人生の『光と影』 渡辺淳一「愛の流刑地」から戻って来てね

渡辺淳一 「光と影」


うちの本棚でけっこう占拠率が高いのが「」の本。先日、本を整理していて、この事実に気がつきました。いつの間にこんなに買ってたんでしょう?? 曾野綾子と宮尾登美子の間に挟まれているところがポイントです。

普通、「好きな作家は誰ですか?」と聞かれて、「新田次郎です」とか「サリンジャーです」とか答えると格好がつくけれど、「渡辺淳一です」とは非常に答えにくい。それもこれも、「失楽園」以降、雑な小説を連発してるせいですよ。特に「愛の流刑地」。。。

渡辺淳一も、昭和40年から50年代、初期から中間期にかけての作品が秀逸でした。とりわけ医学をテーマにした短編やエッセーがよかった。私も医療畑出身なので、死生観や医療観については共感する部分が多く、一緒に現場で仕事をしたらさぞかし面白かっただろうなと思うことしきりです。ただ、こういう考え方は学会や研究会で発表するわけにはいきません。カンファレンスで発現しても物議を醸すでしょう。でも小説ならテーマとして立派に成り立つ。そう思うと、メスからペンに切り替えたセンセのお気持ちも分かるんですね。「ブラックジャック」を描いた手塚治虫と一緒です。

そんな淳一センセが昭和45年に直木賞を受賞された『光と影 (文春文庫)』。初めて読みましたが、いい作品でした。

以後、作品に関するレビューと、最近のセンセに対する「やるかたない気持ち」です(^◇^)

§ 『光と影』物語と感想

西南戦争で戦い、共に右腕に重症を負った寺内大尉と小武敬介。どちらも東京教導団(陸軍の下級幹部養成所)の優秀な同期生だ。

症状は一刻を争うことから、同日、同時間帯に、右腕の切除術を受けることになった二人。最初に小武が手術台に上がり、次に寺内が運び込まれまた。

しかし、執刀医の佐藤は、続けて若者の腕を切り落とすのは不憫だ、ここは一つ、実験台になってもらって、温存療法に切り替えようと言い出し、寺内の右腕を残すことにする。

右腕を切断した小武は順調に回復し、寺内よりも先に退院するが、片腕をなくしたことから廃兵を余儀なくされ、「偕行社(かいこうしゃ)」という将校専用のクラブで働くことになる。

一方、右腕を残した寺内は、回復に時間を要しながらも、無事に退院して兵役に復帰。士官学校の指令副官に任命される。それから日清戦争で武勲をあげ、とんとん拍子に出世し、ついには陸軍大臣に任命。士官養成時代、能力的には寺内よりも優れていた小武は激しく心を乱される。

そして、いつの間にやら大臣の風格を身につけ、小武に対しても何やら同情的な寺内の態度に、小武はついに心がきれ、寺内につかみかかり、大臣室からつまみ出される。その後、寺内は栄光の中で天命を全うし、葬儀には皇族も参列、明治天皇よりお沙汰を賜るという名誉のきわみで、一方、プライドをおおいに傷つけられた小武はしまいに心を病み、誰に見取られることなく暗い精神病棟の一室で息を引き取る──。


「人生そんなもの」と言ってしまえばそれまでだが、実際に敗者の側に立てば、そんなあっさりと割り切れるものではない。

「人生に勝ち負けなどない」「気の持ちようで幸せになれる」と言ってみても、人間の無念、やり場のない怒り、忸怩たる思いは、終生、続くのではないだろうか。

私が多分、(一時期イイと思った)自己啓発的な考え方──今ならライフハックとか癒しとかポジティブ・シンキングとか言われるものに抵抗を感じるのは、まさにこの部分なのだ。

確かに「幸福になる手段」として、人と比べないとか、自分を大事にするとか、明るく前向きに考えることは非常に大切ではあるけれども、一方、怒りや悲しみ、絶望や嫉妬といった心の闇もまた人間の真実に違いなく、悪いとされる方を切り捨て、自分で自分を「幸せ」と無理に納得させるような方法は、ある意味、自分に対する裏切りであるし、人間の本当の価値を歪めるだけではないか、と思うからである。

現代はあまりに「怒ること」「悲しむこと」「悔しいと感じること」「羨ましいと思うこと」などが「ネガティブ」の一言で片付けられ、周囲りに軽んじられるばかりか、自分自身でさえも否定し、見ぬ振りをする傾向が強い。

もちろん、愚痴や弱音ばかりの人は不愉快だし、自分でも暗いことばかり考えていると気が滅入ってくるものだが、それはネガティブな感情の活かし方や上手な表現の仕方を知らないだけであって、ネガティブな感情そのものが悪いわけではない。

問われるのは行動や表現の是非であって、感情はどこまでも内的な世界に過ぎないのだ。

そして、それを描き出すのが「文学」であり、本当の意味で文学的な役割をもった作品が書かれない、読まれない、というのは、知性、情操教育うんぬんの話ではなく、人間への理解が失われることである。理解がなければ愛情も育たず、結果、心地よい面だけがクローズアップされる。単純に「元気のいい人」「明るい人」「良いことを言う人」がもてはやされるのも、元を辿れば、人間理解の欠如によるし、本当に理解されるべきものはますます居場所を失って闇に追いやられる、悪循環である。

『光と影』は、影である小武の心にスポットを当てた作品であり、彼を「影の人」にしたのは、手術室に置かれたカルテの順番がたまたま「小武」→「寺内」であったこと、また寺内の右腕が切断されなかったのは執刀医・佐藤のその場の思いつきにすぎない。まさに運命のいたずらである。だが、兵役に復帰できなかった小武と、復帰が叶った寺内の明暗はくっきりと分かれ、能力や努力を超えた人生の不条理をいやというほど思い知らされることになる。

冷めた目で見れば、「たとえ右腕を切り落とさずに済んで、兵役に復帰できたとしても、果たして寺内より出世できたかどうかは疑問だよ」と言いたくなるが、そうは考えられないのが人の性だ。なまじ自分に過失や欠点がなかっただけに、余計でその気持ちが強い。

寺内の昇進を耳にする度、小武は思う。

小武は退役したからもはや階級は上がらないが、現役の寺内達が上がるのは当然であった。止まったままのものと進むものと比べるのが土台、間違っていた。そんな位階など忘れて、国のために尽くした勇士として対すればいいのであった。小武の現在がどうであろうと、寺内達が軽蔑したり見下したりするわけはなかった。まして寺内は悪気のない男である。だが小武はそう簡単に素直な気持ちにはなれなかった。
(かつてあいつは俺より劣っていた)
小武には下士官から尉官時代に寺内よりはるかに秀れていた、という自負心があった。兵術でも学問でも負けたものは一つもなかった。こんな男に絶対に負けるわけはないと思っていた。表面では親しい友人であったが、心の底では侮っていた。誇りが高かっただけに偕行社の一事務員としておめおめ出て行くわけにはいかなかった。

(二人を手術した佐藤医師との会話で)
「彼(寺内)はフランスに行くのですか」
「ご存じないのですか、閑院宮載仁親王殿下巴里御留学の補佐官に抜擢されて来月行かれるはずです」
小武は声を失った。何としたことか、寺内にだけ幸運がつきすぎてはいないか、小武は今も本を離さず偕行社の書籍という書籍はほとんど読み尽くしていた。学問も識見もともに誰にも負けない自信がある。独学だが洋書も読める。寺内が自分以上に洋書を読めるとは思えなかった。まして仏語なぞ上手に話せるわけがない。その男が宮様のお伴をして洋行するという。
(何かが狂っている)
小武は大声で叫びたかった。光と影の二つの方向に向かって歯車が少しずつ、しかしたしかに動き始めたようである。

・・<中略>・・

自分にとって天命はあまりに不合理ではないのか、天命は不合理でいいのか、それでもなお従えというのか、寺内、お前のようにうまくいく天命ばかりではないのだ。お前は光に向かい俺は影になっていく。小武は再びやり場のない憤りにとらわれた。

今風のポジティブシンキングで言えば、「嫉妬があなたを苦しめるのです」「人と比べてはいけません」「自分を褒めて、今生きていることに感謝しましょう」となるのだろう。

だが、こうした気持ちに嫌気が差しているのは他ならぬ小武自身である。

そもそも、生き甲斐とか信念とかいうものは、揺るがないからこそ人生の基軸となる。その基軸を失って、そう簡単に気持ちを切り替えられるものだろうか。いや、それ以前に、人はそうまでして前向きであらねばならないものなのか。

世の中には最初の躓きから一生立ち直れない人もいる。

それを裁くのも人間なら、闇に光を当ててすくい取るのも人間だ。

そして、文学は、人が記憶の彼方に葬り去ろうとする闇を言葉に表し、光の中にすくい取ってくれる唯一の媒体である。

もし実在したならば、甚だ扱いにくい人物かもしれない小武も、小説の中では憎めない。現実社会では誰も言葉にしない胸の内を、小武はストレートに語って聞かせてくれる。そんな小武にほんの少しでも気持ちを添わせることができたら、世の中で無駄とか悪とかみなされることにも一分の理があることに気付くだろう。人によっては息苦しさを感じるかもしれないが、この息苦しさこそ、私たちが真に理解すべき痛みなのだ。

『光と影』は、誰にも責めることのできない人の世の不幸を教えてくれる。そして、それは文学ならではの体験なのである。

§ 関連アイテム

それにつけても、こういう丁寧な作品を書いていた方が、晩年になってから、なんであんな雑な性愛小説を連発するんでしょうねえ。

愛の流刑地に流されたのは菊治ではなく、センセの方やないですか??

もう十分、お稼ぎになったでしょうから、流刑地から戻って、もう一度、生命の奥深くまで切り込むような医療エッセーや短編を書いて欲しいです。

ヨロシク。

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映画「ブレードランナー」


私が初めて『ブレードランナー』を見たのは中学生の時。TVのロードショーがきっかけでした。

あのハリソン・フォードが主役で、レプリカント(人造人間)軍団と死闘! というから、てっきりスターウォーズみたいなSF活劇かと思っていたら、ちっとも大軍団は出てこないし、話もチンプンカンプン。あれあれ、と思ってるうちに、レプリカントが全滅して、ハリソン君は笑顔の暗いオネーチャンと車でどっか行って終わり。

なんじゃ、こりゃ? つまらね~~

それがSF映画の金字塔と言われ、今なお世界中に熱狂的なファンをもつ名画『ブレードランナー』のファースト・インプレッションだったのです。

実際、1982年の劇場公開時は、私と同じようにスターウォーズ的な要素を期待して肩すかしに合い、不満げに席を立つ観客は数知れず。興行的にも全く振るわず、ダメダメ映画列伝の一つに名を連ね、歴史の彼方に葬り去られるはずでした。

ところが、80年代にもこの斬新な世界観を理解するファンは少なからず存在し、VHS(家庭用ビデオテープ)の普及がそれに拍車をかけました。VHSを繰り返し観ることで、劇場公開時には分からなかった謎のシーンや作品のメッセージを読み解こうとするコアなファン層が、この作品の魅力を広めていったからです。

そうしたファンの熱い要望に応え、1992年にはリドリー・スコット監督の意図をより濃厚に表したディレクターズ・カット版が、2007年にはさらに編集を加えてグレードアップしたファイナル・カット版がリリースされ、若い、新しいファン層も取り込んで、SF映画の金字塔と言われるまでになりました。

「時代がようやく作品に追いついた」と言われるように、『ブレードランナー』の世界を理解するにはそれなりに時間が必要なのかもしれません。

私も中学生の時には間延びしたような演出がひたすら退屈で、なぜこれがSF史に残る傑作と言われるのか、まったくもって理解できませんでした。

それでも、傷だらけのハドソン君が、レプリカントのリーダー、ロイ・バッティとの死闘の後、雨に打たれる彼のボディを見ながら、

彼らは知りたがっていた。自分がどこから来て、いつまで生きられるのか。だが、それは人間も同じだ

と、つぶやく場面が強く印象に残り、いつか機会があれば、もう一度見たい……とは思っていました。結局、20年以上経ってからの再鑑賞となったのですが、本当に見てよかったと思います。これほどまでに深く美しい作品であったのか──と知ることができましたから。

未見の方は、一日も早く鑑賞されることをおすすめします。

映画に対する想いが根本から変わりますよ!


ネタバレでもOKなら、こちらの動画をどうぞ。このビデオ、すごくよく出来てます。完成度が高く、映画の全容が掴めます。
あまりにも、あまりにも有名なヴァンゲリスのエンディング・テーマ。チャカチャカチャカチャカ・・・というアップテンポのメロディに、ドンデンドンデン・ドンデンドンデンとティンパニの合いの手が入るのがポイント。
このエンディング、2007年のファイナル・カット版で見たら、ぞぞーっとしますよ♪

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1982年劇場公開版の予告編。ネタバレ嫌いな人に。
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そうそう、私が見たのも荻さんの解説のTVロードショーでした。
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§ 物語

原作は、フィリップ・K・ディックのSF小説『アンドロイドは電気羊の夢を見るか? (ハヤカワ文庫 SF (229))』。

が、原作はあくまでモティーフであり、『ブレードランナー』はリドリー・スコット監督やシド・ミード(美術)らの世界観が色濃く反映されています。

****

科学技術が発達した2020年、人類の大半は宇宙に進出し、地球に残った人々は人口過密の進む都市部で暮らしていた。

一方、遺伝子工学の進化により、人間にきわめて酷似したレプリカント(人造人間)が次々に製造され、人間の代替として宇宙開拓の最前線に投入され、過酷な労働を強いられていた。

それに反発した6匹のレプリカントが脱走し、スペースシャトルを奪って地球に逃亡してきた。そのうち2匹が事故で死に、残る4人が人間に紛れてどこかに棲息しているという。レプリカントの処刑を命じられた専任捜査官(ブレードランナー)のデッカードは、ヘビのウロコを手掛かりにまず女レプリカントを射殺。それを見ていた男レプリカントのレオンがデッカードを絞殺しようとするが、すんでのところでレイチェルに助けられる。

レイチェルは、レプリカントの製造主タイレル博士の秘書をしていた女で、デッカードによる心理テストによって自分がレプリカントであることを覚る。自分が何ものかを知るためにデッカードに再び近づくが、逆に、デッカードの正体に気付き、二人は恋に落ちる。

生き延びたレプリカントのリーダー、ロイ・バッティと女レプリカントのプリスは、タイレル博士のもとで働くJF・セバスチャンを脅迫し、タイレル博士の居所に侵入するが、レプリカントの父とも言うべき博士に「与えられた生命エンコーディングは変えられない。寿命を延ばすことは不可能だ。お前はもう十分、輝かしい命を生きたじゃないか」と突き放され、ロイ・バッティは博士を惨殺。

その後、二人を追ってきたデッカードと最後の死闘を繰り広げ、プリスは射殺。だが、デッカードもロイに指を折られ、高層ビルの鉄筋から墜落しそうになるが、最後の最後にロイに命を助けられ、ロイはそのままエネルギーの寿命が尽きて息絶える。

生き延びたデッカードは、今や追われる身となったレプリカントのレイチェルを伴って、町を後にする──。

映画「ブレードランナー」


『ブレードランナー』の雑学に関しては、日本でもコアなファンが撮影秘話や独自の解釈など思い入れたっぷりに書いておられるので、これらのサイトを参照してください。

あの映画のココがわからない「ブレードランナー」
ブレードランナー・撮影秘話集 
ブレードランナー FAQ
 非常に濃厚な解説集

§ 映画の見所

『ブレードランナー』は「近未来SF」にカテゴライズされる作品だが、根底にあるのは人間や生命に対する問いかけであり、答えは見る人に委ねられる。

すべては一編の詩のように流れ、明確な回答は一つとしてない。

にもかかわらず、人が立ち止まって考えずにいられないのは、人間に酷似したレプリカントと、本物の人間の違いがどこにあるか、当の人間自身にも分からないからだ。

遺伝子工学によって生み出されたレプリカントは人工的に記憶を植え付けられ、次第に感情を持つようになる。しかし、人間への反逆などを防ぐため、彼らの寿命は数年に限定され、それを延長することは製造主にも出来ない。また、いつ寿命が切れるのか、誰にも分からない。

だがそれは、感情を持つレプリカント──自分がレプリカントであることに気付かないほど精巧に作られた者にとっては、残酷な運命に他ならない。

人間が死を恐れるように、レプリカントも死を恐れ、自分が何もので、どこから来たのかを知りたいと願う。

にもかかわらず、「レプリカントである」というだけで、逆らえば抹殺される。

もし、心をもつもの=人間=生命体と定義するならば、レプリカントも人間として生きる権利を有するはずなのに、人間社会とは区別される。

では、「心」とは何なのか? レプリカントの愛情や崇高さと人間の間に、一体どんな違いがあるというのか?

それを考え始めると、私たちは終いには自分の存在を疑わずにいられなくなる。人間を『人間たらしめる』もの、それは何かと問われたら、私たちだって自信を持ってそれを提示することは出来ないからだ。

『ブレードランナー』には、レプリカントの反逆者、ロイ・バッティが登場し、捜査官デッカードをぎりぎりまで追い詰めるが、最後にロイがとった行動、それは殺戮ではなく救済だった。

まさに God in the machine.

ならば、人間の慈悲はどこにある?

機械が崇高な感情を宿しても人間とは認めないとするなら、人間性を区別するものは何なのか?

そして、私たち人間は、それ以外のものを裁くまでに完成された存在なのであろうか?

ロイ・バッティの死は「一個の機械の停止」に過ぎないが、そこから広がる哲学の迷宮は私たちの生命に直結している。

たとえ永遠に正解のない問いかけであっても、そこに近づくことが、自分自身を知ることだからだ。

自らを知ることは命を愛することであり、死に対する恐れがいっそうそれを深くする。

ロイの死に立ち会ったデッカードも、いつ機能停止するか分からないレイチェルを連れて──それを言うなら、デッカードもいつ果てるか
分からぬ命なのだが──共に生きることを選択した。

人間を『人間たらしめるもの』──もしかしたら、それは、限りない生への希求なのかもしれない。

§ 1982年 劇場公開版とデッカードの独白

『ブレードランナー』には、設定の異なる5つのバージョンがあります。

決定的に違うのは、1982年の劇場公開版と、1992年のディレクターズ・カット版&2007年のファイナル・カット版。

82年の劇場公開版は、あまりにダークで抽象的な内容から、スコット監督の意図に反してラブラブ・エンディングが挿入され(ハリソン君がレイチェルを連れて愛の逃避行に旅立つ)、デッカードの説明くさいナレーションが随所に織り込まれていますが、92年以降は、スコット監督の意図が尊重され、ラブラブ逃避行とナレーションが完全に削除されているからです。

映画の余韻としては、スコット監督の意図が反映されたディレクターズ・カット版の方がいいのですが、82年版のナレーションが好きというファンも多いみたいで、私もその一人。

ロイの死後、デッカードが胸の内を語る場面です。ちなみに、ロイの独白は、ルトガー・ハウアーの即興演技だそうですよ。すごい。

なぜレプリカントが自分を助けてくれたかは解らない。
おそらく、最後の瞬間、今まで以上に生命の愛しさを感じたからだろう。
自分の命だけでなく、あらゆる命に対して。
オレの命。
彼は知りたがっていた。我々(人間)が欲しているのと同じ答えを。
我々はどこから来たのか。
どこへ行こうとしているのか。
どれぐらい生きられるのか。
オレに出来たことは、ここに座り、彼の死を見届けることだけだった──。

http://sanmarie.me/video2/brunner.flv

§ 「個性」とは記憶の連なり

レプリカントは写真にこだわる。「記憶」としての家族が映っている写真や幼い頃のポートレートなど。もちろん、それは、製造主が意図的に作り出し、彼らに植え付けた人生のストーリーで、当然のことながら、機械である彼らに家族も子供時代の思い出もない。

それでも彼らは自分を知る唯一の手掛かりとして写真を大事にする。

なぜなら、彼らは「過去」を有さないからである。

過去。それは、人間のルーツである。生まれた日、生まれた場所、育ててくれた家族、友と遊び、世界を学んだ、一日一日の積み重ね──それがあってはじめて、人は「わたし」を認識し、一個の人格として完成される。

だが、もし「過去」がなかったら──自分に関する一切の記憶が失われたとしたら──もはや何ものでもなくなる。

それはこの結びつき社会から疎外され、自己の基盤を失うのと同じだ。

どんな能力を持とうと、どれほど高い精神性を誇ろうと、「何ものでもない」ことは、この社会において存在しないことを意味する。

「わたし」は、社会との関わりの中で区別され、記憶の集積から自己を構築する。

機械として製造され、人工の記憶を注入されるレプリカントにとって、「写真」は彼らの存在を客観的に裏付ける唯一の証だ。たとえそれが偽りであったとしても、自分にも家族があり、子供時代があったと思うことで、「わたし」の足場を得る。言い換えれば、「わたし」というものは、元々、実体のない、自己の認識によってはじめてその形を得る、雲のようなものだと表すことが出来るだろう。この点は仏教に通じている。根本的に「いっさいは無」であり、苦しみも悲しみも、自分が「それ」と自覚することによって初めて形を得る──という考え方だ。

レプリカントの心も、人間が「わたし」と認識するものも、元をたどれば実体などなく、その日その日の風向きで形を変える流動的なものに過ぎない。にもかかわらず、人が「わたし」にこだわり、レプリカントが人間としてのルーツを大事にするのは、私たちが他から区別された「個」としての自分を認識してはじめて、人間としての人生が始まるからかもしれない。

「自分探し」というと、多くの人は「自分にはもっと素晴らしい可能性があるのではないか」とか「平凡な日常を劇的に変えたい」といった動機から自分自身に目を向けるが、本当の自分探しとは、ありのままの自分を見つめ、自己の何たるかを認識し、すべて受け入れるまでの旅である。

元々、「わたし」などというものは何処にも存在しない。

だからこそ、私たちが「わたし」と認識するものを真正面から見つめ、自己を形作ることから「自分らしい人生」の第一歩が始まるのである。

§ 攻殻機動隊

押井守の傑作SFアニメ「EMOTION the Best GHOST IN THE SHELL/攻殻機動隊 [DVD]」も似たようなテーマを語っています。

主人公は、機械のボディに人間の脳をもつ攻殻機動隊の草薙素子少佐。彼女も人間そっくりに考え、行動することができますが、彼女もまた自己の存在に対して懐疑的であり、「自分」は一体何ものなのかを常に問いかけています。

捜査に展開をもたらすキーパーソンとして、脳みそをハッキングされ、自分に関するいっさいの記憶を奪われた上に、他人の記憶を注入されて人生をメチャクチャにされる男性が登場しますが、その取り調べを見ながら、「自分が『自分』であるために多くの記憶を必要とする」と少佐がつぶやく場面、これは人工の記憶を注入され、写真以外に自分のルーツをもたないレプリカントに通じますね。それはまた、我々、人間にも言えること。だとしたら「自己」とは何なのか、人間を人間たらしめるのは「記憶」なのか、では、記憶が人間の本質とするなら生命とは一体何なのか、生物の創世記にまで翻って、深い問いかけが始まります。

これも日本アニメを代表する作品なので、機会があればぜひ見てください。

参照記事→映画『マトリックス』が本当に伝えたいこと ~君は心の囚人 / 攻殻機動隊 / イノセンス

§ ヴァンゲリスのサウンドトラック

『ブレードランナー』は音楽も素晴らしいです。作曲を手がけたのは「炎のランナー」でお馴染みのヴァンゲリス。ギリシャのシンセサイザー奏者で、アカデミー賞オリジナル作曲賞も受賞しています。

『ブレードランナー』もヴァンゲリスらしい宇宙的な広がりのある一大叙情詩で、単独の音楽として聞いても非常に美しい。

わけても素晴らしいのが愛のテーマ。ジャジーでアンニュイな雰囲気が漂う、大人の恋を描いた美しい音楽です。
クリップにもあるように、デッカードに愛が芽生え始めたレプリカントのレイチェルが、秘書だった時のカチカチヘアを柔らかくほぐし、女性的な姿に戻る場面が素敵。女は気分が変わると、まず髪型を変えるのです。
ハリソン君のちょっとゴーイング・マイウェイな「『キスして』と言え」もたまらん♥♥
この作品も脱いだり絡んだりしないけど、とても官能的です。

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§ 関連アイテム

画質、内容ともに、もっとも望ましい形でリリースされたファイナル・カット版のブルーレイ。クオリティの高い画像でシド・ミードの美しい美術を楽しみたい。ただ、こちらのファイナル・カット版は、ハリソン君のナレーションやエンディングの愛の逃避行などが入っておらず、より詩的な演出になっています。
私はそこまで画質にこだわらないのですが、『ブレードランナー』に関しては絶対的にブルーレイ派です。

一枚のDVDになんと3つのバージョンが収録されている、まさにマニア向けの一枚。違いを堪能したい方に。

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