ドストエフスキーの名作『罪と罰』 米川正夫・訳の抜粋 / 『謎とき 罪と罰』江川卓

2009/12/28 追記

米川正夫さんによる名訳は、2008年に角川文庫から復刊していました。
海外在住につき、全然気がつきませんでした。
私が日本に居た頃は、旧出版元に問い合わせても「絶版」と言われていたので、1998年秋にこの記事を立ち上げた次第です。
しかしながら、米川版を知って欲しいという気持ちは今も変わりませんので、以下の記事は修正せずに置いておきます。
まだ読んだことがない方も、ぜひ角川の復刻版を体験して下さい。

それにしても角川のブックカバーはセンスがありますね。
私も欲しくなりました。

『罪と罰』について

あまりにも、あまりにも有名なロシアの文豪、ドストエフスキーの不朽の名作。

超個人主義に徹する貧しい大学生ロジオン・ラスコーリニコフは、『人間は凡人と非凡人とに分かれ、非凡人は既成道徳をも踏み越える権利を有する』 『一つの些細な犯罪は、数千の善事で償われる』という理論のもとに、強欲な高利貸の老婆を殺害し、奪った金を有効に転じようとします。
しかし、偶然その場に居合わせた老婆の妹まで殺害したことから、罪の意識にさいなまれます。
けれど、哀れな境遇ながらも、深い信仰に支えられる聖なる娼婦ソーニャによって、彼の心は救われ、ついに自らを、法と神の手にゆだねるのでした。。。

『罪と罰』名場面

引用は、昭和26年に発行された『新潮文庫 「罪と罰」 訳 :米川 正夫 』です。
訳自体が古いせいもあって現在では絶版になっていますが、格調高い名訳だと思います。
絶版になってしまったのが非常に悔やまれます。
(表紙のデザインも古典的で良い。私は米川版を手に入れるのに、古本屋を探し回りました)

「米川版=悪文」という見方もありますが、これは読み手の好みにもよるでしょう。

私は、古めかしい、もったいぶった言い回しが好きなので、米川版を一押しです。

ところで、一たい人間は 何をもっとも恐れているんだろう?
新しい一歩、新しい自分自身の言葉、これを何よりも恐れているんだ。
一体、“あれ”が俺に出来るのだろうか?
そもそも“あれ”が真面目な話だろうか?

『神様!』と彼は祈った。
『どうかわたくしに自分の行くべき道を示してください。
わたくしはこの呪わしい……妄想を振り捨ててしまいます!』

屋根裏部屋に下宿する大学生のロジオン・ロマーヌイチ・ラスコーリニコフは、貧しさに喘ぎながら、もう何日も一つの考えにとらわれています。それは悪どい高利貸の老婆アリョーナ・イヴァーノヴナを殺害し、その金を善事に役立てるというものでした。

“無知で何の価値も無いような意地悪な婆”は生きていても仕方が無い――そんな婆はいっそ殺して、その鐘を万人の福祉に役立てた方がよっぽど有効ではないか。

殺人は絶対悪であるけれど、ある正義のもとでは正当化される。

すべての人間は、『凡人』と『非凡人』に分かれ、ナポレオンやニュートンのような『非凡人』は、ある一線を踏み越え、新しい法律を創造する権利を有する――というのが彼の理論なのです。

そんな彼も、一度は良心の叫びから誘惑を振り切ろうとしました。

しかし、偶然、彼は翌日の夜七時にアリョーナが一人きりになることを聞きつけ、その後、彼と同じ理論を展開する大学生と将校のやり取りを耳にします。

【楽園追放 】~ The Fall from Grace ~ ミケランジェロ・ブオナローティ Michelangelo Buonaroti
【楽園追放 】~ The Fall from Grace ~ ミケランジェロ・ブオナローティ Michelangelo Buonaroti

やつを殺して、やつの金を奪う、ただしそれは後でその金を利用して、全人類への奉仕、 共同の事業への奉仕に身を捧げるという条件付きなのさ。
どうだね、一個の些細な犯罪は、数千の善事で償えないものかね?
たった一つの生命のために、数千の生命が堕落と腐敗から救われるんだぜ。
一つの死が百の生にかわるんだ。

彼はついに斧を手に取り、それを「実行」しました。

しかし、たまたまその場に居合わせた、アリョーナの善良な妹リザヴェータまで殺害したことで、彼は激しい罪の意識にさいなまれるようになります。

【 ナポレオンのアルプス越え】Napoleon Crossing the Saint Bernard  ジャック・ルイ・ダヴィッド Jacques Louis David
【 ナポレオンのアルプス越え】Napoleon Crossing the Saint Bernard ジャック・ルイ・ダヴィッド Jacques Louis David

老婆殺害を正当化するあたり、ラスコーリニコフが引き合いに出すのがナポレオンです。
ナポレオンのように突出した『非凡人』は、己を実現するために、正義や法律を踏み越える権利を持っている――というのが、彼の持論なのです。
こうした論理は、ラスコーリニコフに限らず、自己肥大した現代人の本質を物語っていないでしょうか。
「自分だけは特別」という自惚れ、「特別ゆえに踏み越えることが許される」という傲慢さ、それらを裏付けるのが、ラスコーリニコフの「非凡人説」だと思います。

即ち、『非凡人』は、ある種の障害を踏み越えることを自己の良心に許す権利を持っている。
人は自然の法則によって、概略二つの範疇にわかれている。
つまり自分と同様なものを生殖する以外に何の能力もない、いわば単なる素材に過ぎない低級種族(凡人)と、いま一つ真の人間、即ち自分のサークルの中で新しい言葉を発する天稟なり、才能なりを持っている人々なのです。
第一の範疇は現在の支配者であり、第二の範疇は未来の支配者であります。
第一の範疇は世界を保持して、それを量的に拡大して行く。
第二の範疇は世界を動かして、目的に導いて行く。
だから両方とも同じように、完全な存在権を持っているのです。

老婆の殺人事件を担当するにあたり、ラスコーリニコフこそ真犯人ではないかと疑う判事ポルフィーリィは、『非凡人はすべてを踏み越える権利を持つ』と説いた彼の論文を引き合いに出し、彼を追及します。

あらゆる人間が、『凡人』と『非凡人』に分かれるという点なのさ。
凡人は常に服従をこれ事として、法律を踏み越す権利なんか持っていない。
ところが非凡人は、特にその非凡人なるがために、あらゆる犯罪を行い、いかなる法律をも踏み越す権利を持っている、たしかそうでしたね……

こうしたラスコーリニコフの「非凡人説」に対して、ポルフィーリは非常にシンプルな問いかけをします。

一体どいういうところで、その非凡人と凡人を区別するんです?
生まれる時に何かしるしでもついてるんですか。
さもないと、もしそこに混乱が起こって、一方の範疇の人間が、自分はほかの範疇に属してるなどと妄想を起こして、あなたの巧い表現を借りると、『あらゆる障害を除き』始めたら、その時はそれこそ……

「その時はそれこそ……」に続く言葉は、『あらゆる悪が正当化される』といったところでしょうか。
これが単なる「小説の一セリフ」ではなく、現代に対する「預言」であることは、近年おこった事件・問題を見ればよく分かります。
自分自身を基準にして、物の善悪や要・不要を判断し、自分の気に入らないもの、要らないものは簡単に排除してしまう、その利己的な傾向を「一方の範疇の人間が、自分はほかの範疇に属してるなどと妄想を起こして、『あらゆる障害を除き』始めたら」という言葉で表現しているのです。
言葉はシンプルですが、非常に恐ろしい含みがあります。

そんなラスコーリニコフに対し、ポルフィーリィは、「ではその男の良心はどうなるのか?」と問い掛けます。
すると、さっきまで俊敏に切り返していたラスコーリニコフの論調がはたと鈍ります。
そして、ポルフィーリィはさらに彼を追及し、疑念を確信へと変えてゆくのでした。

*

こちらはロシア映画『罪と罰』より老婆殺しの場面。
江川卓さんの『謎とき『罪と罰』 (新潮選書)』にも解説がありますが、よく見ると、ラスコーリニコフは老婆を峰打ちにしています。
つまり、斧の刃は自分自身に向けられており、それが意味するところは、「自分自身の死」なのです。

この作品は、「良心の死」=ラスコーリニコフは老婆を殺害すると同時に、人間としての自分の魂をも殺してしまった、その『キリスト教的復活』を描いた作品ですから、この場面で『峰打ち』を用いたドストエフスキーの手法は、まさに完璧で緻密としか言い様がありません。

しかも、偶然その場に居合わせた大女のリザヴェータを殺害する時は、刃を振り下ろしています。

峰打ちで老婆を殺害し、人間としての良心を失ったラスコーリニコフは、リザヴェータを殺害する時はすでに「完全な殺人者」となっており、だからこそ、この第二の殺害が心に重くのしかかる――という流れを理解すると、この場面が、単なる「殺人」を描いたものではないことがよく分かります。

そんなラスコーリニコフにも愛する家族がありました。
利発で美しい妹のドゥーネチカと、父亡き後、必死で二人の子供を育て上げた母親です。
しかし、ドゥーネチカは、ラスコーリニコフの妹ドゥーネチカは、貧苦の兄を助けるために、愛してもいない金持ちの男ルージンと婚約します。
妹の純粋な愛と犠牲は、彼の心に重くのしかかり、彼をますます追い詰めるのでした。
このセリフは、『己一人のみ愛せよ、何となれば、この世の一切は個人的利益に基づけばなり』と、個人の利益追求が社会全体に利益をもたらすと説くルージンに対し、ラスコーリニコフが切り返す言葉です。

あなたがさっき主張したことを、極端まで押しつめると、
人を斬り殺してもいい、ということになりますよ……

ここで説かれる「究極の利己主義」は、ラスコーリニコフの「悪賢い老婆を殺害し、奪った金を社会に役立てる」という考えに共通しています。
『罪と罰』が「現代の預言書」と呼ばれる所以は、心の指針である「キリストの愛と教え」から離れ、各々が身勝手な欲求のもとに行動するようになる、現代人の心の闇をいち早く指摘した点にあり、ここでいやらしいほどに強調されるルージンの強欲さがその闇を物語っているように思います。

一人の死刑を宣告された男が、処刑される一時間前にこんなことをいうか、考えるかしたって話だ。
もし自分がどこか高い山の頂上の岩の上で、やっと二本の足を置くに足るだけの狭い場所に生きるような羽目になったら、どうだろう?
周りは底知れぬ深淵、大洋、永久の闇、そして永久の孤独と永久の嵐、この万尺の地に百年も千年も、永劫立っていなければならぬとしても、今すぐ死ぬよりは、こうして生きている方がましだ。
ただ生きたい、生きたい、生きて行きたい!
どんな生き方にしろ、ただ生きてさえいられればいい!
この感想は何という真実だろう! ああ、全く真実の声だ!
人間は卑劣漢にできている!
またそういった男を卑劣漢よばわりするやつも、やっぱり卑劣漢なのだ。

ラスコーリニコフの言葉

このラスコーリニコフの独白は、絶対的な心の指針から離れ、心の拠り所を亡くした人間の心情をよく物語っています。
にもかかわらず、「(信仰にしたがい、良き人間として)生きたい」と願う。
ここに彼の抱える強烈なアンビバレンツがあり、だからこそ、踏み止まることではなく、「一線を越える」ことを選んだラスコーリニコフの悲劇が際立つのだと思います。

【 放蕩息子の帰還】-The Wayfarer- ヒエロニムス・ボス Hieronymus Bosch
【 放蕩息子の帰還】-The Wayfarer- ヒエロニムス・ボス Hieronymus Bosch

そんなラスコーリニコフは、ふと立ち寄った酒場で、退職官吏のマルメラードフに出会います。
マルメラードフは、せっかく得た生活費もみな酒代に使い込んでしまうような酔っぱらいで、家族が食いつなぐ為に、とうとう娘ソーニャに身売りまでさせますが、そのわずかな稼ぎさえもせびって飲んでしまうような有様でした。

貧は悪徳ならずというのは、真理ですなあ。
ところで、洗うがごとき赤貧となるとね、書生さん、洗うがごとき赤貧となるとこれは不徳ですな。
素寒貧となると、第一自分のほうで自分を侮辱する気になりますからな。

この言葉は、「貧しさ」というものの本質を突いています。
「自分で自分を侮辱する気になる」というのは、貧しさゆえに自尊心が傷ついた人間の率直な気持ちと言えるでしょう。

どんな人間にしろ、せめてどこかしら行くところがなくちゃ、やり切れませんから。

深い言葉です。
「行くところ」というのは、いわゆる「心の拠り所」を意味するのだと思います。
退職官吏のマルメラードフは、いわば社会との接点を無くし、家族からも愛想を尽かされているような男で、当然、彼に慕い寄る友人もなければ、敬意を払ってくれる人もありません。
いわば、友もなく、仕事もなく、自分の居場所すらない孤独な人間であり、どこにも「行く当て」がないのです。
人間が「社会的存在」であることを考えると、どこにも「行く当てがない」というのは、いわば生殺しのような状態であり、誰にも必要とされず、やるべき仕事もないのは、空しさの極みと言えるでしょう。
その気持ちを、マルメラードフの「やりきれない」という言葉で表現しています。
そして、この「やりきれなさ」は、同時に、キリストの愛と教えから離れ、心の拠り所を失った現代人の孤独と不安を見事に言い当てているのです。

ただ万人を哀れみ、万人万物を解する神様ばかりが、われわれを憐れんでくださる。
最後の日にやって来て、こう訊ねて下さるだろう。
『意地の悪い肺病やみの継母のために、他人の小さい子供らのために、われと我が身を売った娘はどこじゃ?
さあ来い! わたしはもう前に一度お前を赦した……
もう一度お前を赦してやったが……今度はお前の犯した多くの罪も赦されるぞ……』
こうして、娘のソーニャは赦されるのだ。

飲んだくれのマルメラードフにも良心の疼きというものがありました。
それは、愛する娘のソーニャを売春婦にまで落としてしまったことです。
彼は馬車に轢かれ、絶命しますが、(この一件がラスコーリニコフとソーニャを引き合わせます)、死の間際、彼は必死に神に赦しをこい、最期は愛する娘ソーニャの腕の中で息を引き取ります。

この場面は、後のラスコーリニコフの「良心の回帰」の伏線になっていて、作品の重要なキーワードである『赦し』が初めて登場するんですね。
この『赦し』の意味を正しく理解するか否かで、読後がまったく違ってきます。
ある意味、この場面に、作品の本質が集約されていると言っても過言ではありません。

【マグダラのマリア】 ~Mary Magdalene~  ティツィアーノ Tiziano Vecelio
【マグダラのマリア】 ~Mary Magdalene~ ティツィアーノ Tiziano Vecelio

マルメラードフの死をきっかけに、ラスコーリニコフは信心深い娘のソーニャと出会います。
家族を養うため、娼婦に身を落としながらも、決して神の教えを忘れない高潔な女性です。

『じゃ、なんですの、カチェリーナ・イヴァーノヴナ(ソーニャの継母)、私どうしてもあんなことをしなくちゃなりませんの』
『それがどうしたのさ。何を大切がることがあるものかね? 大した宝物じゃあるまいし!』
ソーニャは立ち上がりましてな、ショールをかぶって、マントを引っかけ、そのまま家を出て行きましたが、八時過ぎに戻ってきました。
はいるといきなり、カチェリーナのところへ行って、黙って三十ルーブリの銀貨をその前のテーブルにならべました。
やがてカチェリーナが、これもやはり無言で、ソーニャの寝台の傍に寄りましてな、一晩じゅうその足元に膝をついて、足に接吻しながら、やがて二人はそのまま一緒に寝てしまいました…

しかし、そんなソーニャの犠牲と献身も、ラスコーリニコフの目には次のように映ります。

ああ、えらいぞ、ソーニャ!
だが何といういい井戸を掘りあてたものだ!
しかも、ぬくぬくとそれを利用している!
平気で利用してるんだからな!
そして、ちょっとばかり涙をこぼしただけで、すっかり慣れてしまったんだ。
人間て卑劣なもので、何にでも慣れてしまうものだ。

身売りすることにより、キリストの教えから「一線を踏み越えた」ソーニャは、いわば殺人者のラスコーリニコフと同類です。

初めは泣いて悲しんだ娘も、いずれその悪に染まって何も感じなくなってしまうものだ――というのが、彼のソーニャに対する第一印象であり、彼女に罪を告白した時も、

“>
「今の僕にはお前という人間があるばかりだ。
僕らはお互いに詛(のろ)われた人間なのだ。
だから一緒に行こうじゃないか!
お前もやっぱり踏み越えたんだよ……どうしたらいいかって?
破壊すべきものを一思いに破壊してしまう、それだけのことさ。
そして苦痛を一身に負うのだ!」

「だから一緒に行こう」というのは、キリストから離れて、彼の説く利己主義な人生への誘いです。
ここで言われる「破壊すべきもの」というのは、いまだ心に残っている人間としての良心と信仰であり、ラスコーリニコフはそれらの一切を捨て去って、欲望のおもむくままに生きようとソーニャを誘っているのです。

しかし、ソーニャの信仰心は揺るぎません。
キリストを信じ、『神様が守ってくださいます!』と繰り返す彼女に対し、ラスコーリニコフは意地の悪い快感を覚えながらこんな言葉を投げかけます。

だが、もしかすると、その神様さえまるでないのかもしれませんよ。

【 トマスの疑い 】- Doubting Thomas - ルカ・シニョーリ Luca Signorelli
【 トマスの疑い 】- Doubting Thomas - ルカ・シニョーリ Luca Signorelli

『ソーニャの取るべき道は三つある。濠へ身投げするか、病院に入るか、淫蕩の直中へ飛び込むか』。

にもかかわらず、ソーニャが心の清浄を保ち続けてきた理由が、罪という観念であり、家族への愛であり、神に対する信仰であることを悟った時、ラスコーリニコフは神秘的な思いでつぶやきます。

どうしてそんなけがらわしい賤しいことと、
それに正反対な神聖な感情が、ちゃんと両立していられるんだろう?

そして、ラスコーリニコフは、彼女の箪笥の上にあった新約聖書の『ラザロの復活』を読んでくれるよう求めます。

ラザロの復活は、「ヨハネの福音書」に記されています。

マリアとマルタの兄弟ラザロが、病気であった。姉妹たちはイエスのもとに人をやって、それを知らせた。
イエスはマリア、マルタ、ラザロを愛していた。
イエスが行くと、四日前にラザロは亡くなっていた。
イエスは涙を流し、どこに葬ったか訊ねた。
墓は洞穴で、石でふさがれていた。イエスはその石を取りのけるよう言った。
マリアは「四日もたっていますから、もうにおいます。」と言った。
イエスは、信じるなら神の栄光がみられる、と言った。
人々が石を取りのけると、イエスは天をあおいで言った。
「父よ、わたしの願いをいつも聞いてくださることを、わたしは知っています。
あなたがわたしの願いを聞き入れてくれるのは、周りの人々に信じさせるためです。」
こう言ってから、「ラザロ、出てきなさい」と叫んだ。
するとラザロが、手と足を布で巻かれたまま出てきた。
顔は覆いで包まれていた。
イエスは周りの人々に「ほどいてやって、行かせなさい」と言った。

普通に読めば、死者がびっくり蘇るインチキみたいな話ですが、これは、キリストによる「心の目覚め」を描いた寓話とされています。
「死んだラザロ」とは、心を失った状態の人間であり、「信じるなら神の栄光が見られる」というのは、「あなたが神の教えを信じるなら、迷いや苦しみから解き放たれ、真の心の平和と命を得ることができる」という教えです。

つまり、ラスコーリニコフは、老婆の殺害によって「死んだラザロ」であり、ソーニャ=神こそが、彼の死んだ良心を蘇らせる唯一のものであることを示唆しているのです。

【ラザロの復活 】- Raising of Lazarus - レンブラント・ファン・レイン Rembrandt van Rijn
【ラザロの復活 】- Raising of Lazarus - レンブラント・ファン・レイン Rembrandt van Rijn

歪んだ燭台に立っている蝋燭の燃えさしは、
奇しくもこの貧しい部屋の中に落ち合って、
永遠な書物をともに読んだ殺人者と淫売婦を、
ぼんやり照らし出しながら、もうだいぶ前から消えそうになった。

ソーニャによって「ラザロの復活」が語られるのは、小説の第四編――死したラザロがキリストの呼びかけによって蘇る“四日目”の奇跡になぞらえられています。(ちなみに『罪と罰』は、神が世界を創造したとされる「7日」になぞらえて、7章立てになっています)
奇しくも、ソーニャがラスコーリニコフに読んで聞かせる聖書は、彼が殺したリザヴェータがソーニャに与えたものでした。
ドストエフキーが「罪と罰」で描きたかった主題のすべてがここにこめられています。

僕はお前に頭を下げたのじゃない。
僕は人類全体の苦痛の前に頭を下げたのだ。

歴史に残る名セリフです。
ソーニャの一途で美しい心に打たれたラスコーリニコフは、彼女の前で全身を屈め、涙する彼女の足に接吻します。

【マグダラのマリア】~Mary Magdalene ~ドメニコ・フェティ Domenico Feti
【マグダラのマリア】~Mary Magdalene ~ドメニコ・フェティ Domenico Feti

「何だってあなたはご自分に対して、そんなことをなすったんです!」
「お前はなんて妙な女だろう。僕がこんなことをいったのに、抱いて接吻するなんて。
お前、自分でも夢中なんだろう」
「いいえ、いま世界中であなたより不幸な人は、一人もありませんわ!」
「じゃ、お前は僕を見捨てないんだね、ソーニャ?」
「わたしはあなたについて行く、何処へでもついて行く!
わたし懲役へだってあなたと一緒に行く!

かくしてラスコーリニコフは老婆殺しの全てをソーニャに打ち明けます。
彼の中には、恐ろしい罪を打ち明けることで彼女を苦しめたい反面、彼女なら受け止め、赦してくれるだろうという期待があったのです。

「いったい僕はあの婆を殺したんだろうか?
いや、僕は自分を殺したんだ、婆を殺したんじゃない!
僕はいきなり一思いに、永久に自分を殺してしまったんだ!」

「お立ちなさい! 今すぐ行って、四辻にお立ちなさい。
そして身を屈めて、まずあなたが汚した大地に接吻なさい。
それから、世界じゅう四方八方に頭を下げて、はっきり聞こえるように大きな声で、
『私は人を殺しました!』とおっしゃい!
そうすれば神様がまたあなたに命を授けてくださいます。
行きますか? 行きますか?」

ここに老婆殺しの本質と「復活」の主題が表現されています。
冒頭に登場したマルメラードフの死と赦しの伏線が、ここで大きく実を結び、ラスコーリニコフの魂の救済へと導いています。

【 無原罪の御宿り 】-The Immaclate conception- バルトロメー・E・ムリーリョ Bartolome Esteban Murillo
【 無原罪の御宿り 】-The Immaclate conception- バルトロメー・E・ムリーリョ Bartolome Esteban Murillo

ついに警察に自首したラスコーリニコフは、シベリアに流刑になり、ソーニャも彼についてシベリアに旅立ちました。
しかし、受刑中もラスコーリニコフは一向に罪を悔いることがなく、しまいに他の受刑者たちから「この不信心者め!」と反感を買うようになります。やがて彼とソーニャは二人して病気になり、しばらく会えない日が続きました。
そして、ようやく再会したある日、彼の心に劇的に改悛の情が訪れ、二人は互いの愛情を確信しながら、新しい日々に向かうのでした。

どうしてそんなことが出来たか、彼は自身ながらわからなかったけれど、不意になにものかが彼を引っ掴んで、彼女の足元へ投げつけたような具合だった。
彼は泣いて、彼女の膝を抱きしめた。
彼女はさとった。男が自分を愛している、しかもかぎりなく愛しているということは、彼女にとってもう何の疑いも無かった。

ついにこの瞬間が到来したのである。
二人の目には涙が浮かんでいた。

彼らは二人とも蒼白くやせていた。
しかし、この病み疲れた蒼白い顔には、新生活に向かう近い未来の更正、完全な復活の曙光が、もはや輝いているのであった。
愛が彼らを復活させたのである。
二人の心はお互い同士にとって、生の絶えざる泉を蔵していた。

七年、たった七年!
こうした幸福の初めのあいだ、彼らはどうかした瞬間に、この七年を七日とみなすほどの心持ちになった。

ドストエフスキーは、この作品を構成するにあたって、ネーミング、章立て、聖書やロウソクといった小道具、すべてにおいて、キリスト教に象徴されるものを用いています。
なぜ「7年」なのか、これはもう、言うまでもなく「神による世界の創造」になぞらえたものであり、「7」という数字を見ただけで読み手は納得するのです。

この「復活劇」をクサイ! という人も中にはあるようですが、これは推理や不条理を期待して読む物語ではありません。

『罪と罰』は、小説の手法をとったキリストの精神そのものであり、そこから離れようとする現代人に対する警告の書です。

ドストエフスキーが敬虔なクリスチャンだったかどうかは分かりませんが、少なくとも、キリスト教=精神生活における絶対的真理というものが人間と社会において必要不可欠であり、それを失えば人間も時代も混沌とするということをシビアに見抜いていた哲学者であり、社会学者でもあった・・という気がします。

もし彼が現代に生きていたら、この科学と経済の時代を何と表現したことか――。

ドストエフスキーこそ、この世に復活して欲しい、永遠の作家の一人です。

謎とき 罪と罰

『罪と罰』の愛読者なら絶対に併せて読んで頂きたいのが、江川卓先生の 謎とき『罪と罰』 (新潮選書)

ご自身も原著の日本語訳を手がけておられるだけあって、作品に対する理解や雑学はもちろん、ドストエフスキーに対する熱い思い入れが随所に感じられるファン垂涎の力作である。

作品が書かれた時代背景や動機は言うに及ばず、人物のネーミング、作中に登場する数字、キリスト教との関わりなど、専門家ならではの的確な分析に加え、ドストエフスキーが精巧に張り巡らせた設定のパズルを一つ一つ解き明かす推理小説的な面白さもあり、原作体験とはひと味違う『罪と罰』の世界を満喫できる。

たとえば、

小説の冒頭、ラスコーリニコフの窮乏ぶりと異常な精神状態が語られるくだりに、次のような一説がある。

「彼は貧乏に押しひしがれていた。だが近頃では、この窮迫した状態ですらいっこう苦にならなくなった。自分のナスーシチヌイな仕事もすっかりやめてしまい、どだいその気がなかった」

わざわざロシア語で書いた「ナスーシチヌイ」という形容詞は、ふつう「その日その日の」とか、「しなければならない当面の」といったふうに翻訳される。
辞書にも「緊要な」「日々の」といった語義が出ており、当然、これを誤訳ときめつけるわけにはいかない。

ただ、どうしても引っかかるのは、この「ナスーシチヌイ」という形容詞が、日常にはめったに使われない、ほとんど文語的な語感をもった言葉だということである。
すこし先まで読めばわかるように、内容的には、これは家庭教師のアルバイトを指している。

それでは、なぜドストエフスキーは、「アルバイトもやめてしまい」とはっきり書かないで、意味もあいまいな、文体的にも不釣り合いな「ナスーシチヌイ」などという言葉を選んだのだろうか。いまの私の考えでは、ここには意味論のレベルを超えたある考慮が働いているように思われる。

当時のロシアの子供たちが、ほとんど三歳の頃から、意味も分からずに暗誦させられていたポピュラーなお祈りに、マタイ福音書六章の「天にましますわれらの父よ」がある。
その一節に、「われらの日用の糧を今日も与えたまえ」の一句があることは、キリスト教信者ならずとも知っているだろう。
ところが、ここに出てくる「日用の」という言葉が、ロシア語ではやはり「ナスシーチヌイ」なのである。

外国文学が日本語訳されると毛色の違うものになってしまう理由の一つに「ダブル・ミーニング」がある。

一つの単語が何重もの意味を持っていたり、あるいは全く違う意味を兼ねていることから、日本語に置き換えると、原語に託された幾つもの象徴がかき消されてしまうのである。

たとえば、英語の「present」は、「現在」という意味の他に「贈り物」「上演する」「引き起こす」といった様々な意味をもつ。
前後の文脈から「現在」か「贈り物」かは容易に察しがつくだろうが、作者は「present」という言葉に「今この瞬間の恵みと悦び」というニュアンスを込めて使っているかもしれない。
しかし、日本語訳されてしまうと、一方のニュアンスが打ち消され、意味が限定されてしまうことがある。
オリジナルを知りようがない日本語訳の読者は、それをそのまま作品の意図として受け取ってしまうから、そこに乖離が生じてしまうのである。

本当に外国文学を極めたいなら原語で読むのが基本とされるのは、まさにこの一点にあり、それはドストエフスキーの『罪と罰』においても全く同様である。

上記の「ナスシーチヌイ」をはじめ、作品のキーワードとも言うべき「ペレストゥーピチ(踏み越える、またぐ)」の持つ意味、「ラスコーリキ(ロシア正教会から分裂した分離派)」になぞらえた「ラスコーリニコフ」というネーミングなど、ロシア文学ならではの魅力が豊かに広がり、それは日本語訳からは到底近づき得ないものである。

とはいえ、今の日本で、どれほど「ドストエフスキー通」を自負しようと、原語ですらすら読める人が何人いることか。

となると、私のような「凡人」は、せめて江川先生の『謎とき本』を手にとって、二重、三重にも張り巡らされたドストエフスキーの文学パズルを垣間見るしか術がないようである。

ちなみに、江川先生の解説によると、「ロジオン・ロマーヌイチ・ラスコーリニコフ」のロシア語綴りの頭文字をつなげるとPPPになり、これはすなわちキリスト教『黙示録』に登場する悪魔の象徴『666』を示唆するという。

──「この刻印はかの獣の名、あるいはその名を表す数字である。ここにそれを解く鍵がある。賢い人は、獣の数字にどのような意味があるかを考えるがよい。この数字は人間の名を指している。その数字は666である」──
(オカルト映画『オーメン』の悪魔の子・ダミアンがこの印を髪の中に隠し持っていた)

『罪と罰』にオカルトまで絡んでくるとなれば、これはもう読むしかない。

おすすめです!!

「謎とき」とは? / 精巧なからくり装置 / 666の秘密
パロディとダブル・イメージ
ペテルブルグは地獄の都市
ロジオン・ラスコーリニコフ=割崎英雄
「ノアの方舟」の行方
「罰」とは何か / ロシアの魔女 / 性の生贄
ソーニャの愛と肉体 / 万人が滅び去る夢
人間と神と祈り/13の数と「復活」

ドストエフスキーを本格的に愉しむために。目立たぬところに仕掛けられた洒落、笑い、語呂合せ、言葉の多義性の遊び、パロディ精神。スリリングに種明かしする作品の舞台裏。

自身も日本語訳を手がける江川卓氏による『罪と罰』の解説書。
難解なイメージのあるドストエフスキーの作品を、推理小説のようにいろんな角度から分析している。
作品のテーマはもちろん、作中のちょっとした小物使いや舞台となったペテルスブルグの実際の街並み、主人公の名前が意味するところなど、非常に面白く解説しているので、まずはこちらから読み始めるのもいいかも。
『罪と罰』愛読者は必読です!!

【Amazon レビューより】
ドストエフスキーの『罪と罰』を多角的な視点とロシア語の語源から捉えて小説の奥に隠されている様々なメッセージを読み取っていくというまさに“謎とき”の楽しさを教えてもらえる本。改めて『罪と罰』が読みたくなった。

小説のなかの人びと / こころの暗がり / 人生の重荷
生きるよろこび / ロシアの光景
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作家たちと / ドストエフスキーの生涯

ドストエフキスーの文学には若者の魂を奥底から衝き動かす力があります。
極貧と絶望の果てに殺人へと駆りたてられるラスコーリニコフ、充たされぬ生活から大富豪を夢見るアルカージーなど彼の描く人物像は、時代を越えて現代人の内面を映します。
『罪と罰』『未成年』はじめ主要作品の短い言葉からその魅力に迫る。

中学生向けに書かれたドストエフスキーのアンソロジー集。
まさに名作・名文のおいしいとこ取りで、いきなり本作を読むのはどうも……という方には、うってつけの一冊。
現在、入手不可とのことだが、図書館にはあるかもしれない。
気軽にドストエフスキーに親しみたいという初心者はぜひ。

まんが

いきなり原作はキツイという方におすすめの漫画本。確かにラスコーリニコフがえらくイケメン。
今までまったく興味がなかった方について、とっかりとしてはいいと思います。

さらにグレードの高いものといえば、やはり手塚治虫先生でしょう。

まんが現代版「罪と罰」といえば、コレですね。私もアニメと原作、両方堪能しましたが、テーマはとても良かったと思います。
結末も。

こちらは異色の一冊。

最高とはどんなものかワシがこの本で教えたる
わたしと『罪と罰』
人間の本質 どこかあなたのそばにいる登場人物たち
『罪と罰』から社会の本質を見抜く眼力を養う
『罪と罰』の箴言を読む
ソーニャとラスコーリニコフはマルクス主義でしか救えへんのや

読みだしたら止まらない。業とゼニ地獄で苦しむ現代人を「罪と罰」は予言していた。
破天荒なナニワ的解釈で「地獄」からの解放を説く!!世界最高の文学『罪と罰』から社会の本質と人間の業を見抜く眼力を養う。

『ナニワの金融道』でお馴染みの漫画家、青木雄二による入門編。
エライ文学者が読んだら怒りそうなむちゃくちゃカジュアルな内容だが、率直な意見や感想が書かれていて面白い。
私としては「ラスコーリニコフのイメージ画はもうちょっと男前に描いてくれ」という感じだけど。
青木氏がこの作品を世界随一と評価し、大いに影響を受けた理由は分かる。
すってんコロリンな一冊。

関連書籍 【罪と罰―ナニワ人生学 (ハルキ文庫)

【Amazon レビューより】
ナニワ金融道はおもしろかったが、これはアカン。
文学を語っているわけではなく、ナニワ金融道のセリフ程度の内容であると考えておかないと、それこそぶったくりにあったように思う。青木雄二の漫画について、深みがある理由がこれでよくわかった。やっぱり、こういった古典がバックボーンにあるのだと納得がいった。

ロシア映画『罪と罰』

ドストエフスキーの小説を完全映画化した3時間20分におよぶ大作のようだが、レビューにもあるように、やはり小説の素晴らしさをそっくり再現するのは難しかったよう・・
私個人の感想を言えば、ラスコーリニコフのイメージは、もっとスウィート。
気難しいばかりではなく、どこかナヨナヨと、女性の保護意欲を掻き立てるような可愛らしさが欲しい。
やさぐれた黒髪のレオナルド・ディカプリオのようなのを求ム・・と言えば、原作至上主義のファンに怒られるのかな~。

※ YouTubeに全編アップされています『преступление и наказание』で検索してみて下さい。

映画『オーメン』

アメリカ人外交官のロバートは、ローマの産院で死産してしまった我が子の代わりに、同日・同時刻に誕生した孤児である男子を養子として引き取る。
ほどなくして、駐英大使に任命され、その後数年間、仕事や家庭も順風満帆で絵に描いたような幸福な生活を送るが、乳母の異常な自殺を境に息子ダミアンの周囲で奇妙な出来事が続発。
疑惑を抱いたロバートが、死産した息子の墓を暴いて知ったのは、ダミアンの忌まわしい出生の秘密だった……。
あの不朽の名作『ローマの休日』でダンディな新聞記者を演じたグレゴリー・ペックが、ここでは邪悪に翻弄される心優しき父親を演じている。
「パパ、お願い、僕を殺さないで……」我が子の哀願に一瞬気を緩めたロバートが辿った悲運とは……。
『エクソシスト』に並ぶオカルト映画の傑作であり、悪魔の子・ダミアンの『666』という刻印や、「6月6日午前6時生まれ」という設定が世間の話題をさらった。

§ 1999年のアーカイブ

本貧乏学生のラスコーリニコフは、『人間は凡人と非凡人とに分かれ、非凡人は既成道徳をも踏み越える権利を有する』『一つの些細な犯罪は、数千の善事で償われる』という理論のもとに、強欲な高利貸の老婆を殺害するが、偶然その場に居合わせた老婆の妹まで殺害したことから、罪の意識にさいなまれるようになる。
そんな時、信仰深く、心清らかな娼婦ソーニャに出会った彼の心に訪れた『復活の奇跡』とは……。

あまりにも、あまりにも有名な、ドストエフスキーの名作『罪と罰』。
その意味が分かるようになったのは、だいぶ大人になって、聖書を読んでからだ。
この作品の良さは、二言、三言で語り尽くせるものではない。
日本語訳に関しては、昭和26年に発行された、米川正夫氏によるものが群を抜いて優れている。
残念ながら今は廃刊となり、入手不可であるが、古めかしくも、格調高い表現は、まさに文学の王道と呼ぶにふさわしい。(苦手な人も多いかもしれないが)
米川訳が読めない新しい読者は本当に可哀想。
現代訳もいいのだろうけど……私はやっぱり、薫り高い米川訳が好きだ。

(注:記事冒頭にも書いていますが、米川版は2008年角川より復刊されています)

【Amazon レビューより】
この作品を軽い気持ちで読まないで欲しい。
安易な解釈ばかりされているようで残念だが、この作品のテーマである「罪と罰」とは単に主人公ラスコーリニコフの犯罪の事を言っているのではなく、人間全体を大きく見渡したものだからである。
恐ろしく冷たい視線で書かれた物語で、ラストが必ずしもハッピーエンドではないと解ったとき、私は思わず戦慄した。
思想のために生きるという、人間だけが持つ矛盾。そしてその後に待っているもの・・・
この本を手に取り、読んだ人は幸いである。私は生きているうちにこの本を読めて心から良かったと思う。
蛇足だが、夏目漱石の「こころ」と合わせて読むことをお薦めする。

——-

私は初め、罪を犯したあとに罰があるものだ!と考えていました。
しかしこの本を読んで思ったのは、罰とは常に罪と一緒にいるのだ、ということでした。
吸い寄せられるように読んでしまいます。ぜひ一度この本を開いてみてください。

初稿:1998年秋 HP【Clair de Lune】より

Photo : https://briefly.ru/dostoevsky/prestuplenie/

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