一億総病人時代 ~高度医療でも癒せないもの~

日本人は病院が好きである。
世界で一番病院の好きな民族ではないかと思うぐらい、みんな病院に通うのが好きだ。特にお年寄り。

(注)ここで定義! 「病院に行く」というのは、科学的治療の為に訪れる非日常的な行為を指し、散歩がてらに「病院に通う」事とは区別されます。

朝はまだ夜も明けぬ五時、六時から外来診察の順番取りに並び(あんな寒いロビーに、朝早くからじっと座り込んでいるから、具合が悪くなるんじゃないのか?)、老化現象さえも「薬で何とか治せ」と迫るお年寄りたち。

どんなに医療技術が進んでも、“老い”と“死”は避けられない現象だし、そもそも日本人は他のどの民族よりも、“死”というものを正面から見詰められる哲学を持っていたはずではなかったか?

昔は飢えもあれば、疫病もあった。

戦もあれば、天災もあった。

何より、家族や友人たちが揃って人の死を家の中で看取った。現在と比べれば、「死」は非常に身近で、当たり前のものだったはずだ。

ところが文明の進歩や生活の豊かさは、人から死を遠ざけ、死生観さえ変えてしまった。

「生と死」は一体のものなのに、「死」は“当たり前の現象”から“不運な出来事”に変わり、 それを体験する者も、傍で見守る者も、「死」を真っ向から見詰める事ができなくなってしまった。

老いや病や、死の恐怖を克服する為に生まれ、心の支えとなってきた宗教や哲学といったものが、今では薬や技術に置き換わっている。

おエライ先生の言う事がまさしく“神の言葉”であり、病院こそ「現代社会の駆け込み寺」となっている。

もちろん、医療に救いを求めるのは、誰しもの願いである。

医療者側も、患者がより良い方向に向うよう、精一杯努力する。

だが、医療技術は、身体は治せても心までは治せない。

この世に不老不死の薬が無いように、孤独や、無為に過ごした人生の空しさまでは埋めてくれないのである。

「病院がすべて」「病院に来る事だけが楽しみ」という人達を見ていると、病院の職員にしか相手にされない哀れな境遇をつい想像してしまう。

それがお年寄りであれば、尚更、薄ら寒いものを感じる。人生の最期にしては、あまりにも侘びしい光景じゃないか。

そりゃ、家にいても邪魔物扱いされ、手塩にかけた息子も嫁も優しい言葉の一つもかけてくれない。そんな惨めさに堪え忍ぶぐらいなら、月に千円チョット出して毎日病院に通った方が気分良いもんね。
看護婦さんは優しいし、医者は意のままに薬や点滴を処方してくれる。CTやMRIみたいな高い検査も、何回したって医療費は変わらんし、ツケはぜ~んぶサラリーマン諸君が支払ってくれる。
(今の十代、二十代よ、将来を覚悟せよ)

家で寝込んで邪魔物扱いされるぐらいなら、入院した方が極楽だし、家族も喜ぶ。

現在、多くの病院が【姥捨て山】化しているといっても過言ではあるまい。

外来診察の順番取りのアルバイトが流行ったり(すごく時給が良いそうだ)、患者送迎専門タクシーが出現したり、睡眠薬・精神安定剤漬けの老人が巷を徘徊したり……こんな異様な光景が見られるのは日本の病院だけではなかろうか。

病院はホテルでも、クラブでもない。

本来、家族が担うべき役割を、全面的に医療者に押し付けてどうする?

そうして明日も、家庭にも社会にも行き場の無い年寄りたちが、優しい言葉と慰めを求めて病院にやって来る。

「**先生」という、な~んでも言う事を聞いてくれるミロクボサツを拝みにやって来る。

そうして医療費はますます膨れ上がり、今の若い世代は、働いても働いても手取りが上がらない時代を迎えるのだ。

(年金・保険料はまだまだ上がるぞ)

「病院に通う」のが悪いとは言わない。

問題は、「病院にしか行き場が無い」状況を作り出している家庭にあり、抜本的な制度改革に乗り出さない政府にある。

(なんせ「医療・福祉制度を改正し、一部負担を増額する」なんて言ったら、たちまち高齢者の票を失うもんね。)

『超高齢化社会に向けて、施設や制度の充実を』なんてエラそうに言ってるけど、それに従事する人材を必要数確保できる自信があるのか?!

キツイ・キケン・キタナイ……無限Kの仕事を希望する若い人手を集められるのか?

オムツ交換に食事介助、シーツ交換に全身清拭、 呆けたジイサン・バアサンの下の世話から、薄情な家族のケアまで、真心もって一生懸命できる人間を、現場に必要な数だけ集められるのか?!

《箱》だけ作っても、まるで無意味だ。

サービスの本質は、結局それに従事する人間の質で決まるのである。

今でさえ医療・福祉の現場は人手不足ときている。
この大不況、失業者数増大のご時世にもかかわらずだ。
まともに家族の面倒も見られない人間がバカバカ増えていく中で、ハードを支える人材が育つのか。
いや、それ以前に、それを志す人間が多数集まるのか……?

疑問は果てしなく続く。

病院が好きなのは、もちろん年寄りばかりではない。

家庭にも職場にも住処の無い若人や中年諸君もまた、慰めと心の拠り所を求めてやって来る。

「頭が痛い」「身体がだるい」「眠れない」……etc。

一通り検査をする。何も異常はない。

普通は安心するものだが、彼らは一様に納得しない。

【病名】が欲しいからだ。

“私のこの苦しみ”を社会的に認知してくれるもの――“私の辛さ”を具体的に表現し、なおかつ家族や他人の同情を引くに値する【病名】を付けて欲しいからだ。

もちろん“この苦しみ”を取り除いて欲しいという思いもあるだろう。

だが、それ以上に、傍から見れば「怠け病」「ウツ」とか思われがちな“この苦しみ”に、立派な【病名】を付ける事によって、周囲の理解と同情を得、自分の置かれた不利・不当な立場を逆転させたいという想いが潜んでいるのも確かである。

なぜなら“この身体のだるさ”が、「白血病」とか「**症候群」といった大した病気のせいなら、《陰気な病人》も一転して《悲劇のヒロイン》に早変わり、今まで冷たい目で見ていた周りの人間も、その人を大事にしなければならなくなるからである。

実際、そんな大した病名が付いたら付いたで、あたふたするのが人間なのだけど、心の裏側でそれを望んでいるのもまた事実なのだ。

病気は苦しいが、その一方で様々な恩恵を与えてくれる。

その第一が周囲の関心と同情だ。

病気になり、不幸になる事で、《他人の中の私》を確認する事ができる。放ったらかしにされた子供が熱を出したり、お腹を下したりして、全身で自分の淋しさや不満を表わそうとするのとよく似ている。

第二は現実問題からの逃避である。

確たる【病名】は黄門様の印篭よろしく、“苦しい私”を現実問題から合法的に遠ざけてくれる。

【病名】が無ければ、どんな訴えも愚痴や弱音でしかない。

“苦しい私”を認めさせるには、ドクターお墨付きの【病名】が不可欠なのである。

【病名】を求め、自ら《病んだ私》になりたがる人間は多い。
そうでもしなければ周囲の理解や関心を得られない、あるいは現実に立ち向かえない、その心の有り様に、いっそう深い孤独を感じてしまう。

病院に来る人を見ていると、病んでいるのは、むしろ家庭であり、社会であり、現代人そのものではないかと思うことがしばしばだ。技術ばかり先進させて、人間を育ててこなかったツケが、今、いろんな形で現れているようにも思う。

ン十年前に比べれば、医療技術は飛躍的に進歩し、優れた新薬も多数開発された。治らなかった病気も、短期間で完治するようにもなった。

だが、相変わらず人は「病んでいる」。
心の救いを求めてる。
それは肉体の苦痛より、もっと耐え難い苦しみだ。
家庭にも社会にも居場所の無い人々が、恨みの声を上げて私たちの袖を引っ張る時――
薬や技術では癒せぬ苦しみに、嘆きの声を上げる時――

人は究極、何を求め、何にすがって生きているかという事をつくづく考えさせられずにいない。
そして、医療の限界が何処にあるかを。

初稿:98/08/30 (日) メールマガジン 【 Clair de Lune 】 より 

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