ヴィア・ドドローサ 悲しみの道

聖都イスラエルには、今も『ヴィア・ドドローサ』と呼ばれる路が残されいます。

ラテン語で「悲しみの道」を意味するこの路は、イエスが、ローマ総督の裁判により十字架を背負い、ゴルゴダの丘(刑場)まで歩いた道として知られ、今も年一回の聖金曜日には、世界中から巡礼者達が祈り歩きにやって来るそうです。

エル・グレコ 十字架を運ぶキリスト
エル・グレコ 十字架を運ぶキリスト

私がイエス・キリストの伝記を手にしたのは、子供の頃、チャールトン・ヘストン主演の名画『ベン・ハー』を見たのがきっかけでした。

あの凄まじい戦車レースの場面もさることながら、重い十字架を担ぎ、群集に罵られながら道を歩いていくイエス・キリストの姿(宗教的理由から、役者の顔は決して映りませんでしたが)が、子供心に強烈な印象を残したのです。

私は誕生日のプレゼントに子供向けの伝記を買ってもらい、ベッドの中で泣きながら読みました。

そして「私もクリスチャンになるぅ~」と言ったら、「うちは浄土真宗やからダメ」と一蹴にされました。
「うちらが死んだら、誰が仏壇と墓を守るんや」
というのが、親の言い分でした。

それでも私はイエス・キリストの心ひそかなファンでした。
前にも書きましたけど、その決然たる生き様に引かれるからです。
……聖書の教えには付いていけない部分もありますけど。

いつもいつも思うのは、イエスがどんな気持ちで重い十字架を背負って歩いて行ったか、という事です。
「これを丘まで運んだら、処刑は取りやめにするよ」とか
「見事に死んでみせたら、君の教義を認めるよ」とか
そんな希望やご褒美はどこにも無い。
ただ死ぬだけ。
死ぬ為に運ぶんだもの。
はっきり言って、嫌ですよ。

「何の為」、「誰の為」――
それより大事なのは、何が彼に「運ばせたか」ということです。

意地でしょうか。
ヤケクソでしょうか。
天使の力でしょうか。
死後の栄光ゆえでしょうか。

何であれ、生半可な気持ちでなかったことだけは確かです。

『人は皆、重い十字架を担いで、ヴィア・ドドローサを行くイエス・キリスト』

途中でうずくまる人――
十字架を降ろす人――
人に手伝ってもらう人―― いろいろですね。

肝心なのは、最後まで歩き切ることでしょう。大変でも。

初稿:1999年6月3日

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