介護の現場で / 必要と奉仕の微妙さ

介護事業の現場で混乱が起きている。

ヘルパーの絶対的不足、需要側と供給側の意識の違い、制度そのものの不備などから、ヘルパーが居着かず、一部の常勤者やケアマネージャーの負担が増大し、それによって現場の介護が手薄になるという悪循環を繰り返しているのだ。

もっとも、介護保険制度が導入される前から、医療・福祉の現場では、「まあ、混乱するよ。何より介護する人そのものが不足してるんだから」と、言われていた。

普通の病院や福祉施設でさえ、人員確保や現場マネージメントの不備で、職員間はもちろん、職員と患者の間でも様々な問題が生じているのに、錬磨されたノウハウを持たない営利目的の企業がいきなり参入してきて、人間の生々しい欲求や感情が渦巻くこの複雑な現場を切り盛りできるワケがないのである。

近頃、新聞などで、『介護保険の現場で何が起きているか』というような問題告発の記事を見かけることが多いが、みな、一様に「ああ、やっぱり」という感想を洩らす。

そして、善意でこの世界に足を踏み入れたものの、あまりの現場の悲惨さにボロボロになって辞めていくヘルパーさんたちの心中を思う。

それは看護学校卒業したてのピカピカの白衣の天使が、二、三年で燃え尽きて、ザルの目からこぼれ落ちるようにバタバタと辞めてゆく現状によく似ている。

「愛」や「奉仕」や「献身」で人が動くと思ったら大間違いだし、「金」や「福利厚生」の充実で人が納得すると思うのも間違いだ。

人を苦しめるものは、人でしかない。

言い換えれば、介護側にとっては被介護者、被介護者にとっては介護側が、最大の苦痛の種なのだ。

それはまた、雇用者と被雇用者との関係に置き換えることもできる。

皆さんも体験したことがあるだろう。

助けて欲しいから病院に行ったのに、愛想の悪い看護婦と不誠実な医師のせいで、もっと心身を害した事が。

この逆パターンとして、理想に燃える医師や看護婦が、傲慢で自己中心的な患者の為にボロボロになってしまう現実がある。

人間、自分の身を支えるだけでも精一杯なのに、その上に、赤の他人に、情も体力も一方的に搾取されれば人間どうなるか、ちょっと想像力を働かせば分かるのではないだろうか。

ところが、こういう現実は、案外無視されている。

というより、誰も怖くて口にできないのだ。

この社会では、弱者・病人・障害者は、天皇みたいなものである。

確かに「身体が不自由」「働けない」「苦しい」という事実は、健常者には計り知れないものがあるかもしれない。

足りないところは、満ちるものがサポートするのが当然と言えば当然だろう。

だからといって、彼らは天皇でも天使でもない。

突き放すべきところは突き放さないといけないし、非についてはその指摘を受け止め、自分を律してもらわなければ困る。

だが、今の社会ではそれが通用しない。

弱者・病人・障害者を、人間として批判しようものなら、たちまち石つぶてが飛んでくる。

「非情」「思いやりがない」「プロ失格」etc。

そして、弱者の側は、それを知った上で、際限なしに自分たちの要求を突きつけてくるのである。

私はこれを「弱者の特権」と呼んでいる。

弱者=要介護者 であることを盾に、様々な特権を振りかざすからである。

そこには「対等」などという言葉は存在しない。

ひたすら「奉仕する者」と「奉仕されて当然な者」という構図があるだけだ。

真の「対等」とは、同じフィールド、同じ目の高さで、偽りのない意見を交わせる関係を言う。

だが、今の医療・福祉現場にはそれが無い。

北朝鮮で金 正日の批判をしようものなら首が飛ぶのと同じように、弱者については何も言えないのが現実である。

そうした中で、真に建設的な関係を築き、それを制度やノウハウに生かそうとしても、無理が生じて当たり前だ。

どちらかが我を通し、どちらかがひたすら耐えるという構図の中では、「クサイものに蓋をする」的な制度しか生まれない。

そのしわ寄せは、確実に現場で働く者に来る。

そして、それは「品質低下」という形で、介護を受ける側に返ってくるのである。

こういうのを「医療・福祉現場のデフレスパイラル」という。

被介護側は、十分な介護が受けられなくなるのを恐れて、介護者に強く出られない。

介護者は、人間的に非難されるのが怖くて、被介護側に対して本当の事が言えない。

そうした無理や我慢が、「すぐ辞める」状況を作り出し、深刻な人手不足を生み出す。

企業側はそのブランクを埋めようとして、品質を落としたり、一部に過負荷をかけるから、余計で現場が混乱し、ますます状況が悪化してゆくわけだ。

現場で起きているのは、人間対人間の、感情の行き違いであり、不自然な忍耐であり、「奉仕」という美名に隠されたウソ偽りである。

もちろん、制度の不備がもたらすものもあるだろう。

だが、それ以上に、医療・福祉の現場というのは、人間対人間の生々しい欲求や感情が渦巻く場所であり、どれほど制度が充実しようと、労働条件が改善されようと、人間が人間に関わっている以上、理想的な環境など実現不可能なのである。

にもかかわらず、企業や政府は、自らの限界を認めたくないため、理想ばかりを追求し、実現しようとする。

自ら率先して実行してくれるのなら良いが、自らは呆けた爺さんのオムツ交換の一つもせず、現場で働く者に「あれしろ」「これしろ」と命じても、現場の不満は高じるばかりである。

作家の曾野綾子さんは、医療・福祉を含めた社会制度のあり方について、

「制度が充実すればするほど、社会の恩恵が増せば増すほど、人間の不満も増大するものである」

と説いておられる。

私もまったくその通りだと思う。

人間の欲求には際限がない。

一つ与えられれば、また一つ、もう一つと、際限なしに増えてゆくものである。

実際、某患者団体は、税金・保険金の無負担、医療費の全額補助、ローン金利の減免、年末一時金支給、生活費補助など、健常者が見たら卒倒しそうなほど数多くの社会的保護を受けているにも関わらず、

「社会は弱者に冷たい。社会は私たちにもっと保護を与えるべきである」

とばかり、高速料金の減額、タクシー運賃の無料化、食費の一部補助、薬剤費の全額補助など、様々な要求を行政に突きつけている。

そして、それを支援しているのが、「医療・福祉の充実」を謳い文句にした政治団体であり、議員であり、健常者がせっせと収めた税金や保険金は、湯水のようにそうした所に流れているのである。

国から支給される一時金で、郊外に一軒家を購入した病人もいる。

ローンに金利が付かないからと、自分名義で家族のために高級自動車やマンションを買いまくっている病人もいる。

毎週、無料で処方される高価な薬品を、余ったと言ってはゴミ箱に捨てている病人もいる。
生活保護を受けているにもかかわらず、ベンツを乗り回している人もいる。

「オレはこの病院に十年もかかっている。オレの病気は重いのだ」と、他の患者を押しのけて、順番に割り込む人もいる。

若者が交通事故で死ぬと、「あ~あ、早く死んでしまって。これから税金や年金を納めてもらわないと、私たちが困るのに」と平気で口にする人もいる。

弱者の自立を妨げているのは、弱者の味方と見られたい支援者自身ではないかと思うような現実がごろごろしている。

だが、それについて批判したり、問題提起する人は、一人としてない。

人間として非難されるのが怖いからだ。

政治家が、現場の破綻を知っていて、医療・福祉問題について抜本的な改革を行わないのも、こうした患者団体や高齢者の支持を失うのが怖いからである。

政治家が、医療・福祉にじゃんじゃんお金を回すのは、ある意味、票を買う為だと思った方がいい。

どこの世界にもアンタッチャブルな部分があり、それに触れれば首が飛ぶか、冷や飯食いになるのが落ちで、問題解決の真の糸口はそこにあるにもかかわらず、誰も触れようとしないのが、どうやらこの社会の真相のようだ。

ヘルパーさんも、若い医師も、看護婦も、決していい加減な気持ちでこの世界に踏み込んでくるのではない。

「人を助けたい」「社会の役に立ちたい」と思えばこそ、人のやらない下の世話や重労働を引き受けるのである。

だが、それを食い物にする人間がいて、見て見ぬ振りをする人間がいる。

ゆえに、燃え尽きる。

そして、そのしわ寄せは、本当に助けを必要としている人間を傷つけ、絶望させ、弱者の特権を振りかざす、一部優遇された人間をますますつけ上がらせているのである。

この社会には、「愛」という美しいオブラートがある。

だが、真実の愛は、甘いばかりではなく、厳しい側面も持ち合わせているのではないだろうか。

01/01/26

Leave a reply: