「設定」と「表現」は違う 世界中のデリケートなテーマについて

最近、アイドル・グループが、ナチス・ドイツをモチーフにしたコスチュームを身に着け、パフォーマンスを披露したことで内外から批判を浴び、関係者が謝罪する出来事がありましたが、中には「納得いかない」「彼女らに罪はない」「外国人は黙ってろ。これが日本の文化だ」と反発する若い人もあるようなので、私なりに一つの見解を書き留めておきます。

最初、ネットでこの記事を見かけた時、「『宇宙戦艦ヤマト』は戦争賛美のアニメである!」という批判を思い出しました。

私が子供の頃、宇宙戦艦ヤマトが大ブームで、全国の少年少女が『さらば』のエンディングに涙し、将来は宇宙戦士になると豪語する級友も少なくありませんでした。あるいは、真田さんみたいに格好いい技師になりたい、ヤマトのオペレーターみたいにコンピュータを操作して、ハイテクな事をする人になりたい、という夢を高校・大学まで持ち越し、今現在、メーカーで開発職についている人も相当数いると思っています(うちの近所には松本零士オタク→情報工学のエキスパートになったのがおります)

それだけに、「ヤマトは戦争賛美のアニメである」「子供に見せるのは危険だ」という批判は、とてもショックであり、的外れにも感じました。

その頃は、実際に戦場で戦って、戦友らが悲惨な最期を遂げる姿を目の当たりにした方が、まだまだたくさんご存命でしたから、実存した戦艦をモチーフに、若い戦士らが命を懸けて戦闘に参加するアニメはどうよ?! という反発や違和感を感じられても、何の不思議もありません。

でも、ヤマトを最初から最後まで見れば分かるように、沖田艦長も古代進も決して自分から好きで戦争を仕掛けてる訳ではないし、がミラスが崩壊した折には「我々に必要なのは戦う事じゃない、愛し合うことだったんだ」と古代進む銃を投げ捨てる場面があって、子供心にも、「これは反戦の思いが根底にあるんだな」と理解することができました。ナレーションでも、「(たとえ敵国であっても)目の前に広がる光景は、一つの文明の滅亡であった」という内容があったと記憶しています。

そういう子供の目で見れば、「ヤマトは戦争賛美のアニメである」という批判は、言いがかりにしか見えないし、私らファンはそこまでバカじゃないよ、と言いたくもなる。

実際、今も「日本が戦争に巻き込まれたらどうしますか」→「真っ先に逃げる」という人が圧倒多数でしょうし、たとえヤマトに愛国心を高め、国のためなら命を犠牲にしても惜しくはない戦闘員を育てる、という意図があったとしても、それは完全にアテが外れて、現実には、自分の趣味にしか興味のない人間を多数育て上げた、というのが結果ではないかと思います。

ゆえに、お爺さま方の批判も杞憂であったと。

だとしても、ヤマトに幾多の戦闘場面が描かれているのは事実だし、それが戦争への興味を掻き立てる、祖国の為に命を捨てることが美化されている……といえば、その通りでしょう。ヤマトに限らず、STAR WARSも、インデペンデンス・デイも、今はやりのアラブ戦争ものも、「大義のために銃をもって戦う」という事がヒロイックに描かれ、『プラトーン』やジョン・レノンの時代のような反戦への嫌悪感が、ちょっと薄れてきている・・という傾向はあると思います。

そのように考えると、実際に戦争を体験したお爺さま方が批判の声を上げることに、まったく意味がないわけではない。

そのような見方もあるのかと、自分が盲信するアニメの世界観をまったく違った目で疑ってみる、というのも、一つの思考の試みに違いありません。

そういう意味で、大好きなアイドルにケチ付けられた怒りは理解できるけども、また一方で、世界がなぜこのパフォーマンスを批判するのか、違う角度で考察すると、よりアイドルへの愛情が深まると思うのですよ。

だって、これ以上、自分の大好きなアイドルを醜聞に巻き込みたくないでしょう。

彼女らも、上に指示されるがままに演技しただけであって、彼女ら自身が企画したとは到底思えない。

そういう意味でも、ファンが高い認識を持って、今後こうした誤解や批判の犠牲者とならぬよう、守ってあげるのが大事だと思うのですよ。

でないと、また似たようなノリで、顰蹙をかって、傷つくのは他ならぬアイドル自身なのですから。

*

歌や演劇に限らず、絵画でも、アニメでも、映画でも、デリケートな話題を扱うのは非常に難しいものです。

あっちを立てれば、こっちの角が立つ、で、万人に受け入れられる表現というのは、まあ、無い。

でも、「設定」と「表現」の違いを理解するだけでも、多くの誤解は避けられると思います。

たとえば、ナチスのコスチュームも、映画監督が第二次大戦をテーマにした作品を撮影するにあたって、ドイツ人将校役にその服装を着せるのはアリなんです。なぜなら、それは「設定」だから。

なおかつ、その作品に、「戦争とは、人権とは」という強いメッセージがあり、一つの文脈の中で「ナチスの制服を着たドイツ人将校」が登場しても、それは批判の対象にはならないですね。

だけども、何の文脈もなく、思想もなく、ただ単に「カッコいい」「面白い」というだけでパフォーマンスするなら、それは「表現」であって、時代考証として登場する軍人の制服とはまったく意味合いが異なります。

そして、その表現も、人類共通の認識である平和の願いや平等の思想に基づいてなされたものなら、それなりに受け入れられるものです。もちろん、その中には、笑えない風刺画などもあり、それはそれで議論すべき問題なのですけどもね。

でも、今回は、そうした文脈がまったくないところに、お洒落やポーズのようなノリで、ぽーんと登場したから、「制作者の認識を疑う」という話になった。

それも、大勢の犠牲者が生じた史実に基づくアイテムだから、世界中が敏感になるのは当たり前なのです。

あるいは、原爆に置き換えてみましょう。

ハリウッドの映画監督が、第二次大戦を描くにあたって、エノラ・ゲイやそのパイロットを「物語の構成要素」として登場させても、そのこと自体に目くじらを立てる人は、まあないと思います。それは「設定」だと分かってるから。
(ちなみに原爆投下をどのように描くかは「表現」に含まれます。これは是非が問われます)

でも、アメリカのコメディアンが、「日本がTPPに反対してるって? じゃあ、もう一回、原発を落とせばいいじゃん。そこらじゅう、焼け野原になって、野菜もとれなくなったら、向こうの方から諸外国に頭を下げて「野菜を売ってくれ」と言ってくるぞ、ガハハ」と笑い話にしたら、みな激怒しますよね。

それは皮肉やジョークの類の「表現」だから。

それも「表現の自由」と思います?

コメディアンで、ジョークなら何を口にしても許されると?

それと同じように、ナチスのコスチュームも批判されたわけ。

日本人にも冗談にされたくないデリケートな話題があるように、諸外国にも「カッコいい」とか「お洒落」みたいな感覚で扱って欲しくないテーマがある。

そこは対等に受け止めないと、これからも行く先先で批判されることになってしまいます。

「日本には日本の表現がある。海外の意見など無視すればよい」という考えも、見方を変えれば、諸外国で実際に起きている少女の性器割礼や少女婚、名誉の殺人や公開処刑について、「オレたちの部族は何百年とこのやり方で通してきたんだから、外国人は黙ってろ」という理屈と似たようなレベルです。

確かに、国や部族には独特の文化習慣があり、それを外部の人間がとやかく批判すべきではないけれど、上記については、不衛生な環境で重篤な感染症を起こしたり、未熟な身体で妊娠して命を落としたり、行動や発言の自由を制限されたり、一方的に殺害されたりしてるわけでしょう。

数百年前の中世期ならともかく、現代は、そういう時代ではない。

まして、多くの少女らが痛み、苦しみ、命を落としている現状を考えれば、もういい加減、文化習慣を見直して、せめて身体的なリスクを伴うことは回避しましょう、と働きかけているのが、世界のトレンドです。

そういう流れの中で、諸外国から、「アイドルにナチスの格好をさせるとは、どういう了見だ」「この商法は少女の性の搾取ではないか」と批判がくる。

それについて、「これが我が国の文化です」で一蹴するのは、国際批判を頑として受け付けず、今も文化の名の下に少女の性器のを削ぎ落とし、十歳の女の子に結婚を強制して、SNSにセミヌードの写真をアップしたからと石打ちの刑に処す頭の固い部族長とたいして変わらないように思うんですね。

それも極地の未開の国ならともかく、曲がりなりにも「世界のリーダー」「文化・経済の先進国」を自負する国が、そんな感覚では困りますよ、と肩を叩いているのが現状で、取り下げたら負け、というものではないのです。

ファンというのは、「自分の好きな気持ち」以上に、ファンとして作品を守る気概や愛情も大切だと思います。

たとえば、作家の田中芳樹先生は、二次創作のガイドラインとして『その二次的著作物が過激な性描写(異性間、同性間を問わず)を含まないこと』を条件に盛り込まれています。

私もスゲーのを幾つか目にしましたから、何を言わんとするか、だいたい想像はつきます。

そして、本当のファンならば、ミッターマイヤーやキルヒアイスのサイドストーリーをいろいろ考えて、ファン同士できゃっきゃと盛り上がる一方(多少のエロはあったとしても)、田中先生のキャラクターを利用して公序良俗に反するような事はやっぱり控えなければならない。

なぜって、どんな形であれ、その二次創作が年少の読者らに悪影響を及ぼすとしたら、それは、田中先生にまで繋がっていくからです。

銀英伝って、こんなハレンチな作品なんだ。

田中芳樹という作家は、こんなえげつないものを容認してるんだ。

世間が誤解することは、自分たちで好きな作品や作家を貶めていることに他なりませんよね。

そのリスクを無視して、「何をどう表現しようが、オレたちの自由だろ」で通すのは、ファンであって、ファンにあらず。

「こういう事が問題になっています」と作家の側から提示されたら、それを謙虚に受け止めて、田中先生の作品がもっともっと世の中の人に理解されて、愛されるよう、ファンなりに応援する気持ちで、楽しい、どきどきするような二次創作するのが、ファン魂だと思いますよ。それまで銀英伝なんか見向きもしなかった人も、「へー、ローゼンタールとか格好いいな」という興味から原作を手に取る、みたいなね。それなら田中先生だって喜ばれるでしょう。

日本のアイドル文化もそれと同じ。

何について批判されているかを正しく理解し、協力することが、大好きなアイドルを守ることになります。

ファンが高い意識をもって、「そういうやり方はNO」を突きつければ、プロデュースする側も考えを変えるし、需要のないところに供給はないのですから。

誤った売り方に乗ることは、アイドルを追い詰め、マーケットの奴隷にすることでもありますし、それがファンの正しい愛とは到底思えないのです。

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阿月まり

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