Notes of Life

正義 ~歴史における相対的正義~

2001年3月16日

3月10日の産経新聞で、近くペルー検察が、日本大使公邸事件で射殺されたゲリラの遺体を掘り起こし、『処刑』されたかどうかを検視する予定であるという旨が報じられていた。

ペルーの地元メディアが伝えるところによると、人質が解放された時点で三人のゲリラが捕らえられ、公邸の庭で縛られているのを人質の一人が目撃、他にも、「命乞いするゲリラの前頭部を国軍兵士が銃で撃ち抜いた」などの証言が寄せられているそうだ。

検察の目的は、救出作戦に関与した当局者はもちろん、作戦の最高指揮者だったフジモリ前大統領の責任追及にある。時流が変われば、罪人も変わるという事か。人質事件の直後、フジモリ大統領は英雄だった。今は、射殺されたゲリラが殉国の志士になろうとしている。

もっとも、こうした価値観の変移は今に始まったことではない。過去、英雄視された政治家が一夜で地に落ちたり、当時見向きもされなかった画家が死後破格の価値を得たりと、世間の評価や価値観は絶えず右に左に揺れ動く。時流などまこといい加減なもので、それを絶対的なものと思い込むと、自分自身を失うばかりか、謂われのない悲劇を生み出しかねない。

「自分の目で見る」──この当たり前のことが、どれほど難しいことか。自分の信念を貫くとなれば、なおさらに。

私は、テロや国家や国際問題について、そこまで正しく考察できるほど知識も経験も無いので、あの日本大使公邸事件の是非について云々はできないけれど、毎日ニュースを見ながら、ずっと思っていたことがある。

それは、ゲリラ組織のリーダーだったセルパが、すごく澄んだ綺麗な目をしていたということだ。いつも顔から半分をスカーフ様のもので覆っていたので、全体の表情は分からなかったが、それでも、どうしてこんな綺麗な目をした人が、こんな凶悪な事件を起こすのか、ずっと不思議に思っていた。とにかく目が印象的なテロリストだった。

別に日本人好みの判官贔屓で後押しする訳ではないけれど、私は基本的に目の綺麗な人が好きで、目にその人の全て──感情、知能、人格、気構えetc──が現れると思っているから、どうしてもセルパが殺戮大好きの、極左的な人間には見えなかったんだな。NO.2や下っ端は、怒りや憎しみでギラギラしていたけれど。

武力で解決する前に、私はどうしてもセルパの肉声──命を懸けてまで、何を訴えようとしていたのか──という事が知りたかった。日本とペルー、そして支配者層と最下層の間に、どんな問題が根付いているのか、その真実の姿を。

が、残念ながら、「テロ=絶対悪」という構図を離れて、問題の核心を分析しようという動きはなかったし、事件が終わった後も、事件の根底に横たわる深刻な社会問題について言及した識者もごく少数だった。

正直、救出作戦が成功し、ゲリラ全員が射殺されたと報じられた日は、あの仲介役の神父さん同様、私も目に涙が浮かんだし、セルパが国外に亡命している息子に宛てた手紙が新聞に掲載された際は、その部分だけ切り抜いて残した。

「あなた、日本とペルーの支配者層に、何を訴えたかったの?」その問いかけは、今も残る。

時流が変わり、フジモリ前大統領が犯罪者として国を追われ、政治的人権的目的からゲリラの死の経緯が明らかにされようとしている今、もしかしたら、その問いかけに答えてくれるものが現れるかもしれない。私の物の見方や、セルパの眼に感じたものの是非が明らかになる日もくるだろう。ともかく、真実が知りたい。その一言に尽きる。

この世には「正義」という言葉がある。だが、そこに「絶対的」という定義が付加した瞬間から、「正義」は本来の意味を失い、利己的な主義主張に変移するように思う。

タロットでも神話でも、「正義の神」は天秤を携えているものだ。それはつまり、双方の主張や価値観を平等に測ることを意味する。相反する二つの主義主張が現れた時、人は天秤にかけて公正に見つめなければならない。それを無視したり、意図もって片側に傾けたり、あるいは他人の天秤に任せきりになってしまうと、私たちはたちまち利己的な主義主張に振り回される傀儡になってしまうだろう。

この世には数え切れないほどの正義があって、誰もが自分の信じる正義のもとに生きている。それが時には凶器ともなることを自覚しながら、私たちは何が正しく、何が真実かを見極める目を今後いっそう養っていかねばならない。

初稿:01/03/16

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