幸せのあるところ

人間に『天国』と『地獄』の絵を描かせると、『地獄』の方がよほど想像たくましく、生き生きと描けるそうです。

実際、美術史でも、神や天使を描いた名画は少ないです。
どちらかといえば、ヒエロニムス・ボッシュの描く聖人を誘惑する奇怪な悪魔や、フュースリの夢魔や、ゴヤの魔女など、邪悪なものをモチーフにした絵の方が傑作として残っています。

あるいはキリストの受難を描いた絵とか。洗礼の場面に名画が多いのは、「生まれ変わりたい」という人間の欲求がストレートに現れるからでしょうけど。

私も、災難に苦しむ人、貧乏に苦しむ人、病に苦しむ人、いろいろ見てきたけど、人間というのはよくよく「地獄寄り」に出来ているのだなあと思わずにいません。

人間が、生き生きと、善なるものや、天国を描けないのは、自ら不幸に陥っているから、という気がします。

病気、失業、落第、裏切り、別れ、敗北、災難、失恋、中傷、争いetc人間の身に起こる災いは数限りない。

だけど、出来事自体は、それ以上のものでも、それ以下のものでもありません。

出来事は、あくまで『出来事』であって、その出来事に幸・不幸の意味づけをするのは本人自身なんですね。

同じ病気に罹っても、自分の星を見つけて、明るく逞しく生きていく人もあれば、いつまでも地べたを這いずり回り、恨み言ばかり並べて死んで行く人もある。

『地獄 極楽 胸三寸』と言うけれど、まさにその通りです。

ところが人間というのは、愚かで盲目だから、それが分からない。「棚からぼた餅」みたいに、いつでも何かが幸せを連れてくるのを待っている。そして一つ災いが起これば、「あの人のせい」「運命のせい」「社会のせい」、その原因を決して自分に求めようとはしないし、隣で誰かが喜べばたちまち自尊心を傷つけられ、怨み妬みに取り憑かれる。

結局、『地獄』というのは、出来事そのものではなく、その出来事の為に、苦しんだり、妬んだり、嘆いたりする、自分の心の中にあるんですよね。

仏教のたとえに、こういう話があります。

極楽の食卓にも、地獄の食卓にも、同じ大きさの皿が用意されている。どちらの皿にも同じ量の食べ物がのっていて、誰もが自由に食事できるのだけど、箸が人の背丈ほどあり、一人ではとても食べ物を口に入れることができないんですね。

極楽では、「まず、あなたからどうぞ」と向かいの席の人に食べさせてあげる。すると、今度は向かいの席の人が、「あなたもどうぞ」と食べさせてくれる。そうしてお互い食事を分け合うことで、皆、満たされるわけです。

ところが地獄の亡者は、我先に食べ物を腹に詰め込もうとする。人の背丈ほどある箸で、一人でがつがつ食べようとするから、食べ物は箸の先からぼろぼろとこぼれ落ち、地獄の亡者はいつまでたっても満たされることがないのです。

私は、自分も含め、いろんな人を見て思うのだけど、人間というのは、よくよく強欲にできていて、その欲望ゆえに心に地獄を作り出し、一人で勝手に苦しんでいるような気がします。

誰の言葉か忘れましたが、「石に転んだ事実が痛いのではない。転んで人に笑われる事実が痛いのだ」

人間には、「持つべきプライド」と「持たなくていいプライド」があります。
「持つべきプライド」とは、満ち足りた自尊心のこと。簡単に言うと、自分を好きになり、他人と同じように自分も素晴らしい人生を創造するに値する人間だと信じる気持ちのことです。

が、案外、この自尊心が欠如している人が多い。

根本的に、自分という人間への信頼や愛情が不足しているから、自分自身に『YES』が言えないし、他人の価値観も認められないんですよね。そして、自分に対する軽蔑や怒りを他人に置き換えて苦しんでいる。

言い換えれば、「私は私が嫌いだ」という真の感情を、「私はアイツが嫌いだ。アイツも私を嫌っている」にすり替えて、欠けた自尊心を保護しているわけです。

そして、その自尊心の欠如の原因になっているのが、「持たなくていいプライド」。『高慢』『虚栄心』といった方が分かりやすいでしょうか。
ありのままの自分に対する「YES」が無いから、必要以上に自分を大きく見せたり、自分の力を誇示したり、恥を恐れたりする、何とも不幸な心の働きです。

「持たなくていいプライド」にがんじがらめになると、常に人と競い、屈辱を舐め、満たされない自身への恨み辛みに生きて行くことになる。
他人を落とすことでしか自分の価値が計れないから、いつでも自分の周りに、自分より惨めで劣った人間がいないと安心できない。
そして、常に、他人に理解や尊敬を求めて歩かねばならないから、生きていても疲れるばかりなんですよ。

出来事を、不幸に思うのは、人の幸せが妬ましいからです。
出来事を、みじめに思うのは、負けたくない相手がいるからです。
出来事を、他人のせいに思うのは、自分の過ちを認めたくないからです。

そうやって、不運や不遇の原因を他に求め歩く限り、心の平安など永遠に訪れない。本当の「安らぎ」っていうのは、欠けも弱さも含めた等身大の自分を知り、それを受け入れるところから始まるんですよ。

100メートルを12秒で走るのが自分の器だとすれば、「12秒の自分」を認め、自分のコースにおいて努力するのが本当の自尊心。

でも「持たなくていいプライド」の虜になれば、「10秒のアイツ」や「15秒のアイツ」と比較することでしか、自分の価値を計れなくなる。

「15秒のアイツ」を見れば安心するが、「10秒のアイツ」を目の前にすると、たちまち自己の基盤がグラグラし、苛々し、わめき、突っかかる。

本当の自尊心というのは、他者がどの位置にいようと、どんな速度で走ろうと、心に何の波風も立てません。

たとえ自分のコースに大きな石が落ちていたり、穴ボコがあいていたりしても、他人のコースを羨んだりせず、自分なりに解決して前に進んで行くことができます。

どんなレースにおいても、ただ「12秒で走る自分」があるのみなんですよ。

人間が必要以上に不幸を嘆き、心の平和を欠いてしまうのは、「持たなくていいプライド」に振り回され、いつまでたっても等身大の自分を見つめたり、認めたりすることができないからだと思います。

にもかかわらず、人は決して自分の間違いや欠点を直視しようとしない。
そして「ありのままの自分を見つめて」と、他人に愛と理解を強要してばかりいます。

自分が内側から変わるには、まず自分自身を知らねばなりません。
「自分は、こんなに弱くて脆い人間だったのか」
「自分は、こんなに餓えて渇いた人間だったのか」
「自分は、こんなに醜い感情を溜め込んでいたのか」etc

自分で自分の姿を直視するには、当然、痛みを伴います。なぜなら、人間は『ナルシスの鏡』に自分を映しだし、実体とは違う自分の姿に安心を求めているからです。

この『ナルシスの鏡』を打ち砕かない限り、本当の自分の姿は見えません。

そして『ナルシスの鏡』を打ち砕くには、自分のプライドを木っ端微塵にするぐらいの、勇気と覚悟が要るんですよ。

人は、自分が嫌になったら、すぐ「自分を変えたい」とか言うけれど、「転職する」とか「お稽古ごとを始める」とか「ファッションを変える」とか、小手先の策ばかり弄して、新しい自分を生み出す為の痛みや苦しみは避けて通る人が多いような気がします。

そしてまた同じ石に躓き、同じ顛末を辿り、いつまでも同じ恨み言を繰り返している。

何も変わっていない、というより、誤魔化しなんですよね。

そうした「持たなくていいプライド」──自己愛の虜になって、どんどん自分を不幸のどん底に追い込んで行く。これ以上の地獄は、この世の何処を探しても無いような気がします。そのまんま、がむしゃらに頑張っても、何処へ行っても、何をしても、決して満たされないでしょうね。

『幸せ』というのは、何ものにも囚われない、心の平和を言うような気がします。それは、お金持ちになることでも、出世することでも、何でもない。それはあくまで『出来事』であって、お金も地位も、得ればいつか失います。そして「失うまい」と恐れ、もがくところに、また地獄が始まるんですよ。

そう考えれば、『幸せ』なんて、誰でも簡単に手に入れられるものだと思いませんか。いくらでも自分の心で作り出せるものだと。

人間の一生というのは、自分という人間を完成させる為にあるのだと思います。
『我の上に人は無く、我の下にも人は無し。 あるのは、ただ「我」のみ。理想としての我が見えるだけ』
そんな心境でしょうか。
その他のことは、あくまで、心に浮かぶ一時の影という気がします。

皆さんも、21世紀には、本物の『幸せ』を手に入れて下さい。
あなただけの、心の平和を。

初稿: 00/12/29(金)

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