Cherish The Day (2) ~恋におちて~

『わたしは恋なんかしたくない、だけど恋してしまった』
そう書き始めたのは、いつの日のことだったろう。
病院からの帰り道、傾斜35度の坂道を転げるように自転車で駆けながら、ある朝、私ははっきりそう自覚した。
自覚したとたん、訳もなく嬉しくなった。
夜勤明けの青空が、透き通るくらい眩しく見えた。
『私は今、恋してるのよ!』
と世界中の人に向かって叫びたいくらい、胸がはずんでたまらなかった。

――何故だろう?
時の流れは、いつもと変わらない。
目に映る風景も、前と少しも変わらないのに、すべてが新しく、輝かしい。
突如として、自分の胸の内に芽生えた、たった一つの想いが、世界の色をすっかり塗り替えてしまった。
それまでの心の空白を完全に埋め尽くすほどに……。

実際、『恋』ほど不思議なものはない。
それは、どんな魔法より強烈で、刺激的だ。
何より、すべてを新たにするほどの、香しい悦びに満ちている。
恋を知らない魂など、死んだも同然だ。
情熱の無い人生など、生きるに値しない。
恋を嘲笑う人間がいるとしたら、その人の心はブリキで出来ているのだろう。
恋は、あらゆる不可能を可能にし、上智を超えた奇跡を起こす。
恋こそ、人間のもつ、あらゆるエネルギーの結晶だ。

この世に生まれて、生きて、至上の幸福は何かと問われれば、自分とは違う、もう一つの魂――その全存在と、一つに結ばれることだ。この永遠とも思える悦びの前には、どんな立派なものも色褪せて見える。
それが無ければ、あらゆるものが無意味に思える。
人間は”ひとり”だからこそ、”もう一人”の人間が必要であり、一度、それを見つけたら、代わりになるものなど何一つない。
たとえ自分から全てのものが失われても、恋する人の優しい気持ちがあれば何も怖くないし、幾千万の慰めの言葉より、恋する人のたった一つの微笑みが心を満たすものだ。

そうして、行きつけのスーパーの前まで来た時、花売りの軽トラックにふっと目が行った。
トラックの前には、色とりどりの花が並べられ、買い物帰りのおばさん達が足を止めて見入っている。
私も花の色に誘われるように自転車を飛び降りると、買い物客に混じって、色とりどりの花を楽しんだ。
そんな私の目に飛び込んできたのが、可愛いバスケットにデコレーションされたミニ・バラだった。
まるで生まれたての悦びみたいに小さく、あどけなく、冷たい風の中に冴え冴えとした赤色をひらめかせている、三本のミニ・バラ――。
それまでバラといえば、フランス王妃みたいに気高く、艶やかな真紅の薔薇が好きだったけど、今は不思議とその小ちゃなバラが愛しく見えた。そして私は自分のありったけの想いと願いを込めて、そのミニ・バラを買ったのだ。

私は自分というものが本当に不思議でならなかった。
自分の中に、まだ『人を恋する感性』が残っていたとは思いもしなかったからだ。
私はもうこういう年齢だし、身体だって悪い。
今まで余りにもいろんな事があり過ぎたせいか、男というものが、すっかり嫌いになっていたし、もう誰に出会っても、人を好きになる事などないだろうと思っていた。
かつて、自分の仕事(将来)とオトコを秤にかけて失敗し、オトコのズルさや身勝手さ、いやらしさというものを嫌というほど思い知らされてきた私にとって、自分の”愛”ほど貴重なものはなかったし、
それを守る為の孤独なら全くいとわないというのが、正直な気持ちだった。

同じ愛するなら、――どうせ私は自分の持ってる”愛”のすべてを捧げてしまうのだから――愛するにふさわしい人間を愛したい。
気まぐれに、安っぽい恋愛をするぐらいなら、初めからしない。
たとえ淋しくても、淋しさをまぎらわす為の付き合いならば、絶対にしない。

そういう信条を、ここ数年貫いてきた私にとって、今、自分が『恋してる』という事実は、たまらなく新鮮で、刺激的だった。
私は自分が”女”だということを、しみじみ思いながら、――私はそれすら忘れるように努めてきたのだ――何度も何度もあの瞬間を……あの人が私に笑いかけた、あの一瞬を、ストップモーションのように胸に浮かべては、不思議な感動にふるえた。
よもやこの年になって、小娘みたいに人を恋する日が来ようなど思いもしなかっただけに、私はすっかり我を失い、理性を失い、夢のような悦びにどっぷり浸かっていたのである。

……ところが、次にあの人に会う前の夜になって、私はふと、自分の恋した相手が誰か、今更のように考え始めた。
恋したところで、相手は、想いを打ち明けることさえ許されない立場の人間である。
いずれ傷ついて、泣くハメになるのが目に見えているではないか。

……そう思った瞬間、血の気が下がり、先に待ち受けている計り知れない悲しみに凝然となった。
この恋には、始めも無ければ終わりも無い――。
何処にも行きつく先が無い――。
あるのはただ悲しい結末だけである。
それは幸せなどとは程遠い、救いようのない恋だ。
それを抱き続けることは、先にある悲しみをも引き受けることを意味する。
今日のトキメキも悦びも、新たな悲しみの前兆に過ぎず、幸せの萌芽どころか、目に見える不幸の種に他ならない。
私はのぼせた頭の片隅で、いつか泣き崩れる自分の姿を思いながら、(捨てられるものなら、今、この瞬間にも捨ててしまいたい)と祈った。
全てが掻き消えて、何も知らなかった頃に戻りたいと願った。

だけど、その想いの切っ先は、すでに胸の奥深くに深々と食い込んで、私を放してはくれなかった。
自分の意志とは無関係に恋に落ちるのと同様、恋を捨てることも意志や理性の力でどうにかなるものではない。
悦びと絶望の狭間で凝然としながら、私は唯一つの事だけを必死に自分に言い聞かせた。
(気付かれてはならない……決して悟られてはならない。
普通に振る舞うんだ、普通に……そうすれば、いつかきっと平常心に戻るはず……)

初稿:1999年4月16日 メールマガジン 【 Clair de Lune 】 より 

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