「ゲッセマネの祈り」と「男は死んでも櫻色。」

Agony in The Garden。

直訳すれば「庭園での苦悩」。

でもキリスト教圏では、「ゲッセマネの祈り」を意味します。

他にも『オリーブ山の祈り』とか『ゲッセマネの園』と呼ぶことがあります。

オリーブ山の祈り マンテーニャ
オリーブ山の祈り マンテーニャ

Agony in The Gardenは、聖書の中で、そしてイエスの生涯の中で、私が一番好きな場面です。

かの有名な『最後の晩餐』の後、イエスは、ヤコブとヨハネの二人の弟子を連れて、ゲッセマネの園(オリーブ山)に向かいます。

この時、すでにユダの裏切りを知り、その後の運命を予見したイエスは、ひざまずいて天の父に祈ります。

「父よ(神を指す)、この杯(死と苦難を意味する)を私から取り除けてください。しかし、私の望みからではなく、あなたの御心のままに」

すると天使が天から現れて、イエスを力づけました。
イエスがますます熱心に祈ると、汗が血のしたたるように地面に落ちました。

遠くには、彼を捕らえに来たローマ兵の姿が見えます。
捕らえられば、死は免れません。

イエスも「神の子」とはいえ人間ですから、死は恐ろしいものです。
しかも反逆者として捕らえられるのですから、恐ろしい拷問や辱めを受けるのは必至です。
その過酷な運命を思えば、たとえ父なる神に守られてるとはいえ、血の滲むような苦痛を感じるのは当然です。

だからイエスは言いました。「この杯を取り除けてください」と。

それが人として当たり前の気持ちでしょう。

けれど次の瞬間には、こう言います。
「しかし、私の望みからではなく、あなたの御心のままに」

自分の望みとしては、苦難を取り除けて欲しいけれど、それが父なる神の意志ならば、私はお受けします、という潔さですね。

「運命を享受する」= 潔さ が有るか無いかで、人間も大きく違ってきます。

人間の最高の格好良さって、「潔さ」だと思うんですよ。

たとえば、終わった恋愛から潔く身を引くって、誰にでも出来ることじゃないでしょう。
押して、戻して、「あ、やっぱり駄目だ」と分かった瞬間、さっと身を引く──。
誰にでも出来そうで、出来ることではないです。

人間の器がどこで決まるかというと、どこまで運命や物事に「決然」となれるかでしょうね。

結論に至るまでの過程は、失敗しようが、悶々としようが、遠回りしようが、納得いくまで煩悶すればいい。
それこそ傍で見てても哀れなほど苦悩すればいいと思います。

でも一度、心を決めたなら、どんな結果をもたらそうと「決然」と立ち向かう。

たとえ失敗しても、傍で見ていて格好良いです。決して恥にはなりません。

ちょっと脱線しますが、三島由紀夫が格好良いこと書いてますよ。

男は死んでも櫻色。
切腹の前には 死んでも生気を失わない様に
頬に紅をひき、唇に紅をひく作法があった。

そのように敵に封じて恥じない道徳は
死の後までも自分を美しく装い
自分を生気あるように見せるたしなみを必要とする。

まして生きているうちには、
先ほどからたびたび言った 外面の哲学の常然の結果として、
二日酔いの青ざめた武士としての
くたびれた有り様を示すものであるから
たとえ上に紅の粉をひいても、
それを隠しおおさなければならない。

美しいものは 強く生き生きと
エネルギーにあふれていなければならない。
それがまづ第一の前提であるから、
道徳的であることは美しくなければならないことである。
しかし それは衣装を吟味したり 女風になることではなくて
美と倫理的目的とを最高の緊張において結合することである。

葉隠入門 (新潮文庫):うつし紅粉 より」

上記(初稿:1999年)


「武士道とは、死ぬ事と見付けたり」で名高い「葉隠」は、自由と情熱を説いた書である。私にとってただ一冊の本、と心酔し、実践することに情熱を注いだ三島由紀夫が、現代に生きる「葉隠」を説く──。

当然のことながら、武士の時代と現代では、死の形も重さも違う。

今は「生きる」ことに重点を置く時代。それも、1日も長く、健康に、豊かに生きることがよしとされる。

そんな現代の「潔さ」は、どこに見出せばいいのか。

というより、その潔さを評価する精神的土壌があるのか。

もし、この現代にイエスが生きて、十字架にかけられ、幾千万の見物人の前で「父よ、彼らをお許しください。彼らは自分が何をしているのか分かっていないのです」と言ったら、それは伝説を超えて、神の言葉となるだろうか。

(´・ω・`)知らんがな という人もあるかもしれない。

もう、そういうことで感動する時代じゃないのだ、多分。

母親の悲しみだけは、今も変わらないけれど。

ミケランジェロ ピエタ
ミケランジェロ ピエタ

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