書籍と絵画

だるまどん(父)の優しさ 絵本『だるまちゃんとてんぐちゃん』

2017年1月27日

世に絵本は数あれど、孫の代、いや世の末まで読み継ぎたい名作中の名作といえば『ぐりとぐら』、そしてこの『だるまちゃんとてんぐちゃん』でありましょう。

ストーリーはごくごく単純。

だるまちゃんとてんぐちゃんが仲よく遊んでいたのはいいけれど、だるまちゃんは、てんぐちゃんの持ち物をことごとく羨み(まったく子供というやつは……)、父親である「だるまどん」に「てんぐちゃんみたいな○○が欲しいよぅ」とゴネては、最終的な親の与えたものが気に入らず、なんだかんだで自分でこさえて、「わ~い、うれしいな♪」と幸せになる、なんじゃそりゃ?? な話です。

幼稚園時代から私のバイブルで、今も折にふれ、読み返しては、子供より自分が喜んでいます。

子供時代、私が飽くことなく眺めていたのが、見開きいっぱいに描かれた帽子や履き物の絵。

別に何ということはない、いろんな種類の帽子や履き物が描かれているだけのことですが、その一つ一つが子供心にミステリアスで、魅力的。

「これ、どうやって被るのかな?」

「こんな靴だと走れないよ」 etc

一つ一つの絵から、いろんな想像が膨らんで、何度読んでも、いつ見ても、これほど魅了された作品はありませんでした。
『ぐりとぐら』『いやいやえん』も好きですが、大人になると、『だるまちゃん』にまさるものはない。

何故かというと、だるまどん(父)の愛の大きさに心を打たれるからです。

子供(だるまちゃん)に「てんぐちゃんのような帽子が欲しいよぅ」とおねだりされ、父の気遣いで、これだけの数の帽子を部屋いっぱいに並べたにもかかわらず、その返事は「こんな帽子じゃないんだけどな」(→ 結局、自作)

それを「うちわ」「帽子」「はきもの」と繰り返した挙げ句、今度は「てんぐちゃんみたいな鼻が欲しいよう」と言い出して、またも、だるまどんが親の気遣いから花畑に連れて行くと、だるまちゃんは目を真っ赤にして、「ちがうよ、ちがうよ、まるでちがうよ! ぼくのほしいのは、咲いている花でなくて、顔にある鼻だよ!」

私なら、この時点でキレます (`ω´)キリッ

私の顔の方が、だるまちゃん状態になります。

二度も、三度も、子供の我が儘に付き合えるほど、私は寛容ではありません。

この芸術的描画……。このだるまちゃんだけでも見る価値あり。

しかしながら、だるまどんの優しいこと。

「ごめん、ごめん、これは大間違いのとんちんかん」と頭をかいて、だるまちゃんの気に入るように、(なんと)えっちら、おっちら餅米をつき、家族総出で、ころころまるめて、形のいい鼻を作ってあげるんですね。一度も、キレることなく ( ´△`)y-~~

これを親の慈愛と呼ばずに、なんと呼ぶ。

ほんと、親って、かくあるべきだわと、つくづく。

私のように、「自作できるなら、最初から自分で作れよ~」なんて、決して言わない。

最初のおねだりの段階で、「ちっ、面倒だな」なんて、決して思わない。

だるまちゃんの願いを叶えるために、うちわや履き物を何十個も並べ、「どれが欲しいか、言ってごらん」とばかり、ニコニコしながら見守っているんですね。

『理想の親』はこうあるべき、と、諸説ありますが、私は、だるまどんの姿に全て集約されているような気がしてなりません。

だるまちゃんは我が儘といえば我が儘だけど、だるまどんは、「てんぐちゃんみたいなウチワが欲しいよぅ」と泣きつく我が子に、「むやみに他人のモノを欲しがるんじゃない」と説教したり(←私)、「何度もしつこく言うんじゃない」と自制を強要したり(←私)、「これだけ気を遣ってるのに、『ちがうよ、ちがうよ、まるでちがうよ』とは何事じゃあ」とキレたりしない(←私)。

どんな時も子供の願いに寄り添い、親として出来るだけの努力をしてあげる。

これを無償の愛と呼ばずに、なんと呼ぶ。

だるまどんを見る度に、親って、何? 優しさって、何? と自分に問いかけずにいません。

そして、今の私は、無数の帽子や履き物を眺めて喜ぶだるまちゃんの立ち位置から、だるまどんの立場にシフトし、どう逆立ちしても、慈悲深き達磨大師にはなれない自分を淋しく戒めずにいないのです。「ああ、子育てって、こんなつもりじゃなかったのに」と。

ほんと、だるまどんは慈愛の象徴ですよ。

子供の為に、杵をつき、餅をこねて、それで天狗ちゃんみたいな鼻を作ってあげるなんて(・_・、)

これのどこが慈愛なの? 今は意味の分からない人も、人の子の親になれば分かります。

「子供の(時に理不尽な)お願い」に応えることが、いかに難しいか。そして、親であり続けることが、どれほど難しいか。。。

なぜ あなたの絵本の読み聞かせは失敗するのか

毎日、数冊の本を読み聞かせ、良書を厳選しているのに、うちの子はちっとも本に興味を示さない。

隣の健太くんは、もう平仮名が読めるのに、うちの子は……

みたいな話、巷にいっぱい転がってますよね。

わたくし、プロの絵本読み=5歳児 を代表して申しますと、子供は言葉を言葉として認識し、大人のように文字を読んでいるわけではない。

「親が絵本を読み聞かせている間も、絵を通して、自分の世界に遊んでいるのが大半だから」とお答えいたします。

ついで申せば、私は現住国の、現地語を覚えるのに、一度も辞書を引かずに覚えた単語がたくさんあります。しかも、一度もまともに習ったことがないのに、発音を聞けば一発で綴れる単語も相当数あります。

なぜかといえば、今の現地語は、大半を『音』と『視覚』で覚えたからです。

文法から入った『英語』とは修得のプロセスが180度違っています。

それは、さながら、幼児が言葉を学ぶが如くです。

皆さんも一度振り返ってみて下さい。

いつから日本語を日本語として理解し、文字を文字として認識するようになりましたか?

多分、まったく記憶にないはずです。

「気が付いたら、知っていた」。

それが全てではないでしょうか。

子供もそれと同じです。

赤ちゃんに「文字」を文字として認識する能力はないし、おぼろげに理解しだすのは保育園・幼稚園時代ではないでしょうか。

文字を文字として、あるいは、言葉を言葉として認識するまでの間、どれほど絵本を読み聞かせても、子供は漠然と『音』として聞き、絵だけを見ています。

親が「これが『あ』、これが『い』」みたいに、文字を意識するのとは対照的に、子供は文字なんてまったく見てないし、それが文字だと認識すらしていない。

ただ、親の喋ることを『音』として味わい、絵に興味を引かれているだけなんですね。

意味が分からなければ、ロシア語の絵本を想像して下さい。

立派なロシア文学者が、世界最高といわれるロシア語絵本を、ロシア語であなたに読み聞かせても、意味なんて、まったく分からない。

どれがどの文字で、何を喋っているのか、理解すらできないはずです。

その間、何をしているかといえば、繰り返される音(『ダー』とか『ニェート』)に聞き耳を立て、絵だけをぼんやり見ていると思います。(オオカミの顔が怖いなあ)とか(花の絵が綺麗だなあ)とか。

言葉を認識する前の子供もそれと同じ。

親とは見ているポイントも感じていることも全く違うわけですね。

では、どのように「単語」と「モノ」を結びつけるかというと、それこそ慣れです。

周囲がぺらぺらお喋りする中で、よく使われる単語、その場の状況、身振り手振りから、「この単語がOKの意味」「○○は天気のこと」と、自然に理解していくのです。

あるいは、スーパーにいけば、山盛りのリンゴの前に商品名をかいた札が貼ってある。それを繰り返し目にすれば、辞書など引かなくても、「この単語はりんご」と理解します。

よく育児指導で言われると思います。「言葉のシャワー」と。

今は発語しなくても、お母さんが根気よく話しつづければ、子供は自然に言葉を理解して、ある日、突然、話し出す。今は「溜めの時期」です、と。

私にも「溜め」の時期がありました。

何が何だか分からない音の繋がりが、やがて一つの文章に聞こえ、一つ一つの単語として認識できるようになる。

ALCのヒアリングマラソンもそうですが、親がひたすら話しかけることが言葉の認識に繋がっていく、というのは、確かにその通りなのですよ。日常生活においては。

ところが、『読み聞かせ』になると、途端に『文字』にこだわる人がいる。

これだけ文章を聞かせているのに、なぜ、『あ』が読めないんだ、『きのこ』の意味が分からないんだ、と、苛々して、読み聞かせの途中でテストをしたり、いちいち絵を指差して、これは「きのこ」、これは「いぬ」、い・ぬ、い・ぬ、とか、指導しだす人もあるのではないでしょうか。

そんな事をしたって、子供には苦痛でしかないし、子供は子供で絵の世界で遊んでいるのだから、黙ってみてればいいと思うんですよ。

子供が「これ何?」と聞いてきた時だけ、教えてあげてね。

自分だって、ロシア語の絵本が読めないのに、「この単語の意味は? 読み方は?」と毎回テストされたら、イヤになるでしょう。

それより、「だるまちゃんの家には履き物がいっぱいあるね」とか、「この帽子はどうやってかぶるのかな」とか、そういう話の方が楽しいですよ。

そして、その会話の中で「履き物」「帽子」という、音とモノとが繋がっていく。

このプロセスをすっ飛ばして、いきなり文字が、単語が、と急いても、そりゃ絵本なんか見るのもいや、ママ嫌い、になりますって。

わたくし、プロの絵本読み=5歳児 の経験でいうなら、母親が読んでいる間も、「お菓子の家の、この部分は、キャンディやろか、ガムやろか」「ぐりとぐらのカステラのにおいって、どんなかな」「桃太郎の桃を割る時、どのあたりで包丁を止めたら、きれいに割れるんやろか」とか、ろくでもない事ばかり考えてたしね。動物のお話の中に「わーっ、じしんだ、じしんだ」とウサギが慌てる場面があって、親に「じしん、って何?」と聞いても、「地面がぐらぐら揺れることや」としか教えてくれん、飛んでも、跳ねても、地面が揺れることなどなくて、’地面が揺れる’という概念そのものが理解できない。「じしん、って何?」と、ずーっと悩んでいた時、本物の「地震」が来て、「地面が揺れるって、こういう事か~」と、ようやく理解することができて、めちゃくちゃ嬉しかった事もあるしね。(今となっては不謹慎な話かもしれませんが、子供の科学魂というのは、そういうものです)

そういう楽しい経験があったから、次は「世界妖怪図鑑」「日本の幽霊話」「保健と人体の図鑑」「ベートーヴェンの伝記」と、次々に発展して、今があると。

それは決して作為ではなく、想像と実体験の賜なんですね。

どうしても読み聞かせが上手くいかない方は、一度、洋書コーナーにいって、韓国語語だか、ロシア語だかの絵本を手にとって、読んでみるといいです。
何がどう書いてあるのか、さっぱり分からん、でも絵は可愛いな、それが子供の世界観です。

そして、ロシア語が読めなくても、色彩の美しさやユニークな絵柄は十分に楽しめますし、それで興味を持てば、ロシア語のテープも毎日きくし、この単語、何という意味? と詳しい人に聞いてみたくもなる。

子供もそれと同じだと思いますよ。

神の絵本

日本人で「ぐりとぐら」を読まないアナタは非国民レベルの名作です。

単に、のねずみの「ぐりとぐら」が大きな卵を見つけて、家から鍋を持ってきて、カステラを作るだけの話なんですけど、大人でも引き込まれるような魅力があるでしょう。

卵の絵、一つとっても、ややこしい作為は何もない。

画面に、黒い一本線で、まあるく描かれているだけ。

でも、その線や形の柔らかさに、なんともいえない優しさを感じるんですよ。子供もきっとそうだと思います。

でも、私は子供心に、ずーっと不思議でした。

お客さんがお土産で持ってくるカステラは角張って細長いのに、なぜ、ぐりとぐらのカステラは丸いのか。

そして、茶色い皮が無いのか。

そもそも、カステラって、フライパンで焼けるのか?

長崎で、四角いオーブンで焼くのとちがうの?? 

おかしい……って^^;

長崎カステラ↓ 美味そう(^^)

Photo : 松翁軒(長崎)

いやいやえんの「しげる」に比べたら、私はまだマシ……と幼稚園児の私に大いなる自信を与えてくれた本。

しげるは、鼻くそを食べるしな。

ついでに、オモチャが立腹して、歩いて出て行ってしまうエピソードも戦慄モノでした。

夜中に、チャッキーみたいに、オモチャに復讐されたらかなわん、と、一時期、人形類を遠ざけてたこともありました。

リカちゃんとか、タオルにぐるぐる巻きにして、夜中に歩かないようにしてたの^^;

チャッキー ↓

最後におどろおどろしい作品を紹介して申し訳ないが、私の子供心を鷲掴みにしたのが、この本。
カスタマーレビューも大絶賛でしょう。
子供向けの本とは思えぬ、イラストの美しさ。
恐ろしくグロテスクなんだけども、非常に芸術的で、どこかエロティックで、化け物どもの表情、躍動感、色彩、どれをとっても空前絶後の逸品です。こんな値段でも「欲しい!」という人の多さ。わかるわかる。
手足が逆になった『さかさ男』とか、怖いを通り越して、美しさすら感じるという。芸術品です。

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