恐れは愛を失う 映画『血の伯爵夫人』より

映画『血の伯爵夫人』の続きです。。

多分、今も、世の多くの人が愛を失うことを恐れているだろうと思います。

ここでいう「愛」には尊敬、信頼、称賛も含まれます。

でも、皮肉なことに、失うことを恐れる人ほど、失う方向に物事を持って行ってしまうんですね。

愛を失うまいとするあまり、しつこく、しつこく、相手に電話し、メールを送り、次の約束を取り付けようとする。

愛を失うまいとするあまり、自分をよく見せようと必死になる。

愛を失うまいとするあまり、相手の行動や言動に神経質になる。

愛を失うまいとするあまり、他人の評価が気になる。

愛を失うまいとするあまり、目に見える形でしか物事を測れなくなる。

でも、多くの場合、妄想です。

女は美しくなければ愛されない。

男は立派でなければ愛されない。

子供はいい子でなければ愛されない。

社長は凄い人でなければ尊敬されない。

その思い込みが、自分を追い詰め、相手にプレッシャーをかけ、どんどん愛を遠ざける原因になるのです。

嫌いなものを好きになる

では、どうすれば恐れはなくなるか。

多分、「こうでなければ愛されない、称賛されない」というテンプレートに嵌まってる人は、日常的に他人を評定するのが癖になってませんか?

道で会う人、会社の同僚、周りを見回しては「あの服、ださい」「一人飯。孤独」「あのオヤジ、きもい」「ノロノロすんな、ぼけ」、他人のやること、見かけ、持ち物、いちいちチェックしては、突っ込み入れてると思うんですよ。

で、自分が評定好きだから、他人も自分に対して厳しく評定しているような気がする。

自分の持ち物、自分の振るまい、自分が他人を品定めするように、相手も自分を品定めしていると自分の中で決めつけ、恐れ、それゆえに自分自身ががんじがらめになっている状態です。

誰もあなたの事など気にも留めてないのに。

恐れをなくすには、自分自身が他人を品定めするのをやめ、相手の欠点や失敗を許せばいい。

相手の駄目なところを受け入れることで、自分の劣った部分を恐れなくなるし、他人というのは案外寛容だということも分かってくる。

人が人を愛するのは、その人が立派だから、美しいからではなく、欠点や弱さゆえに理解されるということが実感できると思います。

自分が見ている他人の欠点は、自分自身の欠点に他なりません。

他人が自分の映し鏡だから恐ろしく感じるだけで、その映し鏡である他人を許し、理解する中で、自分自身も強くなっていくのは本当です。

恐れは現実になる

映画『血の伯爵夫人』のエリザベート・バートリは、老いを恐れるあまり、若者の愛が信じられず、結果として愛を失いました。

「20歳以上の年の差も気にならない」というのは誠であったにもかかわらず、「老いた、醜い女は愛されない」という思い込みが、嫉妬と猜疑心を駆り立て、物事を悪い方に転がしてしまうのです。

そして、恐れる人は、皮肉なことに、恐れが現実になった方が都合がいいのです。

信じて、冒険して、愛を掴むステップを踏むより、自分からわざと壊して、「そら見たことか」と自分で納得した方が安心するんですね。

自分にとって未知のもの──恋愛においては相手を信じたり、理解したり、許したりする方が、はるかに勇気が要ります。

信じるよりは疑った方が楽だし、許すよりは憎んだ方が納得いく。

その間違った心の癖で、幸せになるものも破壊するのです。

エリザベートももう少し冷静になって、自分自身で確かめるなり、他の方策を取るなり、勇気を出して出掛ければよかったのに、「若い恋人に誠実などない。年上の女は捨てられて当然だ」というシナリオに自分を当てはめて、自暴自棄になりました。

もう少し相手を信じて、自分から働きかけるより、傷つく前に自分から見切りを付けた方が納得行くからでしょう。

こうなる、こうなると恐れていると、必ずそれは現実になる。

恐怖に打ち克つには、新しい行動や新しい価値観を受け入れ、チャレンジする強さがないと、なかなか難しい。

傷つくまいとする行動や考え方が、かえって最悪の結果をもたらすのは、いつでも罠けから抜け出せるネズミがその場でうずくまって、最後には死んでしまうのとよく似ています。

恐れと思い込みの罠は、いつでもあなたの心の中にあるのです。

Site Footer