バレエ&オペラ&クラシック

『沈める寺』ドビュッシー名曲集 & アントニオ・ガウディ

2010年5月2日

ドビュッシーの音楽はまさに『絵画』だ。
実際、そのようなタイトルの曲もあるくらい映像美にあふれている。
目を閉じた時、これほどまでに鮮明に絵になって現れる音楽があるだろうか。
初めて『月の光』を聞いた時は、あまりのイメージの広がりに気が遠くなりそうなくらい感動した。
音が水になったり、光になったり、鍵盤の上をきらきら跳ねまわる。
まさに『耳で聞く絵画』である。

『沈める寺』と『イースの伝説』

ドビュッシーと言うと、『月の光 clair de lune』(私の初めてのHPのタイトルでもある)が圧倒的に有名ですが、私の一押しはやはり前奏曲第1巻の『沈める寺』です。
ピアノの響きだけで作り上げた――とでも言うのでしょうか。
スケールもなければトリルもない、音を重ねただけの旋律ですが、水の底から押し寄せるようなダイナミズムにあふれ、まさに『沈める寺』のタイトルにふさわしい傑作です。

ちなみに、この曲のモチーフとなったのは、フランスの古い『イースの伝説』です。
テキストは、こちらから引用しました。

フォトショップ・プラクティショナー / コラージュギャラリー 『イースの伝説』より by 有香さま

ブルターニュ南部のコルアイユの善良な王グラドロンは、溺愛していた美しい娘ダユーの為にイースの都を建設しました。
イースは海面よりも低い土地に建設されたため、立派な水門と堤防に守られていました。
ダユーは放蕩で悪徳の限りをつくし、彼女の治める都は欲と快楽の上に繁栄していました。
美しいダユーに求婚する男性は数知れず、彼女と一夜を過ごした男性は魔法によって無惨にも殺され海に捨てられていました。
ある日、頭から足の先まで赤の衣装に身を包んだ不思議な王子が現れます。
今までの男とはまったく違うこの男は、この堕落した町に罰を与えるべき登場した神の使いでした。
ダユーは恋に落ち、男の要求通りに、王が首にかけていたイースの水門の鍵を盗み出してしまいます。
それと同時に、繁栄した都は一瞬のうちに、海底に沈んでしまいました。
それからというもの、人魚になったダユーは、その魅惑的な歌声で男たちを海に誘い出しました。
人魚ダユーの姿を見たものは、決して生きて戻ることはなかったといいます。
海底に眠るイースの都は、グラドロンの教会でミサが行われなくなるとき、この世のものとは思えないほど美しい姿で浮上してくると言われています。
大都市パリ(Par-Is)は、「イースのような」という意味から名づけられました。

当時のブルターニュ地方はアルモリカ(海の国)と呼ばれており、ケルト難民が大勢押し寄せていました。
この地に伝わる伝説には、ケルト神話的なものが数多く残っています。19世紀にテオドール・エルサール・ド・ラ・ヴィルマルケによって「バルザス・ブレイズ」がまとめられました。
ドビュッシー作曲の「沈める寺」は、この「イースの伝説」が元になっており、グラドロンの教会での祈りの声とイースが浮上するその姿、そして鳴り響く教会の鐘の音を表現したものです。なんとも幻想的なプレリュードではありませんか。

こちらはドビュッシーの名手といわれたアルトゥーロ・ミケランジェリの『沈める寺』

ドビュッシーに関するCD

ドビュッシーの名演というと、上記のミケランジェリや、フランスのミシェル・ベロフ、ギーゼキング、フランソワ等が非常に有名ですが、私はあえてワイセンベルクを挙げたいと思います。

「絵画」というよりは、クリアで知的なドビュッシーです。

世にドビュッシーの名盤は数あるけれど、レビューにもあるように、これほど透明で洗練されたピアノを聞かせるのは、ワイセンベルク唯一ではないかと思う。
磨き抜かれた水晶のように硬質でありながら、シルクのように繊細で、正確。
それでいて聴衆に媚びない孤高の輝きがあり、聴く方はいつも彼に片思いだ。
私は安さにつられて購入したのだが、結局、これに勝る演奏にいまだお目にかかったことがない。
ドビュッシーと言うと「いかにも!」といった弾き方をする人があるけれど、ワイセンベルクのそれはベタついたところが一つとしてなく、すべてが「さりげない」のだ。
癒しの音楽として聴くにも最高で、複雑でありながら、ちっとも耳に触らない名演である。

Amazonのサイトで試聴できるので、ぜひ聞いてみて下さい。

1. 版画
2. 練習曲集第2巻~組み合わされたアルペジオ
3. ベルガマスク組曲
4. 子供の領分
5. 前奏曲集第1巻~亜麻色の髪の乙女
6. 喜びの島
7. レントより遅く

【Amazon レビューより】

ワイセンベルクはラフマニノフやプロコフィエフのロシア物を弾くかと思えばショパンやリスト、バッハ等も弾く意外といろいろ弾く人。(大体曲は限定されるけど…)そんなワイセンベルクが今度はドビュッシーを弾く。最初の「版画」から驚いた。透明感のある美しい音、情景が目の前に浮かんできそう。「雨の庭」は他の演奏家が弾いて聴こえるのと違う所があり、粒のそろった速い演奏が好き。他の曲も文句なしにすばらしい!一曲一曲が生き生きとしていて美しく、心が癒される。これからも聴き続けたい愛聴盤だ。

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余りにも有名な「月の光」も、氷のテクニシャン・ワイセンベルクの手にかかると少なからず印象が変わる。通常のドビュッシー弾きの「月の光」が靄に包まれた春の円い朧月だとしたら、ワイセンベルクの「月の光」は、晩秋に青く冴え渡る三日月のようだ。その音色はあくまで硬質で、明晰である。

関連記事→アレクシス・ワイセンベルクの魅力

「沈める寺」はこちらのCDに収録されています。ドビュッシーの入門編としてもおすすめですね。

いわゆる「名盤」で楽しむなら上記動画で紹介したミケランジェリのCDがおすすめ。
知的で、研ぎ澄まされた響きは白眉のもの。
音の一粒一粒にまでこだわった、完璧なドビュッシーです。

ドビュッシー、ラヴェル、サティのおしゃれで色彩的なピアノ曲を、ベロフやティボーデらの魅力的な演奏で楽しむ。

1. 月の光(ドビュッシー)
2. 亜麻色の髪の乙女(ドビュッシー)
3. 水の反映(ドビュッシー)
4. アラベスク第1番(ドビュッシー)
5. アラベスク第2番(ドビュッシー)
6. 沈める寺(ドビュッシー)
7. ゴリウォーグのケークウォーク(ドビュッシー)
8. 水の戯れ(ラヴェル)
9. ソナチネ~第1楽章(ラヴェル)
10. 「クープランの墓」~前奏曲(ラヴェル)
11. 3つのジムノペディ(サティ)
12. 3つのグノシエンヌ(サティ)
13. ジュ・トゥ・ヴ(サティ)

ドビュッシーと言えば『月の光』が最も有名だが、個人的には『沈める寺』が一番好き。
メロディーは単純で、テンポもゆったりとしているが、幾重にも繰り返す和音がまるで水の底から響く鐘の音のようで、まさにタイトルそのもの。『湖の底に沈んだ伝説の寺院』の物語が目に浮かぶよう。
私はこの曲に触発されて、作曲に行き詰まった音楽家と、神の建築家と呼ばれたガウディの出会いを短編に書いたことがあるけども(下手の横好きで(..;)、今でもそんなイメージを抱いている。(記事後方にアップしてます)
CDは、ラヴェル、サティのお馴染みの名曲が収録されており、まさにフランス・ピアノの美味しいとこどり。
これでラヴェルの『亡き王女のためのパヴァーヌ』が収められていたら完璧だったんだけどネ。

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こちらは、ピアノ連弾として有名な『小組曲』。
「小舟にて」「行列」「メヌエット」「バレエ」の4曲から構成されています。
私の印象では、それぞれの曲が春夏秋冬をイメージしているように感じられます。
一番有名なのは「小舟にて」ですが、私はお気に入りは「メヌエット」。
秋の初めの淋しさと舞い散る木の葉を思わせる素敵な小品です。
色づくパリの庭園――といった感じですね。
むかし、友達と連弾して弾いたことがありますが、弾いている途中で感動して泣けました。


CDもいろいろ出ていますが、ミシェル・ベロフが定番でしょうか。

明快な解釈によりつつも,まさにフランス人演奏家らしい繊細なイメージで仕上げられたドビュッシーである。

1. 小組曲
2. 交響曲ロ短調
3. 6つの古代の墓碑銘
4. 白と黒で
5. 民謡の主題によるスコットランド行進曲
6. リンダラハ

ドビュッシーの連弾『小組曲』は隠れた名曲だ。
「小舟にて」「行列」「メヌエット」「バレエ」の四つの小曲からなり、時々、カフェなどで、イージーリスニング風にアレンジされたBGMを耳にすることがある。どんな人でも、恐らく、どれかは聞き覚えがあるはずである。
これはまた四季の曲であり、それぞれが春夏秋冬のイメージで聞こえてくる。
個人的には「メヌエット」が大好きだ。
お洒落な中にちょっぴり哀しい響きがあり、色づくパリの並木道を思わせる。
一人でそっと聞きたい秀作である。

【Amazon レビューより】
コラールとベロフは同郷のよしみもあって、ベロフが左手の故障をきたすまでは頻繁にデュオを組んで活動していました。
このアルバムは、その流れの中でレコーディングされましたが、ドヴォルザークやブラームスはいわば手慣らしであって、やはり期待はフランスものでしょう。このアルバムは満を持しての(ファンとしても)レコーディングでした。
ドビュッシーの連弾、もしくは2台のピアノのための作品がまとめて聞くことのできる唯一のアルバムであり、作曲家の精神がみごとに反映された一枚だと思います。→タイトルに「夜の音楽」と。まさにそんな感じですね。

*

こちらも私の一押し、『組み合わされたアルペジオ』(練習曲 第2巻から 第11曲)
ドビュッシーらしい、華麗でクールな旋律です。
上記に挙げた、ワイセンベルクが素晴らしい演奏を聴かせてくれます。


ドビュッシーとガウディ

……で、何の脈絡もなく、建築家アントニオ・ガウディの登場です。

私がガウディの名前を知ったのも、またまたサントリーのこのCMがきっかけでした。
まるで夢でも見ているように独創的な彼の建築に強く惹きつけられたものです。
近年では、1992年のバルセロナ・オリンピックを機に再びクローズアップされ、彼の代表作サグラダ・ファミリアを中心に世界中の注目を集めたものですが、今でもガウディ詣でする観光客は絶えないといいます。


こちらが有名なサグラダ・ファミリア=聖家族教会。
いまだ建設途中であり、完成するのは何百年先と言われています。(最近の予測では、2256年前後)
天高くそびえる尖塔に、ガウディが夢に描いた鐘が取り付けられた時、バルセロナの町にどんな音色が響き渡るのか。
今、命ある者で、それを聞き届けられる人はありません。
これはまさに時を超えた魂の建築なのです。

サグラダファミリア

バルセロナはまた、パブロ・ピカソ、パブロ・カザルス、ジョアン・ミロなど、多くの天才芸術家を輩出した奇跡の町でもあり、私もぜひ訪れてみたい所です。

ガウディの生涯を物語風に読むならこの本がお薦め。
専門的な話ではなく、人間ガウディの生き様に焦点を当てている。
人によっては「甘過ぎる」と思うかもしれないが、私は初めて読んだ時、号泣した。
こんな哀しくも美しい生き方があるだろうかと非常に感銘を受けたものだ。
特に、初めて愛した女性を断念する場面や、『神への建築家』を志すプロセス、サグラダ・ファミリアに懸ける想いなどは感動もひとしお。
年老いた彼が交通事故に遭ったとき、あまりにも身なりがみずぼらしかったが為に、誰もガウディだと気付かず、手当が遅れて死に至った経緯は涙なしに読めない。
初めての方にも、もっとよく知りたい人にも、お薦めの一冊です。

*

で、以下は、多感な少女期に書いた短編(汗)。
アントニオ・ガウディの伝記に非常に感銘を受け、ドビュッシーの『沈める寺』と絡めて創作しました。
なんか、くさーい話ですけど、まあ興味がある方だけ、どーぞ。

Short Novel『沈める寺』

黒づくめの痩せた男が湖のほとりに佇んでいた。
彼はひと月ほど前から湖の近くのホテルに滞在し、夕暮れになると、こうして湖のほとりにやって来て、何時までも動かぬ水面をじっと見つめているのだった。
彼が何者で、何のため水面を見つめ続けているのか、知る者は一人としてない。
だが、同じホテルの宿泊客が彼のことを知っていた。
その客は笑いながら言ったものだ。
「あの男なら、ずいぶん前に楽壇をにぎわせた音楽家だよ。当時は、誰もが彼の音楽を褒めたたえ、もてはやし、こぞって演奏したものだった。そして、彼も、自分は神に選ばれた人間で、偉大な音楽家の仲間入りを果たしたものとのぼせ上がっていたよ。しかし、自惚れが過ぎたんだろうね。彼の音楽からは、とんと霊感がなくなってしまった。今じゃ誰一人、彼の音楽になど見向きもしない。天罰でも食らったように、あっという間に落ちぶれて、今頃どこで何をしているのかと思ったら、こんな所で湖とにらめっことはね」

ある日の夕暮れ。
湖の周囲に、にわかに黒い雲が広がり、強い風を吹き付けてきた。鏡のような水面はどす黒く濁り、落ち着かぬように波立った。湖のほとりにいた人々は追い払われるように足早に去り、後にはひゅうひゅうと風の音だけが辺りに寂しくこだましていた。
最後まで残っていたボート小屋の男も、ボートをすべて桟橋に繋ぎとめると、慌てて湖を後にした。
が、振り向くと、水際にまだあの男が立っている。
ボート小屋の男は小走りで近づくと、後ろから声をかけた。
「旦那、気でも違ったのかい。もうすぐ雨が降ろうっていうのに、まだこんな所に突っ立っているなんて。よほどこの湖が気に入りなんだろうが、もう帰った方がいいですぜ。この辺りは雨が降ると、氷みたいに冷え込むんだ」
彼は答えなかった。
「いったい、このひと月というもの、飽きもせず、何を見ていらっしゃるので
ボート小屋の男が訝しげに聞くと、彼は、口元に自嘲的な笑いを浮かべて言った。
「見ているのではない、待っているのだ。探し求める音が聞こえてくるのを」
「『音』ですって?」
「君は知らないのか。この湖にまつわる言い伝えを」
「ああ、あの話かね」ボート小屋の男は声を立てて笑った。「それなら、子供の時、じいさんから聞かされたことがあるよ。なんでも昔、ここには大層立派な寺院があったとか。ところが、坊主も信者も金ぴかの寺院に気をよくして贅沢三昧、そのうち、神より偉いと思い上がったために怒りにふれ、寺院もろとも湖の底に沈められたという……」
「そう、そして、沈められた寺は、今もこの湖の底で己の罪を嘆き、天に向かって悔恨の鐘を打ち続けているのだ」
「ひょっとして、旦那はその鐘の音が聞こえてくるのをじっと待ってらっしゃるので?!」
「そうだ。残念ながら、まだ聞こえてはこないがね」
「旦那、そんなの作り話に決まってるじゃないですか。仮にだよ、本当にこの湖に寺が沈んでいたとしても、鐘の音なんか聞こえてきやしませんよ。それこそ、そんな鐘の音を聞こうものなら、身も心も呪われて、旦那まで湖の底に沈められちまいますよ」
「……そう思うかね」
「いやいや、旦那は想像豊かな方だ。旦那が信じて待つというなら、あえて邪魔はしませんよ。だがね、こんな天気の日まで無理しちゃいけません。いっぺんに体を壊しちまいますぜ」
そう言うと、ボート小屋の男は、まだ動こうとしない音楽家を振り返りつつ、足早に去っていった。

風はいっそう激しくなった。まるで両耳をもぎ取るかのように、強く吹きすさんだ。
やがて、刺すように冷たい雨が全身を打ち、彼は震えたが、それでも最後の力を振り絞るように黒雲を仰ぐと、風の中に咆哮した。
「今こそ聞かせてくれ。この風のように、泣き叫ぶ鐘の音を。私は知っているぞ。この湖の底で、お前たちがどんな思いで鐘を打ち続けているかを。どれほど己の過ちを悔い、天に赦しを乞おうとも、決して応えてはもらえぬ惨めさに、お前たちは暗い湖の底を虫のように這いずり、のたうちながら、苦しみの鐘を打ち鳴らしているのだろう。だったら、私にも聞かせてくれ。お前たちと同じこの愚かな男に、どす黒い闇のような音色を。胸にたまるような鉛の響きを。そうすれば、私は最後の力を振り絞って、それを旋律に変えてやろう。そして、非情な天に、お前たちの叫びをとくと聞かせてやるぞ」
彼の声は幾重にもこだまし、波立つ水面を駆け抜けていった。
だが、周囲には強い風の音が吹きつけるばかりで、彼の耳には、沈める寺の鐘の音も、そこに潜む者たちの気配さえも、聞こえてはこない。
彼は濡れて乱れた髪を力なくかき上げると、踵を返した。
明日は満月だ。言い伝えによると、満月の夜に、鐘の音はいっそう高く鳴り響くという。
もし、明日の夜までに、鐘の音が聞こえなかったら、何もかもあきらめて故郷に帰ろう。そして、私という音楽家がついに天に見放され、人々から忘れ去られることになろうと、それもまた神のご意志だ――と、彼は初めて己に言い聞かせたのだった。

次の夜は、すばらしい満月夜だった。
磨きあげたような水面に黄金の光が降り注ぎ、辺りは安らかな光に包まれている。
見上げれば、月が微笑んでいるようにも、沈黙しているようにも見え、音楽家は「これが最後の夜」と、言い知れぬ想いでじっと水際に立ちつくしていた。
いつか曲を書いたことがある。
凍てつくような独りぼっちの夜、しんと静まりかえった小路を歩いていると、月は優しい光で照らしてくれていた。その美しさを永遠に音の中に刻みつけたくて、夢中で書いたのが、世界中で愛された『月の光』だった。
それはさながら音の織りなす絵画だった。人々は、旋律の向こうに闇を照らす美しい光を感じて、魂を解き放ったものだ。
今なら、人々が、何に心を動かされたのか分かる。
それは彼一人の栄光ではなかったのだ。
すべては闇の底に静かに横たわり、水面に映る月だけが彼を哀れむように光を放っている。
もう、これまでだ……。
音楽家は深い溜め息をつくと、後退るように水際を離れた。まだ魂の半分が繋がれるように、ゆっくりと。
鐘よ。一度でいいから、応えて欲しかった。たとえその音色は天に届かなくとも、この胸には痛いほど響いただろうに。

そうして、今一度後ろを振り返り、鏡のような水面を見渡した時、遠く水際にたたずむ老人の姿を見つけた。
深々と降り注ぐ月の光の中で、老人もまた何かを求めるように水面を見つめていた。
その姿は、彼のものとは違い、透き通るように穏やかであった。
音楽家はその透明さに引かれるようにして、老人の方へ足を向けた。そして、背後から声をかけようとすると、老人の方から彼に向き直り、優しく微笑んで見せたのだった。
「こんな所で、何をなさっているのです」
彼が訊ねると、彼は顔をほころばせ、
「なに、あまりに美しい満月なので、今夜あたり、ある音が聞こえてきやしないかと、耳を澄ませて待っているんですよ」
「ああ、沈める寺の鐘の音ですね。それなら、ここにはありません。私など、もうひと月も前からここで待っていたんですよ。雨の日も、風の日も。でも、無駄でした。寺などあるはずがないんです。こんなに静かな湖の底に……」
「それで、君はもうあきらめて帰ってしまうのかい?」
「この満月夜を最後と決めていましたから」
「では、この老人につき合うつもりで、もう少しここで待ってみないかね。こんなに美しい満月夜だよ。鐘の音が聞こえようと聞こえまいと、すぐに帰るには惜しい夜じゃないか」
「ええ、いいでしょう」
すると、老人は桟橋につながれているボートを指さして言った。
「あれを漕いで湖の真ん中まで行ってみないかね。ここは風の音がうるさすぎる。これでは、せっかく湖の底から鐘の音が鳴り響いていても、とても聞き分けられないよ」
二人は古いボートに乗り込むと、緩く結ばれたロープを解いた。
音楽家は、オールを手にゆっくりボートをこぎ出すと、目を細めて水面を見つめる老人に訊いた。
「一体、あなたは何のために、鐘の音を求めていらっしゃるのです?」
「私は建築家でね。建築中の建物に、どうしても鐘の音が必要なのだよ」
「どんな建物です?」
「聖堂だよ」
「聖堂――それなら鐘楼が必要ですね」
「それはキリストを讃え、故郷の人々の幸福と平和を願う聖堂なのだ。私はこの聖堂に12本の鐘楼を造ろうと考えている。その一つ一つに、さまざまな音色の鐘をつけるのだよ。朝に夕に祈る人々の上に、神の祝福が降りそそぐように。その為に、私は様々な書物をひもとき、高名な学者を尋ね歩いて、それにふさわしい鐘の音を探し求めてきた。だが、求める音に巡り会うことはできなかった。そんな時、沈める寺の逸話を耳にしてね。いてもたってもいられなくなって、探しに来たというわけだ」
「あなたがなさろうとしていることは、分かるような気がします。しかし、沈める寺の鐘の音は、あなたの聖堂にはふさわしくないですよ。神の怒りにふれた寺院の鐘が、人に安らぎをもたらすとは思えません。そのような音色をお探しなら、こんな呪われた場所ではなく、もっとふさわしい場所がいくらでもあるでしょうに」
老人が何も答えずにいると、音楽家も押し黙った。水面を打つオールの音がひときわ高くなり、月の影が木の葉のように揺れた。

そうして無言で向かい合ったまま、ボートを漕ぎ進めていくと、老人がふと口を開いた。
「ここでいいだろう。ごらん、月が私たちの真上に」
音楽家は手を止めると、夜空を仰ぎ見た。
月は二人の頭上に清らかな光を放ち、底知れぬ闇を美しく彩っている。その優しさと安らかさは、あの夜のものと同じだった。
「ずっと以前、こんな月の光を曲に書いたことがあります」音楽家は我知らずつぶやいた。「あの夜も、ちょうどこんな風に輝いていました。私は急いで家に帰ると、すぐにピアノの前に座って、五線譜に音符を書きこんだものでした。胸の中の響きが消え失せないうちに、音にしたくてね。あの頃、私は一人で、誰も私に気付きもしなかったけれど、見るもの、聞くもの、すべてが美しかった。全身が一つの楽器になったように音が魂の内側から次々にあふれ出して、それがひとつの旋律となり、人々の心に響いた時、私はどれほど幸福だったかしれない」
「今は?」
「この月の美しさが身にしみるばかりです……」
言葉が風にちぎれてとんだ。彼はきつくオールを握りしめると、動かぬ暗い水面を見やった。
「なぜ、沈める寺は、鐘を鳴らすことをやめないのだろうね」
老人が優しい声で訊いた。
「神の許しを乞うためにです。許されたい、救われたいと、己の罪を嘆き悲しんでいるからです」
「そうだろうか。私には、浄化の音に思えるがね」
「浄化の音?」
「苦しみも哀しみもきれいに洗い流された、清澄な響きだ」
「それはあり得ないと思います。いまだ呪われているからこそ、誰の耳にも届かないのではないですか」
「では、鐘の音を聞いてみよう。あなたの言うように、苦悶の音色かどうか」
老人は両眼を閉じると、夜の底に耳を澄ませた。まるで世界中の音を拾い集めて、一つの形に練り上げるかのような姿だった。
音楽家もまた、彼に倣って目を閉じると、しんと静まりかえった水面に耳を傾けた。
すると、どうだろう。荘厳な鐘の響きが幾重にも重なりながら、波のように押し寄せてくるではないか。水の底から無限の波紋を描くように、一つ、また一つと。それは、あの月の光のように澄み渡り、苦悶の影はどこにも感じられなかった。
「どうだね、このすばらしい響きは。それでもまだ君は、これが苦しみの鐘に聞こえるかね」
音楽家は叫んだ。
「いいえ、この一点の曇もない響き――これが沈める寺の鐘の音とは……」
「沈める寺は、すでに赦されているのだよ。己の過ちに気づいたときにね」
「すでに、赦されている――」
音楽家は打たれたように押し黙ると、もう一度目を閉じて、耳を澄ませた。あれほど求めても聞こえなかった鐘の音が、今は厳かに耳に響いてくる。信じられない思いで目を見開くと、老人が優しく微笑みかけた。
「君もまた、この鐘の音にふさわしい魂を得たのだ。だからこそ、こうして君の耳にも響いてくるのだよ」
「……もう一度、夢が叶うでしょうか」
「もちろん。私も、これで聖堂の鐘の音色が決まったよ」
  
そうして、月日が流れ、音楽家はある町を訪ねた。
町の向こうには、天に向かって高らかにそびえ立つ、建築中の聖堂が見えた。

音楽家が再び老人を訪ねた時には、老人はもうこの世にはなかった。そして鐘の音はまだ響かずにいる。
だが、彼には、そびえ立つ五本の鐘楼から、町を包み込む美しい鐘の音が、風に運ばれて聞こえてくるようだった。いつか湖で聞いた、あの鐘の音のように澄んだ響きが。
彼は老人の墓の前にひざまずくと、持参した音楽をかけて聞かせた。
プレイイヤーから流れ出るピアノ曲は、彼が故郷に帰り着いてから一気に書き上げたものだった。その幾重にも押し寄せるような荘厳な響きは、あの夜、彼の心を打った鐘の音色そのものだった。
「今、この曲は、人々に大変愛されているのですよ。天に仕えるあなたの魂にも響かんことを祈ります。私の『沈める寺』が――」

Fin

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