多く危険なことだと思います。母親を殺してあいまったこの少年の悲しみを理解してほしいと思います。

サンケイ新聞『10代の声』より
文:予備校生
富○○○

尊属殺人や子供殺しが発覚すると、世の識者も、常識人も、口を揃えて「家族なのに」と不思議がる。
Marieに言わせれば、「親だから」「我が子だから」、行き違えば人一倍苦しみ、殺したいほど憎くもなるのだが。
「親殺しも子殺しも畜生にも劣る悪行」と非難する人々は、肉親ゆえに愛と憎しみもいっそう深くなるという人間の本質が全然分かっていない。
それは、『愛の対義語は無関心である』という真実を理解していないにも等しい。
なぜなら、親と子を愛するように、憎んでもしまうのが人間だからだ。

『母親に迷惑かけたくない』という理由で撲殺した少年は、確かに母親を愛していた。「愛していたからこそ、殺した」といっても過言ではない。
少年にとって、「殺し」は生命の断絶ではなく、これ以上母親に苦しんだり悲しんだりして欲しくないという、心の消滅だったはずだから。
言い換えれば、少年は、母親の悲しみや苦しみを、まともに自分の心に感じてしまう、本当にやさしい子供だったのだ。

どんなに良識のある人でも、一生に一度くらいは、「アイツ、ぶっ殺してやる」という衝動を抱くものだし、殺すとまではいかなくても、相手にじくじくと仕返しして、自分の痛苦を思い知らせ光景を思い描くぐらいはするだろう。
だが、大抵の人間にとって、そんなものは一瞬の妄想に過ぎない。「アイツ、苦手だ」という感情を殺意にまで発展させるには、相当な思い込みが必要だし、大抵はそこに至るまでに解消してしまうからだ。
その点、妄想を現実にしてしまう人間には物凄いエネルギーがある。誰もが持ちえるものではない。

だからこそ、そういうエネルギーの持ち主は、音楽や絵画や文学など、芸術的に昇華してもらいたいのだが、その道に目覚める人は稀だ。その手ほどきをしてやれる人間も極めて少ない。
このバット少年といい、神戸のサカキバラといい、有り余るほどのエネルギーをもちながら、それを犯罪という最悪のベクトルに向けてしまった不幸を、Marieは本当に哀れに思うし、残念にも思う。
罪の意識に目覚めたら、ぜひ小説の一本も書いてもらいたいね。
今度は、そのエネルギーを自己分析と芸術的昇華に向けて。

一方、殴られた後輩連中の親は、地元住民による減刑嘆願署名に激憤し、近頃はメディアに頻出して、我が子の不幸を強く訴えている。
それでもそれでも人々の関心は、被害にあった少年たちより、親にバットを振り下ろした少年の心に向かわずにいない。
やはり事件の影に見え隠れする『イジメ』がそうさせるのだろう。

某女性週刊誌のほのぼのマンガに、こんなセリフがあった。
「愛には愛を、憎しみには憎しみを……
人間は自分が受けたと同じものを人に返すように出来ている」

最初にバットを振り下ろしたのは、後輩連中なのか、少年なのか──
本当に『イジメ』があったとするなら、そこまで追い詰めた後輩連中に全く非が無いとも言い切れないだろう。

……などと、ツラツラ書いてみたところで、全て、情報の断片を繋ぎ合わせて練った憶測に過ぎない。
そして、メディアで見かける識者の言葉や論調も、やはり一方的な憶測に過ぎず、『なぜ、こんなことが』と首をひねる一般人に何一つ有為な答えを提供していないような気がする。

少年法や人権保護など、何かとデリケートな問題が山積しているが、事実だけは正確に伝えた方が良いだろう。
憶測ではなく、答えを導くために。

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