映画

ソウルとは自我の発露 映画『ドリームガールズ』

2017年2月10日
Dreamgirls『ドリームガールズ』

顔がイケてないから主役を降ろされる

そんな理不尽な目に遭ったら、誰でも怒り狂うし、馬鹿らしくてやってられないのが人情だと思います。

にもかかわらず、不遇を乗り越え、再び歌手として再起する実力派シンガーのエフィー(=ジェニファー・ハドソン)。

エフィーとは対照的に、美しい容姿に恵まれ、大衆受けする魅力を備えたアイドルスターのディーナ(=ビヨンセ)。

実在の女性ヴォーカルグループ『スプリームス』の悲しいエピソードを元に作られたミュージカル映画『ドリームガールズ』は、ソウルフルな歌唱を中心に、ショービジネス、人種差別といった、シビアな現実問題も織り交ぜて、最後は明るく華やかにしめる良作です。

エフィーを責めないで

歌は上手いけど、そこいらの田舎娘でしかない『ドリームメッツ』のポテンシャルをいち早く見抜き、有名歌手ジェームス・サンダー・アーリー(=エディ・マーフィー)のバックコーラスに取り立てる、やり手のプロデューサー、カーティス・テイラー・ジュニア(=ジェイミー・フォックス)。

カーティスの見込み通り、ドリームメッツは、エフィーのソウルフルな歌で徐々に注目を集めます。

そして、いよいよ世界ツアーに向けて大勝負という時。カーティスは長年リードボーカルを務めてきた実力派のエフィーをバックコーラスに回し、ビジュアル的に美しいディーナをリードに迎えます。

これにはディーナも戸惑い、エフィーも猛反発しますが、大衆の好みを知り尽くしているカーティスは頑として譲らず、仲間も「売り出す為」とエフィーを説得します。

新しいサウンドとルックス。
若者の間で人気が出ればいい。

(エフィーは)個性的過ぎるんだ。大衆には軽い声の方がウケる。

僕たちはファミリーだ。助け合おう。

「ツアーの間だけ」という約束で、エフィーは渋々、リードをディーナに譲りますが、ディーナばかりが女神のようにもてはやされ、エフィーは面白くありません。録音中に、わざと甲高い声を出したり、生中継中にステージから去ったり。次第に反抗的な態度を取るようになります。

エフィーの我が儘な振る舞いに、ついに堪忍袋の緒が切れたカーティスとメンバーは、エフィーをグループから外し、新しいメンバーを迎え入れます。ついにはメンバー同士で喧嘩になり、エフィーはカーティスからも個人的に縁切りされ、完全に孤立してしまいます。

こちらは、去っていくカーティスに「あなたを離さない 何があろうと あなたなしでは生きていけない」と全身で訴えかける場面。

この時、ジェニファー・ハドソンは24歳です。

アメリカは、次から次に、こういう才能が出てくるので、よそが逆立ちしても勝てるわけないですね。

フルコーラスはこちら 『It’s All Over + And I Am Telling You I’m Not Going』

その後、ディーナは世界的な大スターになり、エフィーは貧しいシングルマザーに。

こういう着こなしはビヨンセならでは。華があります。

Dreamgirls『ドリームガールズ』

自分の顔写真のアップがインテリアとして飾られているビヨンセ宅(劇中)。スターって、こういうものなのかしら^^;
でも、この写真は、すごくセンスがいいですね。

Dreamgirls『ドリームガールズ』

大スターになったディーナにも葛藤はあります。

それはいつまでも『カーティスの人形』みたいに、生き方も、芸能活動も縛られ、何一つ自由にさせてもらえないことです。

世間には華やかなイメージばかり求められ、だんだん自分を見失っていく、よくあるパターンですね。

一方、エフィーは幼子を連れて職業安定所を訪ね歩く毎日。持ち金も底をつき、歌わせてくれる場所もない。
まさに人生のどん底です。

そして、ようやく有名クラブのオーディションのチャンスを得たものの、拗ねて、文句ばかり言うエフィー。

そんなエフィーに、マネージャーのマーティーは言います。 

この四ヶ月間、君に金を貸し、町中のクラブに君を売り込んだが、これが最後だ。実力を出すのを恐れて言い訳をするのは止めろ。全力でぶつかれ。みな、そうやって生きてる。それともカーティスの言う通りか。いいとこ取りして、責任を果たさない人間か」と叱咤され、エフィーは気持ちを入れ替えます。

あたしを見て よく見て 
今のあたしは昔とは違う女
そう努力したから
今のあたしは昔とは違う
心を入れ替えたから

もう過ちは犯さない
自分に誓ったの
しっかり立ち直る自信がある
だけど支えて
あなたの手で あたしを支えて

愚かだった
今までのあたし
一人で突っ張って
大勢の友だちを失った
一人で眠れぬ夜を過ごし
誤った道を歩き続けた
空しい思いを抱えて
暗闇の閉ざされた 長い年月を過ごし
ものを見る目を失った

でも 今 目が開いた

今のあたしは昔と違う
そう努力したから

でも誰か友だちが欲しい
その支えで 最初からやり直せる
お願いだから力を貸して
今度こそ 立ち直ってみせる
そう 今度という今度こそ

今のあたしは 昔とは違う女
今度こそ人生の再スタート
自分を変えてみせる
そして すべてをやり直す
今までのことは すべて過去に葬って
今日から生き方を変えよう
そう誓うわ 心の底から
もう誰もあたしを止められない

ここが一つのクライマックスですね。
途中でカメラワークが切り替わって、クラブのステージに変わる演出も上手。

オリジナルの歌詞は「I am changing.」直訳すれば、「今、変わってる最中」みたいなニュアンスですが、「未来にわたる、今この瞬間の決意」を表す言葉として、これ以上にふさわしいものはないですね。

しかし、エフィーって、そこまで責められるキャラでしょうかね?

三人の中で一番実力があるのに、「見映えが悪い」「大衆好みじゃない」というだけでリードから外されて、ニコニコ笑っていられる方がどうかしてます。私なら、ドーナツ盤かかえて、レコード会社の前で自爆しますよ。

喧嘩の場面でも、誰一人、エフィーの立場に立って考える人はなくて、「売れてるんだから、いいじゃないか。お前も合わせろ」みたいな雰囲気で、仲間にまったく同情できません。

挙げ句に、オトコに振られ、チームから外されて、幼子抱えて、じり貧生活。

これで投げやりにならない方がどうかしてます。

それでも明日には道が開けるのではないかと、必死に歌い続けるエフィー。

「歌で躓いた人間は、歌で人生を取り戻すしかない」という鉄板の筋書きではありますが、観客はみな、この場面に感動するのではないでしょうか。

本作では、最後はみな手を取り合って、ハッピーエンドとなっています、これからもディーナはスターとして、エフィーは玄人に支持される実力派シンガーとして、まったく異なる世界で生きていくのでしょうね。

エフィーの立場に立って見れば、釈然としない感は残りますが、ともあれ、「めでたし、めでたし」と安心して見られる作品です。

ビヨンセの余裕

いずこのレビューでも「新人のジェニファーが主役のビヨンセを完全に食った」と言われていますが、ビヨンセは、ちゃんとジェニファーに花を持たせているように感じます。冒頭のパフォーマンスでも、地味にバックコーラスに徹していますし、中盤以降、スターになってからも、ちょっと抑えた感じで、「主役は私よ!!」みたいな押しの強さは見えません。

そういう意味では、「さすが大スターの余裕」という印象です。

本作と同じように、ジェニファーとビヨンセはまったくタイプが違いますから、比較する方がおかしいのかもしれませんね。

ソウルフルと自我の発露

ジェニファーの歌は、とにかくソウルフル。
全身から絞り出すような演技で、妥協とか、計算とか、一切感じさせない実力派です。

ホイットニー・ヒューストンの追悼コンサートでも、その他の大スターを差し置いて、ホイットニーの代表曲『I’ll always love you』を熱唱し、世界中に称賛されていました。YouTubeにはネガティブ・コメントも付いていますが、ジェニファーはホイットニーの物真似をする為にステージに立ったのではなく、哀悼の意を込めて歌ったわけですから、上手いも下手もないですよね。

世に、「ソウルな歌い手さん」というのは大勢いて、とりあえず、「あああ~~」と力強く歌っておけばソウル! みたいな雰囲気ですが、「本物のソウル」と「なんちゃってソウル」の違いは何かと問われたら、「どこまで自我を発露できるか」ではないでしょうか。

誰でも、怒った振り、悲しんだ振りはできるし、艶のある声で「あああ~」とシャウトしておけば、下手なカラスでも上手に聞こえる。

表面的に聞き流すだけなら、上手も下手も一般人には大差ないと思います。

でも、もう一歩、踏み込んで、耳を傾けてみれば、上っ面で歌っている人と、本当に実力のある人の差は歴然としている。

その判断基準は「心に残るか、否か」という、極めて主観的なものであるけれど、「人を感動させる」って、そう容易いものではないんですよね。

歌唱の場合、演技力は二種類あると思います。

一つは、中森明菜みたいに、完全にアッチの世界に行ってしまえる人。

もう一つは、松田聖子みたいに、「可愛い女性」を演じきれる人。

松田聖子は、「大衆の好む可愛さ」「どうやったら自分が可愛く見えるか」を知り尽くした歌手で、それに徹していたように感じます。

その可愛さを純粋に信じられる人、プロの役者魂を高く評価できる人がファンになり、それをあざとく感じる人がアンチになる。
どちらにしても「無視できない存在」という点で、聖子さんは空前絶後のアイドルに違いありません。

対して、明菜は、歌に自分を表現してしまう。『難破船』を歌ってた頃の明菜は神がかってたし、それ以降も、傷だらけの自分を隠そうとしない。聖子みたいに「可愛いワタシ」を演じることもできなければ、自分自身を欺くこともできない。ある意味、アイドルとして売り出さなければ、もっと違う道があったのではないかと感じます。

『ソウルな歌唱』というのは、どちらかとえいば、明菜タイプですよね。(明菜が上で、聖子が下、という意味ではない)

「TATOO」でも「ソウルを感じたい♪」と歌ってましたけど、ほんとにその通りです。

シャウト、シャウトで、一見、上手そうに見えるけど、ちっとも心に響かない歌手と、前述のジェニファーみたいに、何度見ても引き込まれる歌唱ができる人と、どこが違うかといえば、やはり感情が本物かどうか、でしょう。

もちろん、25歳のジェニファーに、あの歌詞のような悲惨な体験があったとは考えにくいけども、それに近い感情を掘り起こして、自分のものにできる。エフィーが嘆くように、自分自身も嘆いて、その弱さ、激しさを隠そうとしない、いわば「自分が自分であることを恐れない」人が、ああいう歌い方ができるのではないかと思います。

たとえば、「嫉妬深い女と思われたくない」「お洒落な女に見られたい」という人に、ソウルフルなラブソングは歌えません。

歌詞に描かれている、弱さ、悲しさ、嫉妬深さ、狂ったように人を恋してしまう情念の深さを自分の中にも見出し、それを他人に知られることを恐れずに発露できるから、歌詞の世界を自分のものとして、ソウルフルな歌い方ができるのだと思います。

では、「他人に自分を知られることを恐れない」とは、どういう事かといえば、駄目な部分も含めて、どこまで自分を肯定できるかですよ。

世間が自分の歌を聴いて、どう受け取ろうが、まったく動じない。

歌の通り、ヒステリックだ、神経質だ、とイメージをもたれても、「それが私」と言い切れる。

その強さがあるから、立っているだけで舞台にオーラを放つし、他人に絶対に真似できない表現力が身に付くのだと思います。

そこが、舞台の上で「可愛い女」を演じきれる松田聖子タイプとの芸風の違いかもしれません。(自分の恋愛観が松本隆の歌詞とは全然違っていても、表現力で説得できる)

いわば、ソウル界のスーパースターは、究極の自己肯定の世界でもあり、そこまで歌に自分をさらけ出すから、実生活では脆く、壊れやすくもなる。あまりにも自分を映しすぎて、歌は歌、実生活は実生活という、区切りが付かなくなるんでしょうね。

だから、芸人としては、松田聖子の方がはるかにメンタリティが強いし、明菜みたいに『難破船』の世界観に自分自身も引きずり込まれるようでは、そりゃもう長続きしません。よほどしっかりしたマネージャーが側について支えないと、難しいだろうと思います。

それでも世の中には歌うことを運命づけられた人がいて、それはそれで一つの生き方に違いないでしょう。

ジェニファー・ハドソンにはこれからも頑張って欲しいし、ビヨンセも息長くスターであって欲しいですよね。

ビヨンセは『太腿』が魅力。女性の逞しさを感じさせる(*^_^*)

みな、「脚痩せ」とかいうけど、ガリガリに細い足、あたしは好きじゃありません。

これくらい肉付きのいい、パンチのある太腿の方が、かえってセクシーですよ♪

このビヨンセも大好き。何の飾りもなく、歌とダンスだけで勝負した、究極の実力世界。

でも、一番好きなのは、「主役を食われた」と評されても、ジェニファーの悪口を言わないところでしょ。

この作品については、ジェニファーにちゃんと見せ場を作ってあげてるし、「私は私」とディーナ役に徹しているところに好感がもてます。

ストーリー的には無難にまとまった感じだけど、ジェニファーのような歌が好きな方にはおすすめの一本です。

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